ギクシャク期
「ちょっと待ってください! それは絶対に――あっ、危ない!」
禁書館の実習室で、私は慌てて魔法を展開しようとした。アーガムが誤って実験用の魔法陣に触れてしまい、暴走し始めた魔力の波動が部屋中に広がっていた。床に描かれた魔法陣が青白く光り、空気が震えている。本棚の本がパラパラと勝手にページをめくり始め、窓ガラスがビリビリと振動していた。
「《鎮まれ――カーム・ダウン》」
私は抑制魔法を唱えた。いつもなら完璧に制御できるはずの基礎魔法だ。でも――
パチッ。
魔法陣が弾けた。いや、弾けたというより――私の魔法が暴発した。
「え!?」
制御を失った魔力が、部屋中に散らばった。本棚から本が次々と飛び出し、まるで鳥の群れのように宙を舞い始めた。椅子が浮かび上がり、机がガタガタと震え、実験用の試験管が一斉に倒れた。
「うわっ! ネイサ、何やってんだ!?」
アーガムが驚いて叫んだ。彼の赤毛が魔力の余波で逆立っている。
「す、すみません! 今、止めます!」
私は慌てて修正魔法を唱えようとした。でも――アーガムの顔を見た瞬間、心臓が激しく跳ねた。彼の翡翠色の瞳が、驚きと心配で大きく見開かれている。その視線を受けて、私の思考は一瞬止まった。
――ダメだ、集中しないと。
「《戻れ――リターン》」
魔法を唱え直した。でも、焦りから詠唱が乱れ、魔力の制御がうまくいかない。宙を舞っていた本の一部は元の場所に戻ったが、残りはそのまま床に落下した。
バサバサバサッ!
「いたっ!」
アーガムの頭に、分厚い魔導書が直撃した。
「あ、アーガム様! 大丈夫ですか!?」
私は駆け寄ろうとして――自分の足に引っかかって転びそうになった。慌てて体勢を立て直す。心臓が口から飛び出しそうなほど激しく鼓動している。顔が熱い。手のひらに汗が滲んでいた。
「痛ってて……なんだよ、この本重すぎだろ……」
アーガムは頭をさすりながら、床に落ちた本を拾い上げた。『古代魔法大全 第七巻』――確かに分厚くて重い本だ。
「本当にすみません……」
私は申し訳なさと恥ずかしさで、顔を上げられなかった。床に散らばった本や試験管を見つめる。自分の不甲斐なさに、胸が痛んだ。
「いや、俺が悪かったんだって。勝手に魔法陣触ったし」
アーガムは優しく笑った。でも、その笑顔が――また私の心臓を激しく跳ねさせた。
「でも、お前……最近、魔法の制御おかしくねえ?」
彼の指摘は正しかった。ここ数日、私は何度も魔法を失敗していた。簡単な魔法でさえ、暴発させたり、制御を失ったりしていた。全て――アーガムのことを意識しすぎているせいだ。
「ちょっと……疲れてるだけです」
「そっか……無理すんなよ」
アーガムは心配そうに私を見た。その優しい視線が、胸を締め付ける。
――こんなの、私らしくない。
私は拳を握った。爪が手のひらに食い込んで、痛みが走る。でも、その痛みで少しだけ冷静になれた気がした。
片付けを終えた後、私たちは通常の目録作成作業に戻った。秋の午後の陽光が窓から差し込み、埃が光の中でキラキラと舞っている。静かな禁書館に、ページをめくる音とペンを走らせる音だけが響いていた。
私は机に向かって、魔導書の情報を記録していた。タイトル、著者、出版年、状態、保管場所――いつもなら機械的にこなせる作業だ。でも、今日は何度も書き間違えていた。アーガムが同じ部屋にいる。それだけで、私の集中力は散漫になっていた。
「ふう……」
アーガムの溜息が聞こえた。私は思わずそちらを見てしまった。彼は椅子に座って、本を読んでいる。いや、読んでいるというより――退屈そうに眺めている。時々、あくびをしたり、伸びをしたりしている。その仕草の一つ一つが、妙に気になった。
――見ちゃダメだ。仕事に集中しないと。
私は視線を戻した。でも、すぐにまた彼の方を見てしまった。今度は、彼が髪をかき上げていた。赤毛が指の間からこぼれ落ちる。その何気ない動作が――なぜかとても魅力的に見えた。
ドクン。
心臓が跳ねた。私は慌てて視線を逸らした。でも、もう集中できなかった。頭の中は、アーガムのことでいっぱいだった。
「なあ、ネイサ」
突然、彼が話しかけてきた。
「ひゃっ!」
私は変な声を出してしまった。手に持っていたペンを落とし、それが床に転がっていった。
「お、お前、大丈夫か?」
アーガムは驚いた様子で立ち上がった。
「だ、大丈夫です!」
私は慌ててペンを拾おうとした。でも、焦りから手が震えて、なかなか掴めない。三回目でようやくペンを掴んだ時には、顔が真っ赤になっていた。
「本当に、大丈夫か? 最近、お前変だぞ」
「へ、変じゃありません!」
私は必死に否定した。でも、声が上ずっている。自分でも分かった。
「いや、変だって。さっきも魔法暴発させたし、今もペン落としたし」
「それは……ちょっとしたミスです」
「ちょっとじゃねえだろ。ここ数日、ずっとそんな感じじゃん」
アーガムの指摘は的確だった。確かに、私はここ数日、失敗ばかりしていた。魔法の暴発、物を落とす、転びそうになる、会話で噛む――全て、彼の前でだけ起こっていた。
「それは……その……」
私は言い訳を探した。でも、何も思いつかない。
「何かあったのか? 悩み事とか」
アーガムは心配そうに私を見た。その優しい眼差しが――また胸を締め付ける。
「何もありません!」
「でも――」
「本当に何もないんです! だから、心配しないでください!」
私は少し強い口調で言ってしまった。アーガムは少し驚いた様子で、一歩後ずさった。
「そ、そうか……」
彼は傷ついたような表情を見せた。その顔を見て、私は後悔した。
――何やってるんだろう、私は。
でも、謝る言葉が見つからなかった。沈黙が、部屋を支配した。重苦しい、気まずい沈黙。時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
翌日の授業中も、状況は改善しなかった。
魔法実習の時間。私たちは二人一組で魔法の練習をすることになった。そして――運悪く、私のペアはアーガムだった。
「よろしくな、ネイサ」
「よ、よろしくお願いします……」
私は彼の目を見ることができなかった。視線を床に向けたまま、小さく答えた。
「じゃあ、まず俺が魔法を使って、お前がそれを防御する練習な」
「はい……」
アーガムが火の魔法を準備する。彼の魔力が集まっていくのを感じた。温かい、力強い魔力。
「いくぞ。《小さな火よ――ミニ・フレイム》」
小さな火球が飛んできた。ゆっくりと、コントロールされた火球。私は防御魔法を展開しようとした。
「《水の盾よ――ウォーター・シールド》」
でも――アーガムの顔がちらりと視界に入った瞬間、集中が乱れた。魔法陣の構築が歪む。
「あ……」
水の盾が、いびつな形で展開された。本来なら綺麗な円形の盾が、歪んだ楕円形になっていた。火球は盾の端をすり抜けて――
「わっ!」
私の髪の先端を焦がした。焦げた匂いが鼻をつく。
「ネイサ! 大丈夫か!?」
アーガムが駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫です……」
私は髪の焦げた部分を確認した。ほんの少しだけだが、確実に焦げていた。
「すまん、火力弱めたつもりだったんだけど……」
「いえ、私の防御が失敗したんです。アーガム様は悪くありません」
「でも……」
アーガムは申し訳なさそうだった。その表情を見て、私はさらに自己嫌悪に陥った。
――私のせいだ。全部、私のせいだ。
「次は、私が攻撃します」
「お、おう……」
アーガムは少し戸惑った様子だったが、防御の構えをとった。
私は火の魔法を準備した。でも――彼の顔を見た瞬間、また心臓が跳ねた。彼の真剣な表情。集中している眼差し。その全てが、私の心をかき乱した。
「《小さな火よ――ミニ・フレイム》」
魔法を放った。でも、制御が甘かった。火球が、予想以上に大きくなってしまった。
「うお!」
アーガムは慌てて防御魔法を展開した。彼の魔力が壁を作り、火球を防ぐ。でも、その衝撃で彼は少し後ろによろめいた。
「すみません!」
「いや、大丈夫だけど……お前、今日本当に調子悪いな」
「申し訳ございません……」
私は深く頭を下げた。周囲のクラスメイトたちが、こちらを見ていた。心配そうな視線、不思議そうな視線――それらが、私をさらに追い詰めた。
「エルザ先生、すみません。ネイサの調子が悪いみたいなので、今日はここまでにしていいですか」
アーガムが先生に申し出た。
「そうですか。ネイサさん、大丈夫ですか?」
「は、はい……申し訳ございません」
「無理しないでくださいね。今日は早退してもいいですよ」
「いえ、大丈夫です……」
私は首を振った。でも、内心では――早退したかった。この場から逃げ出したかった。アーガムの心配そうな視線から、クラスメイトたちの好奇の目から、全てから。
昼休み、リリアが心配そうに話しかけてきた。
「ねえ、ネイサ。最近、アーガム様と何かあった?」
食堂の隅の席で、リリアは小声で聞いてきた。周囲には他の生徒たちもいるが、私たちの会話には気づいていないようだった。窓の外では、秋風が木々を揺らしている。
「え? 何もないけど……」
「嘘。絶対に何かあるよ」
リリアは断言した。彼女の茶色の瞳が、真剣に私を見つめている。
「だって、最近二人ともギクシャクしてるもん」
「ギクシャク……?」
「うん。前はあんなに仲良かったのに、今は何か距離があるっていうか……」
リリアの指摘は正しかった。確かに、私たちは以前ほど自然に会話できなくなっていた。私がアーガムを避けているせいだ。
「ネイサがアーガム様を避けてるように見えるんだけど……」
「避けてないわよ」
「避けてるって。目も合わせないし、話しかけられても素っ気ないし」
リリアは遠慮なく指摘してきた。彼女のストレートな物言いに、私は反論できなかった。
「それは……」
「喧嘩したの?」
「してない」
「じゃあ、なんで?」
リリアは追及してきた。私は答えに詰まった。本当のことは言えない。好きになってしまったから、うまく接することができない――そんなこと、恥ずかしくて言えない。
「ちょっと……色々あって……」
「色々って?」
「言えない」
「なんで?」
「言えないものは言えないの」
私は少し強く言ってしまった。リリアは少し驚いた様子だったが、それ以上は追及しなかった。
「そっか……まあ、言いたくないなら無理に聞かないけど」
「ごめん……」
「いいよ。でもね、ネイサ」
リリアは真剣な表情で言った。
「アーガム様、すごく心配してるよ。『ネイサが最近変だけど、何かあったのかな』って」
その言葉に、私の胸が痛んだ。彼を心配させている。それが、何より辛かった。
「そう……」
「うん。だから、ちゃんと話したほうがいいと思う」
「でも……話せないの」
「なんで?」
「理由があるの」
私は小さく答えた。リリアは溜息をついた。
「分かった。でも、このままじゃダメだよ。二人とも、すごく辛そうだもん」
「……そうね」
私は俯いた。食堂のトレイの上の料理を見つめる。食欲がなかった。胃が重い。
放課後、禁書館での勤務。
いつもなら楽しい時間なのに、今日は苦痛だった。アーガムと二人きり。沈黙が支配する空間。時折、どちらかが何か言おうとして――結局、言葉にならない。
私は本棚の整理をしていた。本を取り出して、埃を払い、元に戻す。単純作業に集中しようとしたが、アーガムの気配が常に意識から離れなかった。
「なあ、ネイサ」
突然、彼が声をかけてきた。私の手が止まった。
「はい……?」
「俺……何か悪いことしたか?」
その問いに、私は振り返った。アーガムは机の前に立って、真剣な表情で私を見ていた。
「何も……していません」
「じゃあ、なんでそんなに避けるんだ?」
「避けてません」
「避けてるだろ。ここ数日、まともに話してないじゃん」
アーガムの声には、傷ついた響きがあった。
「それは……」
私は言葉を探した。でも、何も思いつかない。本当のことは言えない。でも、嘘をつくのも辛い。
「俺、お前のこと怒らせたなら謝るよ。だから、教えてくれよ」
「怒ってません」
「じゃあ、なんで?」
「それは……言えません」
私は目を逸らした。アーガムの視線が痛い。
「言えない……?」
「はい」
「なんで言えないんだ?」
「理由があるんです」
「理由って?」
「言えません」
私は頑なに拒んだ。アーガムは溜息をついた。
「分かった。無理に聞かない」
彼は諦めたように言った。
「でも……俺、お前が心配なんだ」
その言葉に、私の胸が痛んだ。彼は、私を心配してくれている。優しさからの言葉だ。でも――その優しさが、今は重かった。
「心配しないでください。私は大丈夫です」
「大丈夫に見えねえよ」
「大丈夫です」
私は強く言った。これ以上、この話を続けたくなかった。
「……そっか」
アーガムは寂しそうに笑った。その笑顔を見て――私は自己嫌悪に襲われた。
――私、何やってるんだろう。
彼を傷つけている。それが、分かっていた。でも、どうすればいいのか分からなかった。
その日の夜、寮の部屋でランスと話していた。
「今日も、うまくいかなかったな」
ランスは同情するように言った。窓の外は真っ暗で、星が輝いている。部屋の中は、小さな魔法灯だけが灯っていた。
「ええ……」
私はベッドに座って、膝を抱えていた。体を小さくして、自分を守るような姿勢。
「魔法は暴発するし、会話は噛み合わないし……最悪だったわ」
「お前、空回りしすぎだ」
「分かってる……」
私は顔を膝に埋めた。
「王子も心配してたぞ」
「……知ってる」
「なら、ちゃんと話したらどうだ?」
「話せないわよ」
私は顔を上げた。
「好きになったから、うまく話せませんなんて……恥ずかしくて言えない」
「別に、好きだって告白しろって言ってるわけじゃない」
ランスは尻尾を揺らした。
「ただ、普通に話せばいいんだ。前みたいに」
「前みたいに……って、もう無理よ」
「なんで?」
「だって、彼の顔を見ると心臓がドキドキして、頭が真っ白になって……」
「それは慣れるって言っただろ」
「慣れないわよ! むしろ、日に日に悪化してる!」
私は叫んだ。ランスは少し驚いた様子だった。
「そんなに……ひどいのか」
「ええ……もう、どうしていいか分からない」
私は再び膝に顔を埋めた。涙が出そうだった。でも、泣くわけにはいかない。
「素直になれよ」
「無理だ」
「なんで?」
「だって……私は彼を欺いてるのよ。年齢も、正体も、全部嘘」
私は拳を握った。
「そんな私が、素直になるなんて……できない」
「……そうか」
ランスは悲しそうだった。
「でもな、このままじゃお前も王子も辛いぞ」
「分かってる……でも……」
私は言葉を続けられなかった。どうすればいいのか、本当に分からなかった。
数日後、状況はさらに悪化していた。
私とアーガムの間の距離は、明らかに広がっていた。会話は必要最低限。目も合わせない。二人きりになることを避ける。
周囲のクラスメイトたちも、明らかに気づいていた。
「ねえ、アーガム様とネイサさん、喧嘩したのかな?」
「最近、全然話してないよね」
「前はあんなに仲良かったのに……」
そんな噂が、教室で囁かれていた。私は、その噂を聞くたびに胸が痛んだ。
禁書館での勤務も、気まずいものになっていた。二人とも、黙々と仕事をこなす。会話はほとんどない。時折、業務上必要な会話をする程度だ。
「この本、第三カテゴリーに移動させていいですか?」
「ああ、いいよ」
「分かりました」
そんな、事務的なやり取りだけ。以前のような、他愛ない会話は全くなくなっていた。笑い合うこともない。ただ、沈黙だけがあった。
ある日の夕方、私は一人で禁書館の書架の間を歩いていた。アーガムは別の場所で作業をしている。古い本の匂いが鼻をつく。埃っぽい空気。静かすぎる空間。
――このままじゃダメだ。
私は立ち止まった。本棚に手をついて、深呼吸をする。
――でも、どうすればいいの?
答えは出なかった。ただ、胸が苦しいだけだった。
「ニャア」
突然、足元から声がした。見ると、ランスがいた。
「ランス……」
「大丈夫か?」
「……大丈夫じゃない」
私は正直に答えた。
「やっぱりな」
ランスは私の足に体を擦り寄せた。その温かさが、少しだけ心を癒してくれた。
「このままじゃダメだって、分かってる?」
「分かってる……」
「なら、何とかしろ」
「何とかって……どうすれば……」
「まずは、ちゃんと話すことだ」
ランスは真剣な表情で言った。
「王子と、ちゃんと向き合え」
「でも……」
「でも、じゃない。お前、このままずっと逃げ続けるつもりか?」
ランスの言葉が、心に突き刺さった。
「逃げてるわけじゃ……」
「逃げてるだろ。自分の気持ちから、王子から、全部から」
「……」
私は何も言えなかった。ランスの言う通りだった。私は、逃げていた。
「お前は強い。どんな困難も乗り越えてきた」
ランスは優しく言った。
「だから、この困難も乗り越えられるはずだ」
「でも……これは違うわ」
「何が違うんだ?」
「今までの困難は、魔法や戦闘で解決できた。でも、これは……」
私は言葉を探した。
「これは、心の問題だから……」
「心の問題も、乗り越えられるさ」
ランスは尻尾を揺らした。
「お前なら、できる」
「……本当に?」
「ああ。俺が保証する」
ランスの言葉に、少しだけ勇気が湧いた。でも、まだ不安だった。
その夜、私は師匠に定期報告をしていた。
「状況は?」
師匠の声が、魔法通信越しに聞こえてくる。
「それが……任務に支障が出ています」
私は正直に答えた。
「支障?」
「はい……私の……個人的な問題で……」
言いにくかった。でも、隠しても仕方がない。
「何があった?」
師匠の声が、少し厳しくなった。
「私……アーガム殿下を……」
私は言葉を探した。心臓が激しく跳ねている。
「好きになってしまいました」
沈黙。
長い、長い沈黙。
師匠は何も言わなかった。私は、その沈黙に耐えられなくなった。
「申し訳ございません。任務中に、護衛対象に感情移入してしまって……」
「……そうか」
ようやく、師匠が口を開いた。
「で、それが任務にどう影響している?」
「彼の前で、うまく振る舞えないんです。魔法は暴発するし、会話は噛み合わないし……」
私は自分の失態を報告した。
「それで、彼との関係がギクシャクしています」
「……困ったな」
師匠は溜息をついた。
「師匠……私、どうすれば……」
「ネイサ、お前に選択肢が二つある」
師匠は冷静に言った。
「一つ目は、任務を降りることだ」
「え……」
「お前の状態では、任務を遂行することが難しい。別の者に交代させることもできる」
「でも……」
私は抗議しようとした。でも、師匠は続けた。
「二つ目は、自分の気持ちと向き合い、任務を続けることだ」
「向き合う……」
「ああ。お前の感情を認めた上で、それでも任務を遂行する。簡単ではないが、不可能ではない」
師匠の言葉に、私は考え込んだ。
「どちらを選ぶかは、お前次第だ」
「私……」
私は迷った。任務を降りる? それとも、続ける?
「任務を……続けます」
私は答えた。
「彼を守りたいんです。誰にも任せたくない」
「そうか。なら、自分の気持ちと向き合え」
「はい……」
「それと、ネイサ」
「はい?」
「お前の気持ちは、決して悪いことではない」
師匠の声が、優しくなった。
「人を愛することは、美しいことだ。たとえ、それが困難を伴っても」
「師匠……」
「ただ、任務と感情のバランスを取ることを忘れるな」
「はい……」
「頑張れ、ネイサ」
「ありがとうございます」
通信が切れた。私は、少しだけ前向きな気持ちになっていた。
翌日、私は決意を新たに学園に向かった。
――今日こそは、ちゃんと話そう。
そう心に誓って、教室のドアを開けた。
でも――
「おはよう、ネイサ」
アーガムの声を聞いた瞬間、またドキドキが始まった。心臓が激しく跳ねる。顔が熱くなる。
「お、おはようございます」
結局、また目を合わせられなかった。
――ダメだ……やっぱり無理……
その日も、私とアーガムの関係は改善しなかった。
昼休み、私は一人で中庭のベンチに座っていた。秋の風が吹いて、落ち葉が舞っている。空は高く、雲が流れていた。
「ネイサ」
突然、声がした。振り返ると――アーガムが立っていた。
「あ……」
「ちょっと、話していいか?」
彼の表情は、真剣だった。
「は、はい……」
私は緊張しながら頷いた。アーガムは私の隣に座った。
「なあ、ネイサ」
「はい……」
「俺……お前のこと、大切に思ってる」
その言葉に、私の心臓は激しく跳ねた。
「だから、お前が何か悩んでるなら、力になりたいんだ」
「アーガム様……」
「でも、お前が話してくれないと、俺には何もできない」
彼は真っ直ぐに私を見た。
「だから……話してくれないか? 何があったのか」
私は――答えられなかった。
彼の優しさが、胸に染みた。でも、本当のことは言えない。好きになってしまったから、うまく話せない――そんなこと、言えるわけがない。
「……すみません」
私は小さく答えた。
「言えないんです」
「なんで?」
「理由があるんです」
「理由って……」
アーガムは困惑した様子だった。
「俺、お前に嫌われたのか?」
「え? いえ、そんなことは……!」
私は慌てて否定した。
「じゃあ、なんで避けるんだ?」
「避けてるわけじゃ……」
「避けてるだろ。もう、ずっと」
アーガムの声には、悲しみが滲んでいた。
「俺……お前のこと、親友だと思ってた。いや、今も思ってる」
親友――
その言葉が、胸に突き刺さった。
「でも、お前は違うのか? 俺のこと、友達だとも思ってないのか?」
「そんなこと……ありません……」
私は涙が出そうになった。でも、泣くわけにはいかない。
「じゃあ、なんで?」
「それは……言えないんです……」
私は俯いた。アーガムは溜息をついた。
「……分かった。もう、聞かない」
彼は立ち上がった。
「でもな、ネイサ」
「はい……」
「俺は、ずっとお前の味方だから」
その言葉を残して、アーガムは去っていった。
私は――その場に座り込んだまま、動けなかった。
彼の優しさが、痛かった。
彼の言葉が、胸を締め付けた。
そして――
自分の不甲斐なさが、情けなかった。
その夜、私は一人で泣いていた。
部屋の明かりを消して、ベッドに横たわり――涙を流した。
こんなに泣いたのは、いつ以来だろう。
声を殺して、ただ涙を流した。
「ニャア」
ランスが寄り添ってくれた。
「ランス……」
「泣いてるのか?」
「……ええ」
「辛いか?」
「とても……」
私は正直に答えた。
「でも、これは私が選んだ道だから……」
「そうか」
ランスは優しく私に寄り添った。
「でもな、ネイサ」
「何?」
「お前は、一人じゃないぞ」
「……ありがとう」
私はランスを抱きしめた。温かい毛並みが、心を癒してくれた。
でも――
この苦しみは、まだ続く。
アーガムへの想い。
任務との葛藤。
全てが、私を苦しめ続ける。
でも――
諦めるわけにはいかない。
私は、彼を守り続ける。
たとえ、この恋が叶わなくても。
たとえ、彼と距離ができても。
それが――
私の、選んだ道だから。




