ランスの指摘
「ちょっと待ってください! そんな量のプロテインを一度に飲んだら危険です! 絶対にやめてください!」
禁書館での午後の勤務中、私は再び全力でアーガムを止めようとしていた。秋の日差しが窓から差し込む静かな空間で、彼は休憩室のテーブルに巨大なプロテインの缶を五つも並べていた。それぞれ違う味らしく、チョコレート、バニラ、ストロベリー、バナナ、そして謎の「マッスル・スペシャル」という名前のものまである。
「でもさ、これ全部飲んだら、筋肉めっちゃつくんじゃね?」
アーガムは無邪気な笑顔でそう言いながら、最初の缶を開けようとしていた。彼の赤毛が窓からの光を受けて、まるで炎のように輝いている。その横顔を見て、私の心臓が小さく跳ねた。
――違う、今はそんなことを考えている場合じゃない。
私は慌てて思考を切り替えた。魔導具泥棒事件以来、こんな風に彼の些細な仕草に心を奪われることが増えていた。それが私自身、とても困惑していた。
「つきません! というか、お腹を壊します!」
私は彼の手からプロテインの缶を奪い取った。冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。
「えー、なんでだよ」
「当たり前です! 一日の推奨摂取量というものがあるんです!」
「でも、俺筋肉つけたいし」
「筋肉をつけるには、適切な量を適切なタイミングで摂取することが大事なんです。一度に大量に摂取しても、体が 吸収できる量には限界があります」
私は教科書的な説明をしながら、プロテインの缶を一つずつ棚に戻していった。アーガムは不満そうに頬を膨らませている。その表情が――また可愛いと思ってしまい、私は顔が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、どれくらいならいいんだよ」
「一日に一、二回程度です。それも、運動後のタイミングが最適です」
「そっか……」
アーガムは少し残念そうだったが、素直に頷いた。彼のこういう素直なところが――
――また、そんなことを考えている。
私は自分の思考に戸惑いながら、最後のプロテイン缶を棚に戻した。
「まあ、お前が言うなら仕方ねえな」
「分かってくれて良かったです」
私はほっとして、彼の方を見た。すると――アーガムも私を見ていた。翡翠色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。その視線に、私の心臓がまた激しく跳ねた。
「な、なんですか?」
声が少し上ずってしまった。自分でも気付いて、恥ずかしくなる。
「いや、お前って本当に色々知ってるよな」
「そ、そうですか?」
「ああ。プロテインの飲み方まで知ってるなんて、すげえわ」
アーガムは感心したように笑った。その笑顔が眩しくて、私は思わず目を逸らした。窓の外の景色に視線を向ける。学園の中庭では、秋の木々が色づき始めていた。赤や黄色、橙色の葉が、風に揺れている。
「別に……普通のことですよ」
「いや、普通じゃねえって。お前、マジで何でも知ってるもん」
彼の言葉に、私は複雑な気持ちになった。私が色々知っているのは、21歳だからだ。彼より五歳も年上だからだ。それを、彼は知らない。16歳の同級生だと思っている。この嘘が――時々、胸を締め付ける。
「そんなことないです……」
私は小さく答えた。
「そうか? まあ、謙遜しなくていいのに」
アーガムは立ち上がって、伸びをした。彼の筋骨隆々とした体が、制服の上からでも分かる。身長も高く、私より頭 一つ以上大きい。見上げると、彼の顎のラインが見えた。
――なんで、こんなところまで見てるんだろう、私は。
「じゃあ、そろそろ仕事に戻るか」
「は、はい!」
私は慌てて頷いた。
その日の夕方、勤務を終えて寮に戻ると、ランスが窓辺で待っていた。夕日が部屋に差し込んでいて、彼の黒い毛並みが金色に輝いている。外からは、生徒たちの笑い声や話し声が聞こえてくる。秋の夕暮れは早く、空はすでに茜色に染まっていた。
「お帰り」
「ただいま……」
私はベッドに倒れ込んだ。柔らかいマットレスが体を包み込む。天井を見上げると、白い漆喰の表面に夕日の色が映っていた。
「疲れたか?」
「ええ……色々と」
本当は、疲れたというより、頭が混乱していた。今日も、アーガムのことばかり考えてしまった。彼の笑顔、声、仕草――全てが、頭から離れない。
「今日も、王子と一緒だったんだろ?」
「そうね……」
「楽しかったか?」
「え? まあ……楽しかったけど……」
私は曖昧に答えた。ランスは尻尾をゆっくりと揺らしながら、私をじっと見ている。その琥珀色の瞳が、何かを見 透かしているようだった。
「ねえ、ネイサ」
「何?」
「お前、王子のこと好きだろ」
突然の指摘に、私は跳ね起きた。心臓が激しく跳ねる。顔が一気に熱くなった。
「は!? 何言ってるのよ!」
「だから、好きなんだろ?」
ランスは平然と繰り返した。
「あ、ありえないわよ! だって、彼は年下だし! それに、私は任務中だし!」
私は必死に否定した。両手を振って、否定のジェスチャーまでする。でも、自分でも声が上ずっているのが分かった。
「顔、真っ赤だぞ」
「赤くない!」
「赤いって。鏡見てみろよ」
ランスが尻尾で部屋の隅の鏡を指した。私は恐る恐る鏡を見た。そこには――顔を真っ赤にした自分が映っていた。
「……っ」
私は顔を手で覆った。熱い。とても熱い。
「ほら、認めたくないだけだろ」
「認めるも何も……そんなこと……」
私は反論しようとしたが、言葉が続かなかった。本当に、私はアーガムのことが好きなのだろうか。確かに、彼のことをよく考える。彼の笑顔を見ると胸が温かくなる。彼と一緒にいると楽しい。でも、それは――
「それは……仕事仲間だから……」
「仕事仲間で、あんなに顔赤くなるか?」
ランスは容赦なく追及してくる。
「それに、お前、王子の話をする時、いつも表情が柔らかくなるぞ」
「そんなこと……ない……」
「あるって。リリアも言ってただろ」
そう言われて、私は思い出した。以前、リリアに「アーガム様のこと、好きでしょ?」と指摘されたことを。あの時も、私は否定した。でも――
「それに、今日も王子のことばかり考えてただろ」
「……見てたの?」
「ああ。お前、ぼーっとしてる時間が多かった」
ランスの指摘は正しかった。今日、私は何度も作業の手を止めて、ぼんやりとアーガムのことを考えていた。彼の笑顔、声、仕草――それらが、まるで頭の中で映像のように再生されていた。
「それは……ただ……」
「ただ?」
「ただ……心配だっただけよ。護衛対象として」
「護衛対象ねえ……」
ランスはニヤニヤと笑った。その表情が、何かを全て見透かしているようで、私は恥ずかしくなった。
「本当よ! 私は、任務で彼を守ってるだけ!」
「じゃあ、なんで彼の笑顔を見るとドキドキするんだ?」
「それは……」
「なんで、彼と目が合うと顔が赤くなるんだ?」
「それは……」
「なんで、彼のことを四六時中考えてるんだ?」
ランスの連続攻撃に、私は言葉を失った。確かに、その通りだった。私は、アーガムの笑顔を見るとドキドキする。目が合うと顔が赤くなる。四六時中、彼のことを考えている。
それは――
「それは……」
私は口ごもった。心臓が激しく鼓動している。部屋が急に暑く感じられた。窓を開けていないのに、息苦しい。
「認めろよ。お前、王子のことが好きなんだ」
ランスの言葉が、心に突き刺さった。
好き――その言葉を聞いた瞬間、何かが胸の中で弾けた。これまで必死に抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出してきた。
「……分からないわよ」
私は小さく呟いた。
「分からない?」
「ええ。これが……恋なのか……私には分からない」
私はベッドに座り込んだ。膝を抱えて、小さくなる。
「私……恋愛経験ないから……」
「そうか」
ランスは優しい声で言った。
「でもな、お前の症状を見る限り、間違いなく恋だ」
「症状って……病気みたいに言わないでよ」
「まあ、恋は病気みたいなもんだからな」
ランスは笑った。私も、少し笑った。でも、笑顔はすぐに消えた。
「でも……どうしよう……」
「どうするも何も、それがお前の気持ちだ。受け入れるしかない」
「でも……彼は16歳よ。私は21歳。五歳も年上なのよ」
「年齢なんて、関係ないだろ」
「関係あるわよ! それに、私は彼を欺いてる。年齢も、正体も、全部嘘」
私は拳を握った。爪が手のひらに食い込んで、痛い。
「こんな私が……彼を好きになるなんて……許されないわ」
「許されないってことはない」
ランスは私の隣に来て、体を擦り寄せた。温かい毛並みが、腕に触れる。
「お前は、ただ人を好きになっただけだ。それは、悪いことじゃない」
「でも……」
「お前の気持ちは本物だろ?」
「……ええ」
私は認めた。
「私の気持ちは……本物よ」
「なら、それでいいじゃないか」
「でも、いつか真実を告げなきゃいけない。その時、彼は私をどう思うのか……」
「それは、その時考えろ」
ランスは尻尾を揺らした。
「今は、お前の気持ちに正直になれ」
「正直に……」
私は呟いた。
正直になる――
それは、とても怖いことだった。自分の気持ちを認めるということは、傷つく可能性も認めるということだ。彼に拒絶される可能性を。彼に嫌われる可能性を。
でも――
「分かったわ」
私は小さく頷いた。
「私……アーガム様のことが……好きなのかもしれない」
「かもしれない、じゃなくて、好きなんだろ」
「……好き」
声に出して言うと、胸がぎゅっと締め付けられた。でも、同時に――少しだけ、楽になった気がした。
「私、アーガム様が好き」
もう一度言った。今度は、少し大きな声で。
「よし、認めたな」
「ええ……認めたわ」
私は顔を上げた。窓の外は、すっかり暗くなっていた。空には、星が輝き始めている。
「でも……どうしよう……これから、彼とどう接すればいいのか……」
「普通に接すればいいだろ」
「普通に……って……」
私は不安になった。好きだと自覚してしまった今、彼の前で普通にいられるだろうか。
翌日、私はその答えを知ることになった。
朝、教室でアーガムに会った瞬間――私の心臓は激しく跳ね、顔が一気に熱くなった。
「おはよう、ネイサ」
彼のいつもの挨拶。それだけで、私はパニックになった。
「お、おはよう……ございます……」
声が震えている。自分でも分かった。アーガムは少し不思議そうな顔をした。
「どうした? 体調悪いのか?」
「だ、大丈夫です!」
私は慌てて答えた。でも、顔を見ることができない。視線を逸らして、自分の席に向かおうとした。
「待てよ」
アーガムが私の肩を掴んだ。その手の温かさが、制服越しに伝わってくる。心臓が、さらに激しく跳ねた。
「顔、赤いぞ? 本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫です! ちょっと走ってきただけで!」
「そうか……?」
アーガムは心配そうだった。その優しさが――また胸を締め付ける。
「本当に大丈夫ですから! では、失礼します!」
私は逃げるように席に着いた。
授業中も、集中できなかった。
アーガムの席は、私の斜め後ろ。時々、彼の気配を感じる。ペンを動かす音、ノートをめくる音、小さな溜息―― それら全てに、私の意識が引きつけられた。
――ダメだ。集中しないと。
私は必死に教科書に目を向けた。魔法理論の授業。普段なら得意な科目だ。でも、今日は全く頭に入ってこない。文字が、ただの記号にしか見えない。
「ネイサ・フィルメント」
突然、先生に名前を呼ばれた。
「は、はい!」
私は慌てて立ち上がった。
「この魔法陣の構造について、説明してください」
先生が黒板を指した。そこには、複雑な魔法陣が描かれている。見れば分かるはずなのに――今の私には、理解するのに時間がかかった。
「えっと……これは……」
私は必死に考えた。周囲の視線が、私に集中している。その中に、アーガムの視線もあるはずだ。それを意識すると、さらに頭が混乱した。
「……六層構造の防御魔法陣です。外側から順に……」
なんとか説明を始めた。でも、いつもよりずっと時間がかかった。
「はい、正解です。でも、ネイサ、今日は少し元気がないですね」
「す、すみません……」
私は座った。周囲から、心配するような視線が向けられた。リリアも、不思議そうに私を見ている。
――恥ずかしい。こんなの、私らしくない。
昼休み、リリアが話しかけてきた。
「ねえ、ネイサ、大丈夫? 今日、なんか変だよ」
「え? そう?」
「うん。授業中も、ぼーっとしてたし」
「ちょっと……寝不足で……」
私は誤魔化した。リリアは少し疑わしそうだったが、それ以上は追及しなかった。
「そっか。じゃあ、今日は早く寝なよ」
「ええ……そうするわ」
私は曖昧に答えた。リリアは優しく笑って、自分の席に戻っていった。
――このままじゃダメだ。
私は自分に言い聞かせた。アーガムを好きだと自覚したからといって、仕事に支障をきたしてはいけない。彼を守るのが、私の任務だ。それなのに、こんな調子では――
「ネイサ」
突然、後ろから声がした。
振り返ると――アーガムが立っていた。
「ひっ!」
私は思わず変な声を出してしまった。周囲の生徒たちが、不思議そうにこちらを見る。恥ずかしさで、顔が真っ赤になった。
「お、お前、本当に大丈夫か?」
アーガムは心底心配そうだった。
「だ、大丈夫です!」
「でも、今朝からずっと変だぞ?」
「き、気のせいです!」
私は必死に否定した。
「そうか……?」
アーガムは納得していないようだった。でも、それ以上は追及しなかった。
「まあ、無理すんなよ」
「は、はい……」
彼は自分の席に戻っていった。私は、ほっと息をついた。でも、同時に――自己嫌悪に襲われた。
――私、何やってるんだろう。
放課後、禁書館での勤務。
いつもなら楽しい時間なのに、今日は苦痛だった。アーガムと二人きり。それが、こんなに緊張するなんて。
「なあ、ネイサ」
「は、はい!」
私は過剰に反応してしまった。手に持っていた本を、危うく落としそうになる。
「お前、今日本当に変だぞ」
「き、気のせいです!」
「気のせいじゃねえって。朝から、ずっとおかしい」
アーガムは私の前に立った。彼の大きな体が、私を見下ろしている。近い。とても近い。彼の体温が、伝わってくるような距離だ。
「俺、何か悪いことしたか?」
「え? いえ、そんなことは……」
「じゃあ、なんでそんなに避けるんだ?」
「避けてません!」
「避けてるだろ。目も合わせないし」
その指摘は正しかった。私は今日一日、彼と目を合わせることができなかった。彼の目を見ると、心臓が激しく跳ねて、頭が真っ白になってしまうから。
「それは……」
「それは?」
アーガムが顔を近づけてきた。さらに近い。彼の翡翠色の瞳が、私を覗き込んでいる。その視線から逃れられない。
「……っ」
私の心臓は、今にも破裂しそうなほど激しく跳ねていた。顔が熱い。耳まで赤くなっているのが分かる。呼吸が浅くなる。
「ネイサ……」
「な、なんでもないです! 本当に! ただ、ちょっと体調が……」
私は必死に誤魔化そうとした。でも、声が震えている。
「体調が悪いなら、今日は休めよ」
「いえ、大丈夫です!」
「大丈夫じゃねえだろ。顔、真っ赤だぞ」
アーガムが私の額に手を当てた。
――触れた!
彼の手が、私の肌に触れた。その温かさに、私の思考は完全に停止した。
「熱は……ないみたいだけど……」
アーガムは不思議そうに首を傾げた。
「ほら、今日はもう帰れよ。俺が学園長に言っとくから」
「い、いえ、本当に大丈夫ですから!」
「大丈夫じゃねえって」
「大丈夫です!」
私は彼の手を払いのけて、後ずさった。背中が本棚にぶつかる。
「ネイサ……」
アーガムは心配そうな顔をしていた。その表情が――また胸を締め付ける。
「俺、本当に何かしたのか? お前を怒らせるようなこと」
「何もしてません! 本当に!」
「じゃあ、なんでそんなに……」
「なんでもないんです! ただ、ちょっと……」
私は言葉を探した。何か、説得力のある理由を。でも、何も思いつかない。
「ちょっと?」
「ちょっと……疲れてるだけです」
「そうか……」
アーガムは納得していないようだった。でも、それ以上は追及しなかった。
「分かった。じゃあ、無理すんなよ」
「はい……」
私は小さく答えた。
アーガムは優しく笑って、仕事に戻っていった。私は――その場にへたり込みそうになった。
――ダメだ。こんなの、絶対ダメだ。
その夜、寮の部屋で一人反省会をしていた。
「今日は……最悪だった……」
私はベッドに倒れ込んだ。顔を枕に埋める。枕が、少し湿った。
「どうした?」
ランスが心配そうに聞いてきた。
「今日……アーガム様の前で、全然普通にできなかった……」
「ああ、やっぱりな」
「やっぱりって……見てたの?」
「ああ。お前、めちゃくちゃぎこちなかったぞ」
「うう……」
私は呻いた。
「自覚したばかりだからな。仕方ないだろ」
「でも……このままじゃダメよ。仕事に支障が出る」
「まあ、そうだな」
ランスは同意した。
「どうすればいいの……?」
「慣れるしかないだろ」
「慣れる……?」
「ああ。好きだと自覚した状態で、王子と接することに慣れるんだ」
「そんなこと……できるかしら……」
「できるさ。お前なら」
ランスは励ますように言った。
「それに、王子もお前のこと心配してたぞ」
「……そうね」
私は思い出した。アーガムの心配そうな顔を。
「あんまり避けると、逆に心配かけるぞ」
「分かってる……でも……」
「でも?」
「彼の顔を見ると……心臓がドキドキして……頭が真っ白になって……」
「それが恋だ」
ランスは笑った。
「でもな、お前は強い。きっと、乗り越えられる」
「……そうかしら」
「ああ。お前は、いつも困難を乗り越えてきただろ」
ランスの言葉に、少し勇気が湧いた。
「そうね……頑張るわ」
「それでいい」
翌日、私は決意を新たに学園に向かった。
――今日こそは、普通に接する。
そう心に誓って、教室のドアを開けた。
「おはよう、ネイサ」
アーガムの声が聞こえた。
――落ち着け。普通に。普通に。
「お、おはようございます」
私は彼の方を見た。そして――目が合った。
ドクン。
心臓が跳ねた。顔が熱くなる。
――ダメだ、また……
「顔、赤いぞ?」
「き、気のせいです!」
私は慌てて席に向かった。
――全然ダメじゃない!
結局、その日も私はアーガムの前でぎこちないままだった。
授業中も、昼休みも、放課後の勤務中も――彼と目を合わせることができなかった。彼と話す時も、声が震えてしまった。
「ネイサ、本当に大丈夫か?」
アーガムは何度も心配してくれた。でも、私は「大丈夫です」としか答えられなかった。
――どうしよう。このままじゃ……
その夜、ランスに相談した。
「やっぱり無理だった……」
「そうか」
「どうすればいいの……?」
「うーん……」
ランスは考え込んだ。
「まあ、時間が解決するだろ」
「時間……?」
「ああ。今は自覚したばかりで、パニックになってるんだ。でも、そのうち慣れる」
「本当に……?」
「ああ。人間の適応力は、すごいからな」
ランスは励ますように言った。
「それに、お前は強い。きっと、大丈夫だ」
「……ありがとう、ランス」
私は小さく笑った。
「でも……困ったわね」
「何が?」
「好きな人の前で、こんなにぎこちなくなるなんて……」
「それが恋だからな」
「恋って……大変ね」
「ああ。でも、楽しいだろ?」
ランスの問いに、私は少し考えた。
確かに、今は大変だ。苦しい。彼の前で普通にいられない。でも――
「……楽しいかもしれない」
私は認めた。
「彼のことを考えると、胸が温かくなる」
「彼の笑顔を見ると、幸せな気持ちになる」
「それが、恋の楽しさだ」
ランスは満足そうに頷いた。
「お前、いい顔してるぞ」
「そう?」
「ああ。恋する乙女の顔だ」
「恋する乙女……」
私は少し照れくさくなった。
でも――悪い気はしなかった。
数日後、少しずつだが、私はアーガムの前で普通に話せるようになってきた。
完璧ではない。まだ、彼の目を見ると心臓が跳ねる。彼が近づくと顔が赤くなる。でも――以前ほどパニックにはならなくなった。
「ネイサ、最近元気になったな」
ある日、アーガムが言った。
「そうですか?」
「ああ。前は、なんか変だったけど」
「あれは……ちょっと体調が悪かっただけです」
「そっか。良くなって良かったわ」
アーガムは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て――私の心臓は、やはり激しく跳ねた。
今は、その鼓動を楽しめるようになっていた。
これが、恋。
これが、好きという気持ち。
それを、受け入れられるようになっていた。
その夜、ランスが言った。
「お前、慣れてきたな」
「ええ……少しずつだけど」
「良かったじゃないか」
「ありがとう、ランス。あなたのおかげよ」
「いや、お前の努力の結果だ」
ランスは尻尾を揺らした。
「でもな、これからが大変だぞ」
「これから?」
「ああ。好きな気持ちを隠し続けるのは、辛いからな」
ランスの言葉に、私は胸が痛んだ。
確かに、これから先――この気持ちを隠し続けなければならない。アーガムには、決して知られてはいけない。なぜなら――私は、彼を欺いているから。
年齢も、正体も、全て嘘。
そんな私が、彼を好きだなんて――許されない。
「でも……仕方ないわ」
私は呟いた。
「これが、私の運命だから」
「運命、か」
ランスは少し悲しそうだった。
「お前、いつか真実を告げる時が来る」
「ええ……」
「その時、どうするつもりだ?」
「分からない……」
私は正直に答えた。
「でも、その時まで――私は彼を守る」
「そうか」
ランスは頷いた。
「頑張れよ」
「ええ」
私は窓の外を見た。
星が、輝いている。
アーガムの顔が、浮かぶ。
彼を守りたい。
彼に幸せでいてほしい。
たとえ、私の恋が叶わなくても――それが、私の願いだ。




