芽瑠来琉堂のぬいぐるみ 捌
――― 偽りの愛の終わりに
その日、大阪のとある繁華街には土砂降りの雨が降り注いでいた。
路地裏で膝をつく彩香(28歳)は、結婚資金として貯めたはずの500万円を持ち逃げされたばかりだった。
愛していると信じ、全てを捧げた男に、結婚式の前日で裏切られたのだ。
「いい夢見れたやろ?」
逃げるその男を発見し、問い詰めた彩香に彼は冷たい笑みを向ける。
「ほな」
そう言って彩香を突き飛ばした男は、泣き叫ぶ彩香を置いて足早に闇の中へ去って行った。
アスファルトに倒れ込んだ彩香の目の前で、ウエディングプランナーから渡された憧れの結婚式の資料が、雨水により濡れ穢されていった。
「もう嫌うや。誰かウチを殺して!」
身体中の血が凍るような絶望と、すべてを破壊したいという暴力的な衝動に支配され叫んだ彩香は、周りからの無反応に挫けふらふらと立ち上がり行く当てもなく歩き出した。
迷い込んだ街路灯も少ない路地裏で、温かい光を放つ一軒の雑貨店を見つけ、吸い込まれるように飛び込んだ彩香。
その店の名は「芽瑠来琉堂」と書いてあった。
ずぶ濡れのまま店内に立つ彩香は、涙と雨でぐちゃぐちゃの顔を上げ叫んだ。
「お願いや……。ウチを殺したってや!もう、生きる意味があらへんのや!」
店主の老婦人は少し驚いたように目を細めた。
こんな形で入店してきた客は初めてかもしれない……。まるで自らを獲物として悪魔の庭に飛び込んできた哀れな羊のようだった。
「まあまあ。まずは、お身体を拭いて」
老婦人は彩香を椅子に座らせ柔らかいタオルを手渡し、目の前のテーブルに温めた紅茶を置いた。
そして、彼女の絶望に満ちた声に耳を傾けた。
男に裏切られ、自らの命を絶とうとするほどの深い絶望。その魂から立ち昇る「生への拒絶感」から生じるエネルギーは、悪魔にとってとって極上の贄だと感じた。
老婦人は棚から一体のぬいぐるみを手に取った。
それは、暗い夜空のような毛並みを持ち、鋭く光る瞳を持つオオカミのぬいぐるみだった。
「この子はね、『ゴロ』というんだよ」
老婦人は彩香の手をそっと握り、その掌にゴロを優しく押し付けた。
「この子はね、持ち主の心にある『激しい衝動』、特に『自らを罰したいという暴力性』を噛み砕き喰らってくれる。その対価として、持ち主に『安らぎの運命』を与えてくれるのさ」
彩香は訳も分からずゴロを胸に抱きしめた。
ゴロの冷たい毛皮を抱いた瞬間、彩香の体から力が抜け、張り詰めていた緊張がぷつりと切れた気がして、流れ出る涙を止めることはできなかった。。
「あったかいわぁ……」
彩香の心から、怒りも悲しみも消え去っていた。
復讐心も自死への衝動も、そのすべてをゴロが喰らってしまったのだから。
彩香はとても穏やかな表情で老婦人にお礼を言った後、ゴロを抱きしめながら軽い足取りで店を出て行った。
――― ゴロゴロ、という音
その直後、彩香は雨が止んだばかりの街角で、自分のことを必死に探していた幼馴染のタケルと出会った。
「ゴロゴロ……、ゴロ……」
喉を鳴らすような小さな鳴き声を聞いた気がした彩香は、その音の心地よさにホッとする。
その鳴き声の発生源と思われたゴロを抱いた彩香は、まるで別人のように落ち着いた声でこれまでの全てをタケルに話した。
男への恨みも、実を引き裂かれるほどの絶望も、死にたいと願う叫びも、ゴロがすべてを喰らったため、彼女の口からはただ淡々とした事実だけが吐き出されていた。
「もうええんや。アホな夢を見とったっちゅーことに気ぃ付いたわ。あないアホにウチの人生を捧げる価値なんて、最初からなかったんや……」
復讐を諦めた彩香に、タケルはそっと傘を差し出した。
雨はもう止んでいる。
だがタケルのそんな優しさに、その胸にそっと飛び込んだ彩香の目から、大粒の雫が零れ落ちていた。
彼は彩香を深く愛していた。
彼女のすぐそばで、彼女が騙されているのを知りながら何も言えなかった意気地のない、でも優しい男だった。
タケルは言った。
「もう、きついことは全部ほかして、俺と一緒に生きてほしい」
ゴロが彩香の心に与えた『運命の安息』は、彼女の目を曇らせていた濁りをすべて洗い流し、タケルの純粋な愛をまっすぐに見つめる力を与えていた。
彩香はその優しさに包まれ、タケルと一緒に幸せな家庭を作り上げた。
彼らの純粋な心に包まれるように、子にも恵まれ、愛情に満ちた家庭に支えられながら、タケルも仕事に精を出し、彩香はしっかりとその家庭を支え、家族と共に幸せな一生を全うした。
しかし、ゴロが彩香から喰らった衝動は消え去ってはいなかった。
その全てを破壊し尽くし、自壊させたいほどの強烈な欲求は、コロの腹の中でしっかりと濃縮され、『荒ぶる殺意の塊』へと育っていた。
その殺意は彩香の人生から去った元婚約者へと真っ直ぐに向けられた。
男は逃亡先でも別の女性を言葉巧みに騙し、金を貢がせ派手な生活を繰り返していた。
その日も女に愛を囁き、情事の後で寝息を立てている男。
「ゴロ……、ゴロゴロゴロ……グルルッ!」
隣で寝ていたはずの女は、獣の唸るような音を聞いた気がして目を覚ます。
隣を見て、最愛の男が苦しそうに何かをつぶやいていることに気付いた女は、そっと顔を近づけその男のつぶやきを聞いていた。
男はその寝言で全てを告白していた。
女を騙して生活していることも、今まで何人もの女から逃げてここまで来たことも、そして、今の女もそろそろ捨てようと思っていたことも……。
「グル……、グルルッ!」
彼の寝言をしっかりと聞いた女の脳内に、獣のような本能が呼び起こされる。女はあの時の彩香と同じように純粋で、激しい絶望と共に怒りが込み上げる。そのすべてが『殺意』へと塗り替えられて、その男の命を削り取った。
男の人生は、ゴロが蓄えた『荒ぶる殺意の塊』に喰いつくされる形で、あっけなく終わりを迎えた。
彼の体に残った刺し傷は、今まで彼が騙してきた女性の数を大きく上回るものであったという。
ホテルの従業員の通報でやってきた警官は、血だらけの男の前で虚ろな表情でへたりこんでいる女性を見て寒気を覚えた。男の死に顔は、まるで獣に噛みちぎられたように大きく抉れ、身元を特定することが困難になるほどであった。
――― 悪魔の予期せぬ喜び
数十年後、ゴロは役目を全うし、『芽瑠来琉堂」の棚へと戻ってきた。
持ち主である彩香がタケルに看取られながら、幸せな天寿を全うしたからだ。
老婦人はゴロを抱きしめた。
その中には、彩香の幸福な一生によって浄化された『生への活力』と、彼女の絶望から生まれた『荒ぶる殺意の塊』が濃縮され、溢れんばかりに詰まっていた。
「ゴロゴロ……」
ゴロが小さく喉を鳴らす。
老婦人はその全てを吸収し、深い満足感に笑みをこぼした。
「本当に予期せぬこと」
あの時、予兆なく飛び込んできた彩香。突発的に生じた不幸による激しい衝動が、他者に託された復讐の結末が、そして、その不幸を昇華させて獲た『運命の安息』の輝きが、これほどまでに大きな『贄』を産み出すとは。
老婦人は、自らが予期しなかった形で叶えられた幸福な人生により、強大な悪意のエネルギーを持ち帰ってきたゴロに、心からの感謝を示す為、何度もその頭を撫でていた。
本人が望む未来が『死』ではなく『安息』であれば、その安息を得るために、他者の死という対価が支払われることもある。
「これだから人間というものは面白い……。ゴロ、お前も次の旅に備えゆっくりとおやすみ」
老婦人は、力が回収したゴロを棚に戻し、その喉を優しく撫で上げた。
安楽椅子に座り目を閉じる。
雨は上がり、老夫婦は静かに流れる時間の中で次の獲物を待っている。
人生の絶望に打ちひしがれた『選ばれし善人』が、この店の暖かな光に吸い寄せられるようにやってくる時を、今はまだ静かに待ちわびている。
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