芽瑠来琉堂のぬいぐるみ 漆
――― 権力者の欲
「これだから田舎者は!」
そんな冷たい言葉が、最近この街に越してきた加奈子(28歳)の耳に深く突き刺さる。
場所は息子の通う中学校の視聴覚室。
初めて参加したPTAの会合の合間のことだった。
夫の仕事の都合で引っ越してきたのは半年前。
慣れない土地で仕方なしに参加したPTAの会合は、その時からすでに加奈子にとっての地獄と化していた。
「愚図」「気が利かない」「常識がない」
その後も、PTA会長の直接的な言葉の暴力に加え、他の保護者からのちょっと暴力など、それは次第にエスカレートしているようにも感じていた。
はすれ違うたびにぽそりと、けれど確実に聞こえるように陰口が放たれる。邪魔だと言わんばかりに肩をぶつけ睨まれる。
はじめは気にしないようにしていたが、執拗に何度も繰り返されるそれに加奈子は苛立ちを募らせていた。
始めは自分が悪いでは?と悩んでもみたが、半年も経てばこれが自分の所為ではないことは理解できた。自分は単なる余所者であり、標的として格好の『贄』にされたのだと……。
その事実に気づき、加奈子は肩を落しため息をついた。
失意のまま帰宅した加奈子は、先に帰宅していた夫を見て口を閉ざした。
ここ最近は夫も元気がないのも分かってはいた。
それでも何度か我慢ができず愚痴をこのしたこともあったが、「俺だって本社の中で一番の下っ端で、雑用ばかり押し付けられてるんだ!」と逆に不満をぶつけられてしまった。
さらには中学一年生の長男も最近は笑顔が少なく感じていた。もしかしたら学校でいじめを受けているのでは?
不安が溢れ、加奈子の心を蝕んでいく。
今日もまた、会長に呼び出され膨大な量のプリント作成を割り振られた。
「これ、急ぎだからコピーよろしくね!」
この大きな学校では30人以上が集まる会合の資料。もちろんコピー代などは全て自費でということなのだろう。加奈子にかかる負担は、金銭的にも精神的にも大きいものだった。
「もう嫌っ!」
その帰り道、堪えきれずに叫ぶ加奈子。
自転車を漕ぎながら涙が滲んだ次の瞬間、前輪が段差に乗り上げ派手に転倒してしまう。
膝を擦りむき、手のひらから血が滲む。
心も、体も、傷らだけで強い痛みを発していた。
加奈子は立ち上がれずにぼんやりと座り込んでいる。
その加奈子の視線の先に暖かな光が見えたような気がした。
ふらふらと立ち上がった加奈子は、近場のフェンスに自転車を立てかけ、目に焼き付いた光に向かって歩き出す。
古風な看板が見えた。
「芽瑠来琉堂?」
そうつぶやいた加奈子は、なぜだか心が暖かくなった気がした。
――― クーがもたらす波風
傷ついた加奈子は導かれるように目の前に存在していた店へと入る。
温かく甘い香りがした。
加奈子を店の主人と思われる優しそうな老婦人が笑顔で迎えてくれた。
「あら、いらっしゃい。ずいぶん傷ついているのね?」
そう言って加奈子に背を向け後ろの棚に歩き出す老婦人。
「心と体。穏やかな凪に戻れるように、この子を連れ帰ってはみないかい?」
老婦人が差し出したのは、目が合うと心が洗われるような、鮮やかな青と白のイルカのぬいぐるみだった。
「この子はね、『クー』というんだよ。この子ときたら、持ち主の心を覆う『淀んだ空気』や『権力者の悪意』を喰らって、持ち主の人生に『静かな凪』を呼び込んでくれるのさ」
加奈子はその愛らしいイルカを抱きしめた瞬間、なぜか溢れていた涙が止まった。まるで冷たい水の中に沈んでいた体が、温かい海面に引き上げられたような安堵感。
加奈子はクーを連れて帰ることにした。
その夜、クーを抱いて眠った加奈子は、久しぶりに深く穏やかな眠りにつくことができた。
「バシャッ!バシャバシャッ!」
真夜中にそんな音が聞こえた気がした。
翌日からの日常は、まるで潮流が変わったかのように好転し始めることになる。
――― 贄となる権力者の堕落
最初の異変は、夫の職場で起こっていた。
ある日、疲れて帰ってきた夫を感情の無い目で眺めている。そしてなぜか、クーを抱きながら立ち上がると、恐る恐る夫に言葉を投げかけていた加奈子。
「会社の上司に、一回ちゃんと相談してみたら?」
加奈子は戸惑っていた。夫に向かってそんな提案を講じるなんて、今まで一度たりともなかったこと。
俺の仕事には口出しするな!
夫の性格を考えればそう言って怒られるかもしれないな。そう考え身構えるが、夫からは「仕方ない、かな?」と弱弱しい肯定の言葉が返ってきただけだった。
気付けば夫はその場で元の支社の課長に電話していた。
雑用ばかり押し付けられ真面な仕事ができない状況を相談する夫の目から、加奈子が初めて見る涙がこぼれていた。
加奈子は相談を終え電話を切った夫に思わず抱きつき、まるで子供をあやすように背中をさすっていた。
「バシャッ!バシャバシャッ!」
その夜、加奈子は楽しそうなリズムを刻む水の音を聞いた気がした。
その翌日の夜、珍しくお土産を片手に帰ってきた夫は、上機嫌で加奈子に今日の出来事を報告していた。
電話で相談した課長は、実はその夜に本社の常務と行きつけの飲み屋で同席する予定だったようで、こっちに来ていたそうだ。
酒の肴として課長から夫の話聞いた常務は、激怒て徹底的に調べることしたらしい。
そして一夜明けた今日。
常務に命じられた人事部のコンプライアンス担当社員が調査を開始したのだが、少し調べただけでも夫をこき使っていた上司のパワハラや不正会計、果ては不健全な男女の密会など、次々に発覚してしまったとか。
その他にもやりたい放題だった社員多数。結局はその上司が全ての責任を取る形で、見せしめも兼ねて二度と本社へは戻ってこれないような田舎町に即時左遷となったとのこと。
さらに後日になって別の事実を知ることになる。
あの左遷された上司だが、実はPTAで加奈子を執拗にいじめていたあの会長の夫だったらしい。
急遽行われた会合でそのことを知る加奈子。
集まった他の奥様たちの加奈子への態度はすでに軟化していた。
誰も加奈子の陰口をたたいたりはしない。むしろ「申し訳なかったわね」と遠慮がちに話しかけてくる奥様も現れた。
それから3か月、平和な日々を取り戻した加奈子。
その幸せの流れは変わることは無く、夫が提案した新しい企画のアイデアが採用され、早々に昇進が内定していた。
「見てくれよ、この企画!すごいだろ?」
興奮する夫から手渡された書類を眺める加奈子。
その夫はベッドサイドのクーを指差し笑う。
「この、クーだったか?そのぬいぐるみなんだけど、夜中に見てたらなんとなくこの企画が思いついちゃってさ。それこそイルカが跳ねるようにバシーンとね。イデアが湧きだしてきたんだよ!」
どうやら夫のアイデアのヒントはクーだったらしい。
笑顔の戻った長男からは、学校でのいじめがあったことを告白された。その元凶となった同級生も、ここ最近は気の抜けたように覇気がなく、周りから孤立しているのだと少し心配そうに話してくれた。
加奈子はその夜、クーを抱きしめそっと頭を撫でる。
「ありがとう、クー」
その夜、いつもと変わらず水音が、加奈子の夢の中で響いていた。
――― 望んでいた平穏な凪
幸せな毎日が訪れ、加奈子の心は澄みきった青空のようだった。
身の回りに渦巻いていた津波のような出来事も、その全てが遠い過去になっていた。
加奈子は今日も気分よくクーを抱いて眠る。
「バシャッ……、バシャ……」
真夜中。
クーの小さな体が微かに揺れる。
その波音のような音色が、加奈子には優しい子守歌のように聞こえていた。
クーが波を立て飲み込んでいたのは、加奈子と夫に向けられていたよそ者を拒む排他的な『泥』、夫を縛っていたのは侮蔑のこもった権力者の『悪意』、そしてPTA会長夫妻の優越感と傲慢さの残滓は、クーの起こした津波に全てのみ込まれ、引き寄せる波によりクーの魂へと還元されてゆく。
ごっそりと悪意の『塊』を喰らったクーは、ほんの僅かな残りかすを吐き出し「パシャ」っと鳴いた。
その僅かな欠片が、加奈子の家族を癒すための『幸せな凪』へと変えられていた。
加奈子はクーを抱きしめたまま、今日も穏やかな夢の中へ沈んでいった。
その頃、「芽瑠来琉堂」では老婦人は微笑んでいた。
「新しい波は、いつも大きな渦を呼ぶ。クーは多くの権力者の欲を喰らって、お腹を丸くして帰るのだろうね」
悪魔の力は、その持ち主の幸福の代償として、また一つ、この世界の巨大な悪意を喰らいつくしてゆく。イルカの跳ねるような波音は、いずれ悪魔の力を満たす大きな津波となるのだ。
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