芽瑠来琉堂のぬいぐるみ 伍
――― 最愛の亡霊
東京の夜はいつも冷たかった。
直哉(30歳)はスーツ姿で最終電車に揺られていた。
彼の人生は客観的に見れば成功していたように見えるだろう。名の知れたIT企業の管理職、収入も十分、高層マンションの上階に住む評判の良い好青年。
だが、その生活に色も音もない。
1年前、最愛の妻を病で亡くして以来、直哉の心は凍りついたままだった。
子供はいなかった。新しい恋人を作る気もない。生きる意味も見失っていた。仕事は惰性、生活は浪費。毎晩、変わらず家に直帰し、空っぽの部屋で時間を潰す。
色もなく、音もなく。
その夜、自宅の最寄り駅の一つ前で降りてしまった直哉。
なぜこんな……、自分でも分からないが、ただなんとなく、何かに導かれるように足が動いていた。
薄暗い路地裏の奥を覗き込む。
ひっそりと灯る温かいオレンジ色の光が見えた。
古風な木造の雑貨店、「芽瑠来琉堂」という看板が目に入り、誘われるがままに足がそちらを目差していた。
扉を開けると、甘い香りと共に穏やかな老婦人が直哉を出迎えた。
「あら、いらっしゃい。失くしてしまった何かを、探しているのかしら?」
老婦人の言葉は、直哉の凍てついた心を優しく解きほぐす暖炉のようだった。
直哉は何も言えなかったが、老婦人は彼の心の奥底にある「渇望」をその大きな瞳で見透かしているようだった。
老婦人が奥の棚から一体のぬいぐるみを取り出し戻ってきた。
それは灰色と黒のしま模様、ふんわりとした毛並みのアライグマのぬいぐるみだった。ちょこんと座ったその風貌、大きな瞳がどこか哀しげに直哉を見つめている。
「この子はね、『アルト』というんだよ。この子ときたら、持ち主の『深い後悔』を洗い流し、代わりに『最も望む未来の道』を描いてくれるのさ」
直哉はなぜこんなものに惹かれてしまうのでろう?と首をかしげた。
人生に温かみを求めたのか……、それとも老婦人の優しさに逆らえなかったのか……。
理由はどうあれ、直哉はアルトを連れて帰ることにした。
――― トントン、という音
その夜、直哉はアルトを抱きかかえてベッドに入った。
日付が変わる頃。
「トントン……、トントトン……」
小さな音。
けれど切実な音が直哉の胸元で響いた。
直哉は深い眠りの中で意識を覚ます。
抱きしめているアルトが微かに笑っているように見えた。
「トントン……、トントトッ」
アルトの小さな口元が何かを咀嚼している。
それは直哉の心にこびりついていた妻への「後悔」と「無力感」、そして「生きる意味を失った虚無の心」の塊だった。
それらが黒い霧となってアルトの口元に吸い込まれ、「トントトッ」と喰らわれるたびにアルトの身体は熱を帯び、それを抱く直哉の心はふわふわと軽くなっていった。
そして明け方、深く眠った直哉は夢を見た。
――― 最も望んだ未来
夢の中。
直哉はビングにいた。
妻を亡くしてからは休日になるときまってソファに座り呆けていた。
そんな直哉の目の前には、亡くなったはずの妻が座り笑顔で彼を見つめている。彼女の膝の上には、自分が連れ帰ってきたばかりの、アライグマのぬいぐるみ、アルトが抱かれていた。
「あれ?そう言えば、君はアライグマが大好きだったよね?」
直哉はそれを口にしてハッとした。
妻は無類の動物が好きで、その中でも特にアライグマが大好きであった。休みになると二人で近所の動物園に行っては、俺の事を置き去りにして写真を撮りまくる妻の姿を思い出していた。
もちろん、妻との思い出はそれだけに尽きない。胸に手をあて数々の満たされていた頃の時間を思い出す。この一年、そんな穏やかで幸せな記憶すら忘れ、ただ日々を浪費していたことに愕然とする直哉。
「僕はなんて愚かなのだろう……」
妻がいつものように微笑んでいる。
「やっと気づいたのね?」
妻の声は優しい。
そして彼女が抱くアルトは、夢の中なのに現実のように温かく見えた。直哉は妻のそばに座りその手をそっと握る。直哉の大切な宝物。その手のぬくもりに思わず涙があふれてしまう。
「もう二度と、君を一人にしない!このままずっと一緒に生きて行きたい!」
直哉の言葉に妻は目を細め静かに頷いた。
「ええ、ずっと一緒よ……」
直哉は現実の世界に何の未練もなかった。
仕事も財産も……、孤独な人生はもうこりごりだ。
直哉が欲しい物はひとつだけ。他には何もいらないのだ。
彼の最も望む未来は、この愛する妻と共に歩むことのみ。それが生の世界では許されないなら、彼は喜んで死の世界を選び共に逝くことに躊躇はなかった。
直哉は愛する妻を強く抱きしめた。
夢の中の妻もまた直哉を強く抱きしめ返した。
その時、直哉の心から生への執着が完全に消え去った。
夢と現実の境界がふわふわとけてゆく。
「トントン……、トントトン……」
妻の持つアルトはその腕から抜け出し歩き出す。
「トンッ、トンッ、トンッ」
まるで二人を祝福するように回りを飛び跳ねるアルト。
直哉の体から力が抜け静かに冷たくなってゆく。
彼の魂は今、愛する妻の幻影と共にただ静かに、ひっそりと、暖かな光と共に消え去っていった。
――― 悪魔は笑う
翌朝、直哉の部屋にはアライグマのぬいぐるみだけが残された。
そのアルトの胸には、直哉の感じた「深い後悔」と、生きる意味を失った「虚無感」、そして最後の瞬間に溢れ出た純然たる「愛情」が満載されていた。
「芽瑠来琉堂」の店主である老婦人は、安楽椅子に腰かけその珍しい顛末を感じ取っていた。
「まあ、アルト。お前も随分と重く張り裂けそうなものを喰らって帰ってきたのね?」
彼女は口元に手をあて静かに笑った。
「その魂が最も望む未来。それが死であれば……、こんな結末もあるのだね?」
アマノの力は持ち主を「不幸から救う」ためだけに発動する呪いがかけられている。だがその持ち主の心の根底にある不幸が「生きていることそのもの」であれば、その為の癒しはその命を終わらせることとなる。
老婦人はアルトから吸収した生者から発せられた究極の『後悔』と『虚無』、そして『愛情』という相反する強大な感情を取り込み、自らの力へと変えてゆく。
この悪魔は、誰かの死も、誰かの幸福も、等しく自らの力に変え蓄える。ただ『選ばれし善人』の望みを叶え幸せな天寿を全うさせる神マリアの仰せの通りに……。
今日もまた「芽瑠来琉堂」の扉は開いている。
「あら、いらっしゃい。ずいぶん傷ついているのね?」
今日も誰かの幸せを叶えるため、そして誰かの心を貪り喰らうために……。
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