芽瑠来琉堂のぬいぐるみ 弐
――― 悪意を喰らうぬいぐるみ
コンクリートのジャングルに夕闇が迫る頃、女子高生の恵美子(16歳)は人目を避けるように路地裏を歩いていた。
誰も通らない通学路の路地裏で足を止める。
制服のスカートの裾は泥で汚れ長い髪はぼさぼさに乱れている。所々痣がある腕をさするようにして泣いた。
今日も学校は地獄だった。
ロッカーには「死ね」と書かれた貼り紙。上履きは隠され、トイレでは水をかけられた。グループラインでは自分への陰口が飛び交っており、誰も恵美子を助けてはくれない。
「もう……、消えたい……」
恵美子の心はまるで壊れかけたガラス細工のように、今にも砕け散りそうな程、ひび割れを起こし限界を迎える一歩手前といっても良い状態であった。
このままどこか遠くへ行ってしまいたい……。
どこか誰も自分を知らない場所へ……。
それができないと言うのなら、いっそ消えてしまいたい!
ふらふらと目的もなく路地裏を進む。
まるで自分の死に場所を探すようにふらふらと……。
薄暗い路地裏を曲がった時、暖かな光が恵美子の目に飛び込んできた。
古びた木造の建物から漏れる、優しいオレンジ色の灯り。
看板には「芽瑠来琉堂」と書いてあった。
古風な看板の文字が暗闇の中でわずかに輝き、恵美子の心を激しく引きつけた。
引き寄せられるように扉を開けると、そこには白いエプロン姿の老婦人がにこやかな笑みを浮かべ出迎えてくれた。
店内は、木工品やレース、そしてたくさんのぬいぐるみで溢れている。
「あら、いらっしゃい。こんな時間まで、お辛いことでもあったのかしら?」
老婦人の優しい声に恵美子の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。
ただただ無心で泣き続けた。
老婦人は何も言わずに待っている。そして恵美子の背中を優しくさすり続けてくれた。店内には甘い匂いが充満しており、それが何故か心が安らいだ。
しばらくして落ち着きを取り戻した恵美子に、老婦人は奥の棚から一体のぬいぐるみを取り出した。
それは鮮やかな緑色の、まん丸に太ったカエルのぬいぐるみだった。大きな目ににっこりと笑った口元が、恵美子にはなんとも愛らしく映っていた。
「この子はね、『エル』というんだよ。この子ときたら持ち主に向けられた悪意を、少しずつ食べてくれるのさ。そして不幸をもたらす子たちには、ちょっとしたお仕置きをしてくれるんだよ?」
老婦人は優しく微笑み、エルを恵美子の腕に押し付けた。
エルは不思議と温かかった。
そんな都合の良いぬいぐるみがあるはずが無い。そう思いながらもなぜかこの子なら、自分の気持ちを分かってくれる気がした。
恵美子はエルを連れて帰ることにした。
――― ゲゲゲ、という音
その夜、恵美子はエルをベッドの枕元に座らせると、疲れに身を任せ深い眠りに落ちていった。
真夜中。
「ゲゲ……、ゲゲゲ……」
低く微かな声が部屋に響いた。
恵美子はうっすらと意識を覚ます。
エルが枕元で微かに震えている気がした。
「ゲゲ……、ゲゲゲッ!」
声のする方へ目を凝らすと、エルの大きな口元が何かを咀嚼するように動いている気がした。
恵美子をいじめる憎きあの女たちの陰湿な笑い声、悪意に満ちた冷たい視線、そして繰り返される言葉に、肉体的な暴力も、そのすべてが黒い靄となってエルの口元に吸い込まれ、喰らわれている。
エルは少し苦しそうに、けれど満足そうにその負の感情を「ゲゲゲ」と飲み込んでいく。
恵美子は怖くなるどころか、まるで自分の心の奥底にあった重りが少しずつ軽くなっていくような、そんな幸せに満ちた感覚を覚えた。
「ゲゲ……、ゲゲゲッ……」
エルは再び静かになり、眠りについたように動かなくなった。
翌朝、恵美子は久しぶりに体の重さを感じずに目が覚めた。
昨夜は何か可笑しな夢を見ていたような?そんな感覚に首をかしげ考える。だがどんな夢を見たのかは思い出せない恵美子。
だが鏡に映る自分の顔は、相変わらず少し疲れてはいるものの、昨日まであった絶望の色は薄れている気がした。
――― 小さな仕返し
その日、学校に行くと不思議なことが起こっていた。
いつも恵美子を笑いものにしていたグループの一人、リーダー格のミカが朝礼中に突然鼻血を出して倒れた。大したことはなかったがその日の授業はすべて欠席。何かの病気なのでは?そんな噂が流れた。
久しぶりに平和な一日を追え帰宅した恵美子。もしかしてエルのおかげ?そんなことを考えながら、エルの頭をそっと撫でる。エルは少しだけ目を細め喜んでいるように見えた。
「ゲゲ……ゲッ!」
その日の夜にも、エルは小さく鳴いている。
一夜明け、恵美子の上履きを隠していたユカが、下駄箱の前で派手に転倒し足首を捻挫した。全治2週間だったようだ。
だがユカの不幸はそれで終わりではなかった。転倒時に恵美子の靴を握りしめていたことについて、生活指導男先生に問い詰められ反省文を書かされたのだと、今まであまり関わりの無かったクラスメイトが小声で教えてくれた。
「ゲッ……ゲゲゲーッ!」
毎夜鳴き声をあげるエルは、日に日にそのお腹が大きくなっているように感じられた。
昨夜も変わらず鳴き声をあげるエル。だがその鳴き声の記憶は、恵美子には残ってはいなかったようだ。
その後も恵美子をいじめていたグループは、次々と小さな不幸が訪れるようになっていた。
レミはテスト中に突然ペンが壊れ、誰も助けてくれないまま赤点となった。セイコはSNSに投稿した自撮り写真に映ったおやつのパッケージがタバコだと指摘され停学になった。
そして、恵美子を一番酷く虐めていたミカのスマホがウイルスに感染。彼氏との写真が流出し、悪質な性行為のフェイク動画が作られ学校を退学となった。
誰もが大きな怪我などは無かったが。けれどもれなく確実に、彼女たちの心を壊しその人生をも狂わせた。そんな出来事ばかりが彼女の周りだけで起こっていたのだ。
恵美子の周りから、少しずついじめの空気が薄れていく。
いじめっ子たちは何か得体のしれない不気味な気配を感じ取ったのか、恵美子に直接的な嫌がらせを仕掛けることが無くなっていた。
恵美子は教室の窓から空を見上げた。
あんなに灰色に見えていた空が今日はとても青く見える気がした。
今日もきっとあの「ゲゲゲ」という声が、部屋の中に響いているのだろう。恵美子の心に巣食っていた深い闇を喰らうエル。この愛嬌のある見た目のエルと言う名の悪魔と共に、恵美子はゆっくりと前へと進み始めていた。
「ありがとう、エル」
今日も恵美子は自室でお留守番をしているエルを想ってお礼を口にする。それにエルが返事をしたかどうかは誰にも分からない。
だが、恵美子の穏やかで静かな喜びに満ちた幸せの代償を頂く為、恵美子に向けられた悪意をを喰らい続けているエルは、今夜も「ゲゲゲ」と鳴くのだろう。
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