009
「いたっ」
戻って早々、僕は頭を叩かれた。
頭頂部目掛けて振り下ろされた平手は垂直に正中線を貫き、末端が痺れるほどの痛みが走る。
「馬鹿じゃないの……!」
強烈な一撃を見舞った金剛さんは、怒りに肩を震わせていた。
瞳に滲んでいるのは涙だろうか。口数が少なく語調も落ち着いているから、感情を表に出さない人なのだと勝手に勘違いしていた。
「なに考えてんだ!!」
怒鳴り声を上げたのは杉石君だ。
金剛さんのように手をあげることはないが、彼の激情は分かりやすい。血管が浮き出るほどに固く拳を握り締め、言い足りなそうに口を開いては閉じるを繰り返す。
「頼むから、もう無茶はしないでくれ」
絞り出すようなその頼みに、思わず頷く。
怒られるのも心配されるのも、本当に久し振りだ。叩かれた頭の仄かな熱も、何故だか嬉しく思える。
「とりあえず、メノウくんに抗体があるのは間違いなさそうね」
薄気味悪い笑みをこらえきれない僕を咎めるように、玻璃さんが声を上げた。
試行回数はたったの二回だが、無害な体液をもつ美少女と連続して出会うほど幸運ではない。実感はないが、僕には本当に耐性があるのかもしれない。
だとすれば、この体は献体として研究機関に提供すべきだろう。誰の役にも立たなかった僕が世界を救う鍵になるとは考えてもみなかった。
「それじゃあ、これからの行き先だけど──」
「このまま金剛の家に向かう。全てが落ち着くまで、そこで待機だ」
「えっ」
杉石君の頑とした意見に、思わず間抜けな声が出た。じろりと鋭い視線を向けられ、慌てて口を抑える。
「なんだ、瑪瑙くん。意見があるなら言ってくれ」
折角の体質も、家の中に閉じ込めては宝の持ち腐れだ。杉石君の真っ直ぐな視線に弱腰になるけれど、他人事ではないのだから、はっきり自分の意見を示しておかなければならない。
「……あの、例えば、だけど、僕の体を役に立てることはできないかな。世界がこんなことになったんだから、きっと、何とかしようとしている人達がいると思うんだ。そういう機関? で調べてもらえば、何かのきっかけにはなるのかなって。多分、だけど」
僕の主張に玻璃さんは納得しているみたいだが、杉石君の表情は渋いままだ。言葉が段々と尻すぼみになっていくのが自分でも分かる。
「も、もちろん、みんなに付き合ってもらおうなんて思ってない。僕一人で行くつもりだ」
「だめだ。いくら感染しないからといって、真珠みたいな奴らがいる。安全が保障されてるわけじゃない」
「で、でも、他にも使い道はあるよ。外の見回りとか、物資の調達とか、JCだらけの町を自由に歩ける人はきっと、そんなにはいないはずだ。僕個人は役に立たないんだから、せめてそういうところで」
「いい加減にしろ」
ぴしゃりと言い切られては、黙るしかない。杉石君に否定されると、すべてが間違えているように思えてしまう。
「君は大切な仲間なんだ。もう役に立たないなんて言うな。わかったか?」
杉石君は情が深すぎる。いずれ、彼の制止を振り切ってでも前に出る時が訪れるかもしれない。
その時はきっと。
杉石君の言葉に頷きつつ、内心覚悟を固めていると不意に手を握られる。
ついさっき、濃厚なキスを交わした少女だった。奥のスタッフルームから拝借したコンビニの制服を着せたのだが、丁度いいサイズはなく、もう肩がはだけている。
「どうしたの?」
問いかけてみても返答はない。そればかりか少女はもじもじと体を揺らし、上目遣いで僕の顔色を窺ったと思えば、すぐに下を向いてしまう。
ワイシャツを着せた少女とは振る舞いが違う。性格には個体差があるようだ。彼女達の正体がますます分からなくなる。
「とにかく、もう三時だ。早く出よう」
「う、うん」
杉石君の声色は疲れ切っている。これ以上、彼にストレスをかけまいと少女達を急いで立ち上がらせる。
「……それはどういうつもり?」
「えっ」
今度は玻璃さんから冷たい声がかかった。僕の緊張が伝播したのか、両脇の少女達にひしと抱きつかれる。
「貴方、それを連れていくつもり?」
べたべたと触れ合ううちに忘れていた。
僕にとっては無害でも、皆にとって少女達は、理外の危険物に他ならない。彼女達ではなく僕の体が特別だと判明した今、適当に撒いてしまうのが一番だ。
「そうだな。悪いけど追い出してくれるか」
杉石君の指示に従い、ワイシャツの少女が胸に抱える腕を引き抜き、コンビニ制服の少女と絡んだ指を解く。
二人は不思議そうに僕を見上げるが、名残惜しさを感じるわけにはいかない。そっと肩を押して距離をとる。
「わっ」
すぐに抱きつかれた。ワイシャツの少女が上半身をぴたりと押しつけ、にこにこ笑いながら首を傾げる。
「ごめんね」
通じないと分かっていても、自然と話しかけてしまう。
もう一度体を離そうとするが、少女は回した腕に力を入れて拒む。押し引きしているうちにコンビニの少女が肌着の裾を掴み、いよいよ手の打ちようがなくなった。
「ちょっと」
玻璃さんの苛立ちが耳に痛い。悪いと思いつつも、気持ち強めにワイシャツの少女を押す。
「あ」
少女の体は想像以上に軽く、ぺたんと尻餅をついてしまう。硬い床の上で剥き出しの尻が跳ねる。
「だ、大丈夫!?」
やってしまった。汚れのない純真な瞳が、みるみるうちに涙ぐむ。
慌てて駆け寄ると、助けを求めるように両腕を伸ばしてきた。躊躇いなく抱き起こす。またしても少女と抱き合う形になってしまったが、非は僕にある。見過ごすことはできない。
少女はすんすんと鼻を鳴らしながら僕の腕を掴み、自分の尻に誘導する。絹のように滑らかな肌が手のひらに吸い付き、奥の柔らかな弾力が確かな命を感じさせる。促されるままに撫で摩るが、ワイシャツを羽織らせただけの少女の尻を触る絵面は極めて怪しく、不快なものだったろう。
「エ゛ッ、エン゛!」
玻璃さんの咳払いで僕の背筋はびきりと正されるが、少女達には伝わらない。前と後ろを少女に挟まれ、状況は更に悪化する。
どうしよう。彼女達に触れられるのは僕だけなのに、どうしても引き離せない。三方から注がれる視線に耐えられず、固く目を瞑る。
「……ちゃんと世話できるのか?」
逃げるだけの僕に救いの手を差し伸べたのは、またしても杉石君だった。
彼らしくない歯切れの悪い口振りは、無理に自分を納得させた証左だ。気が変わる前に答えようと諸手を挙げたが、僕の弱さが招いた結論を玻璃さんは見過ごさない。
「ちょっと、何言ってるのよ! 杉石君!」
噛み付くみたいな勢いで玻璃さんが詰め寄る。杉石君は険しい顔で眉間を揉み、目を合わせようとしない。
「一緒に行動するなんて危険すぎる! こいつらがこのまま大人しくしている保証なんてどこにもないのよ!?」
「……瑪瑙くんが世話してくれる。信じるしかない」
「できるわけないでしょう!」
玻璃さんの激しい剣幕に少女達が反応した。僕を掴む指に力が込もり、不安げな表情で見つめてくる。
「金剛も黙ってないで何か言いなさいよ!」
答えない杉石君に焦れて、今度は金剛さんに矛先が向けられる。沈黙を保っていた彼女は深く溜め息を吐くと、ゆっくりと立ち上がり、僕に向かって歩き出した。
「瑪瑙くん」
「は、はい」
金剛さんが目の前で立ち止まり、頭上から声を掛けられる。背が高いことは分かっていたが、座った姿勢から見上げると一層大きく映る。
「家には入れられないよ。途中で別れることになる」
「……うん」
「約束できる?」
金剛さんの念押しにはっきりと頷く。
頭の位置が高くて表情は見えないが、彼女は玻璃さんに向き直り、胸を張った。
「わたしも瑪瑙くんを信じます」
「は、はあっ?! 貴女まで何を──」
「この距離まで近づいても、この子達は瑪瑙くんから離れません。瑪瑙くんには抗体だけじゃなく、JCを惹きつける何かがあるんだと思います」
「だったら尚更危険じゃない!」
「瑪瑙くん以外に興味を示さないなら、いざというとき囮になります。それに、この子達は小さいから、屈みでもしなければキスもされません。傷口からの感染に気をつけていれば、そこまで危なくないんじゃないですか」
金剛さんは淡々と語る。表情の乏しい彼女がひとつひとつを説き伏せる様子は冷ややかな迫力があり、玻璃さんはぶつぶつと呪詛を唱えていたが、ついには口を噤んだ。
沈黙を議論の終結と認め、杉石君が立ち上がる。
「決まりだな。しばらくはそこのJCを連れて行く。だが、少しでもおかしなところがあればすぐに対処する。瑪瑙くんもそれでいいな?」
「あっ、その前に」
まだ一人、確認を取っていない人がいる。
「あ、あの、真珠君は?」
そこまで言って、彼の姿が消えていることに気付く。激しい議論に乗じて、真珠君は逃げ出していた。
しかし、彼の行方を気にする人は、誰もいなかった。