025
金剛さんの家に帰る途中、通っていた小学校を見つけた。
といっても、いつも牡丹が引っ付いていたから、特に思い出はない。素通りしようとしたのだが、金剛さんに反応があった。彼女はぴたりと足を止め、じっと校門を見つめる。
「入りたいの?」
金剛さんが小さく頷く。
急ぐ用事はないし、他人の話を一方的に聞かされて疲れていたところだ。屋内で少し休憩をとるのもいいだろう。金剛さんの手を引いて、玄関に向かう。
アルミとガラスの安っぽい引き戸に手を掛ける。JC騒ぎがあったから鍵が掛かっていると思ったが、体重を載せるとあっさり開いた。
敷居を跨いで辺りを見回す。造りは高校とさして違いはないが、色々な物が小さい。靴箱の中の上靴なんかは、金剛さんの片手に納まりそうなサイズだ。
「靴下でいいか」
来客用のスリッパくらいはありそうだけれど、わざわざ探すのも面倒くさい。踵で靴を脱ぎ、靴下で昇降口に上がる。
顔を上げると、壁や床についた赤い染みが目に入る。ここもJCの惨劇からは逃れられなかったようだ。ただ、左右に伸びる廊下の薄暗い旅館みたいな雰囲気は、僕が通っていた時から変わっていない。立ち止まって眺めていると、朧げではあるが段々と思い出してきた。
「ここでよく、牡丹と待ち合わせしたな」
教室に迎えに来られるのが恥ずかしくて、僕から頼んだ。牡丹はデートみたいって喜んでたか。まあ、我慢できずに教室に突撃される方が多かったけれど。
廊下の左側、職員室の隣にある保健室。あそこにもよく入り浸った。牡丹も僕も、特別体が弱いわけではなかったが、牡丹は何かと理由をつけて僕を保健室に連れ込んだ。薬品臭いベッドの中で、足を絡ませ抱きついてきた牡丹の体温を思い出す。
「思ったより、悪くない生活だったのかも」
中学になってからは後悔と罪悪感に塗れた毎日だったが、小学校の頃は人並みの生活を送れていた、と思う。
友達はできなかったが、話し相手ならそれなりにいた。そういえば、同じ図書委員だったあの子の名前は──
「うん? どうかした?」
不意に、金剛さんが僕の手を引っ張っる。どこか行きたいところがあるようだ。
金剛さんに任せて、廊下を真っ直ぐに歩く。
いつも歩幅を揃えてくれる彼女にしては珍しく、歩く速度が少し早い。何度かつっかえながらもついていくと、廊下の終わりが近づいた辺りで、金剛さんは突然足を止めた。
「……ここ?」
目の前にあるのは、図書室の戸。
本はあまり読まないが、万年図書委員だった僕には馴染み深い場所だ。図書室では牡丹も大人しくしていたから、気持ちを落ち着けるには丁度いい場所だった。
僕が感慨に耽っていると、金剛さんが無造作に戸を開ける。室内には赤い染みも、荒れた様子もない。それどころか、人が出入りした気配が感じられない。
今どき紙の本を読む子供はいないみたいだ。目を凝らせば、本棚、机、椅子にまで薄い埃が積もっている。空気中にも陽光を受けた微細な埃が舞っていて、積極的に入りたいとは思わない。
しかし、薄汚れた空気に二の足を踏む僕とは違い、金剛さんは大股で図書室に入っていった。彼女は一直線に受付カウンターまで進むと、椅子にどっかりと座り込み、俯いて動かなくなる。
「金剛さん?」
声を掛けても反応はない。仕方なく、彼女の隣に腰を下ろす。
「うっ」
直後、膝の力が抜けた。
思い返せば、今日は歩き通しの一日だった。ようやく座れた瞬間に、溜まった疲れがやってきたようだ。
いや、それは楽観的すぎるか。
僕の体は、確実にJCへと近づいている。最近はぼうっとする時間が長くなり、頭の回転も鈍くなった。そのくせ自分の感情を制御できず、直上的な行動に走ることもある。突然力が抜けたのは予兆で、もうじき僕は、道中で目にしたJC達のように、白い彫像に変貌するのだろう。
僕は特別ではなかった。ここまで生き永らえたのは杉石君達のおかげで、破裂しなかったのは杏に仕組まれていたからだ。牡丹が僕を愛したのは家族のいない寂しさを埋めていただけに過ぎず、今は物言わぬ金剛さんに性欲をぶつけるだけの獣に成り果てた。
救えない人生だ。僕は何一つ成せないまま彫像となり、恥を晒し続けることになる。
金剛さんも呆れているだろう。彼女がJCになって何日経ったかは覚えていないが、そう長くはないと思う。残された貴重な時間を、僕なんかが独占すべきではなかった。
「ごめんね。金剛さ──」
すべてが申し訳なくて、せめて言葉の謝罪だけでもと彼女の方を見上げた瞬間、はっとした。
隣り合わせの座り位置。俯き気味の横顔。
あの頃から随分大きくなっているが、間違いない。
「……金剛薺さん」
小学三年生から卒業までの四年間、同じ図書委員だった女の子。
仲が良かったわけではない。時たま短い雑談をするだけで、昼休みが終われば関わることはなかった。
けれど、彼女の隣は不思議と落ち着いて、牡丹だらけの日常の中で、他の誰かと静かに過ごせる唯一の時間だった。
「金剛薺さん」
もう一度、名前を呼ぶ。
彼女はゆっくりとこちらを向いて、伏し目がちに僕を見つめる。
「もしかして君は、ずっと前から気づいていたの?」
金剛さんは答えない。僕を見つめ続けるだけだ。
流石に調子が良すぎたか、と顔を背けようとしたとき、そっと頬に手を添えられて戻される。
焦茶色の瞳に、僕が映っている。
彼女は僕の右手をそっと持ち上げ、自身の胸に押し当てる。豊満な温みの奥から、心臓の鼓動が伝わる。早く、しかし、穏やかなリズムの中で、お互いの視線が真っ直ぐに交わる。
あいしてる。
声はないが、彼女の唇はたしかにそう紡いだ。
JCの本能か、金剛さんの本心か。それを確かめる術はもうない。ウィルスに侵された頭が、都合よく解釈したといえばそれまでだろう。
けれど僕は。僕の人生は。
「……僕も、君を愛している」
彼女の一言で救われた。
愛することを許されなかった人生で、初めて好意を伝えられた。
目頭が熱い。胸の奥がぎゅっとする。手のひらが汗をかき、彼女の胸に吸い付いて離れない。
金剛さんが僕の背中に手を回して、抱き寄せる。夏の陽射しよりも暖かい温もりに包まれ、脳が微睡みに浸かっていく。
今、眠れば、次に目覚めることはないだろう。
それでも、よかった。好きな人の傍で眠れるならば、今日が最期になろうと構わない。
ぼやけた視界に影が落ち、唇が優しく触れ合う。
金剛さんの顔は、もう分からない。快感を貪るような激しい交わりでもない。けれど、微かに擦れただけで、体中が幸せに満ちていく。
僕のせいで、人も、JCも、大勢死んだ。
それでも僕は、たしかな幸福に包まれながら、彼女の胸の中で目を瞑った。
本項をもって終了となります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
読んでた人いないだろ




