金剛薺という少女
大柄な両親から産まれたわたしは、1800gの未熟児だった。
三十歳で初めての出産だったお母さんは、そのことを酷く気にしていて、とにかくたくさん食べさせたがった。お父さんもよく食べる方で、なんの疑問も持たず与えられるままに食べ続けたわたしは、未熟児だったことを信じてもらえないような立派な体に成長した。
いや、立派というのは婉曲的過ぎる。触れれば潰れてしまいそうだったか弱いわたしは、太ったデカブツに変貌した。
自らの醜さに気付いたのは、小学生の頃だ。小学二年の夏、運動会の練習をしていた時、それははっきりと告げられた。
「邪魔なんだよデブ!!」
たしか、違うクラスの男子だったと思う。ジリジリした快晴の下、集団圧力により行動を制限され、ストレスが溜まっていたのだろう。そんな中、目障りなデブがそばをうろちょろしていたのだから、思わず罵声を吐いてしまったのかもしれない。
よくある暴言。しかし、当時のわたしには衝撃的なひと言だった。
恥ずかしい話だが、わたしは自分を可愛いと思い込んでいた。大人達からの苦し紛れの褒め言葉を、本気で信じていたのだ。鏡に映るブヨブヨに膨れた顔面の上に幾重ものフィルターを重ね、自惚れていた。
生まれて初めてのストレートな罵声を浴びて、わたしの世界は一変した。
向けられる視線は侮蔑に満ち、掛けられる慰めの言葉は皮肉めいた罵倒に聞こえる。どこかで笑い声が上がれば、わたしの醜さを嘲笑う声だと信じて疑わなかった。
いっそのこと派手に虐められたら、学校に行かない理由もできただろう。青痣の一つでもあれば、両親が止めていたはずだ。けれど、腫れ物扱いはされても直接的な嫌がらせは全くなくて、無口で根暗な、自業自得のデブが生まれただけだった。
それから一年弱。小学三年生に進級し、クラス替えで教室の顔ぶれは一新されたが、わたしの体に変化はなかった。相変わらず友達はいないし、だらしない体型はそのままだ。誰かがそばにいるだけで大量の汗をかき、せめて視界に入らないようにと教室の角を陣取ることで精一杯のわたしに、憂鬱な時間がやってくる。
学級委員決めの時間。
やりたくもない仕事を強制的に割り当てられること自体がストレスだが、一番憂鬱なのは、男女ペアで務めなければならないところだ。
誰と組んでも嫌がられるに決まってる。せめて、わたしの前では悪口を言わないような、大人しい男子であって欲しい。
手前勝手な望みを抱くわたしを他所に、委員決めは進んでいく。学級委員や体育委員、華のある委員には人気者が手を挙げ、地味で仕事の多い委員は後回しだ。当然、わたしに立候補する度胸はなく、余り物の枠当てを待つしかない。
「えーっと、最後は図書委員だな。まだ決まってないのは……金剛とメノウか?」
瑪瑙菖蒲くん。
話したことはないが、名前は知っている。休み時間のたびに妹が教室までやって来る男の子だ。席の場所も覚えている。
「じゃあこれで全員決まりだな。明日からよろしく頼むぞう」
先生が黒板にわたしと瑪瑙くんの名前を書き付け、ようやくといった風に腕を回した。俄に声が溢れるのに乗じて、こっそり瑪瑙くんの方を見やる。
黙々と帰り支度をしている。その顔に嫌気も不満もなく、ただ事実を受け受け止めただけの、真っさらな無表情があるだけだった。
◇◆◇
瑪瑙くんからの連絡が来ない。ショッピングモールに着いたら、まず一報を入れてもらう予定だったのに。
二人を見送ったのは朝の十時だが、すでに陽は傾き始めている。ここからショッピングモールへは徒歩で片道三十分ほど、警戒しながら進んだとしても夕方までかかるはずはない。
二人の身に、何かが起きている。
「ああそう。仕方ないんじゃない」
だというのに、会長の返事はおざなりだ。杉石くんに軽んじられたことを根に持っているのか、彼女はずっと険悪な態度を崩さない。
「二人を迎えに行こうと思う」
「勝手にすれば。あ、鍵は置いていってね。貴女が死んで、誰かに拾われたりしたら大変でしょ」
ここはわたしの家だ。一時避難しているだけの会長に、とやかく言われる筋合いはない。
それに、分かっていたことだが、この人には二人を慮る気持ちも、危険を冒して食料調達に出かけてくれた感謝もないみたいだ。わたしが分かりやすく危機感を表しても、ソファーにもたれてぼんやり漫画を読んでいる。
「はあ」
駄目だ。この人は使い物にならない。
今すぐにでも叩き出してやりたい思いに駆られるが、プライドばかり高いこの人は、わたしが留守にした隙を狙って報復してくるだろう。窓を割って侵入し、家中を荒らし回るくらいのことは平気でしそうだ。
だからといって、連れて歩くのも面倒くさい。隣で延々と不平不満を吐き散らす姿が容易に想像できる。
「……家に居てもいいけど、鍵は持ってくから」
「はーい」
全部を妥協して家に居ることを許可したというのに、この態度だ。漫画からチラリとも目を逸らさず、気の抜けた返事をするだけ。これ以上同じ場所にいたら、本気で頭をぶっ叩いてしまいそうだ。
イライラで足音を響かせながら玄関に向かい、家の鍵を手に取る。
そこで、すぐ隣に掛けてある鍵が目についた。
「車……」
お母さんの車の鍵。クリーム色の軽自動車。
お父さんの通勤用の車は出掛けているが、お母さんの車は玄関前の駐車場に残っている。
つまり、お母さんは遠出していないはずだ。それでも帰ってこないということは、そういうことなんだと思う。車という絶好の道具を、杉石くんが使わないという判断を下したのも、わたしの心情を尊重したのかもしれない。
いや、それはないか。
あの人は、感情を殺せることを合理的と考えるタイプだ。会長と同じくらいリーダーには向いてない。車を使わなかったのも、道中の安全性と音で目立つリスクを天秤にかけた結果だろう。
だけど、今は事情が違う。
速やかな行動が求められ、頼みの綱の瑪瑙くんはいない。音が何だのとは言っていられない状況だ。
よし。
心の中で覚悟を決めて、車の鍵も一緒に取る。
運転なんてしたことないが、お父さんはゴーカートみたいなものだと話していた。道路に他の車は走ってないし、進み方と止まり方さえ分かっていれば何とかなるはず。
深く呼吸をしてから、玄関扉に耳を当てる。
物音はない。慎重に扉を開けると、見慣れた風景が広がっているだけだった。
周りを確認するよりも早く、急いで車の運転席に避難する。体の大きいわたしには窮屈な車内だが、座る分には問題ない。記憶を頼りに座席の位置を調整し、それらしいボタンを押す。
電気は点いたが、エンジンがかからない。こんなことなら、空いた時間に勉強しておけばよかった。何かないかと車内を探っていると、ダッシュボードの中に説明書を見つける。
シフトレバー、アクセル、ブレーキ。外の恐怖に焦りながら、最低限の知識を叩き込む。
とりあえずの動かし方は分かった。ブレーキペダルを踏みながらスイッチを押すと、今度こそエンジンがかかる。
次は、シフトレバーをDに動かす。
左手でレバーを握り、力いっぱい手前に引く。ガクンと車体が揺れて、ゆっくりと前に進み始めた。
いい調子だ。あとは、加速したければアクセルを、止まるときはブレーキを踏むだけ。一度経験すれば、何も怖いものはない。車は惰性で進み続け、前半分がガレージから出る。
「ヒッ」
運転席のすぐ横に、JCがいた。
黒色の丸くて綺麗な瞳と目が合う。ゲームにかぶりつく子供のように半開きになった口元からは、透明なヨダレが垂れている。
あれに触ったら死ぬ。
咄嗟にハンドルを切って、アクセルを踏み込む。ガレージと車が擦れて削れる嫌な音がするが関係ない。
鉄の粉を撒き散らしながら道路に飛び出し、直線を全速力で走る。扉はぎいぎいと呻き声を上げ、窓の外の景色は影を残しながら過ぎ去っていく。
大きい交差点に差し掛かり、バックミラーの存在を思い出した頃には、JCは見えなくなっていた。
「……危なかった」
本当に危なかった。安全な家に引きこもっていたから、完全に油断していた。
世界の崩壊は、依然継続している。気を抜いた瞬間、あっという間に死ぬ事実は何も変わっていない。
とりあえず、速度を落とさないと。
アクセルから足を離すと、段々とスピードが落ちてきた。40キロを切った辺りから、周りを見回す余裕が生まれる。
「やっぱり増えてる」
同時に、嫌な現実も再認識してしまった。
歩道を歩くJCの数が、明らかに増えている。わたしの家に逃げ込む前は一度遭遇しただけだったのに、今は500メートルくらいの間隔で肌色の人影が目に入る。
発狂しそうになる状況だが、走行中の車を襲う個体はいないようだ。物珍しげに見つめてはきても、急に飛び掛かってきたりはしない。
ショッピングモールも近づいてきたし、瑪瑙くんを見逃すわけにはいかない。不安は押し込めて、速度を維持したまま走行し続ける。
「ん?」
道の傍にある、そこそこ大きい公園。なだらかな小丘があるだけの地味な公園。
その丘の頂上にある、申し訳程度の休憩用ベンチのあたり。
JCが誰かを押し倒し、襲っている。
今まさに殺されようとしている場面だ。助けようにも、ここからでは間に合わない。理屈を練って自分を納得させて、罪悪感に目を瞑る。
でも、おかしい。
JCの体液に触れたら一瞬で破裂する。押し倒されるほど接近された時点で、とっくに死んでいるはずだ。なら、あそこで襲われている人は。
体液に触れても、破裂しない人。
「瑪瑙くん!」
わたしは公園に向かって、迷うことなくアクセルを踏み込んだ。
◆◇◆
寒い。
ドロドロと垂れてくる滑った液体が片目を塞ぐ。日に焼けた写真みたいに、視界が変に褪せている。
空まで昇る黒々とした煙。鉄の焦げた臭い。
ベンチと車に挟まれて二つに千切れかけたJCを見て、自分が地面に転がっていることに気がつく。
衝突した勢いで投げ出されたのか。ああ、そういえば、シートベルトをし忘れていたかも。子供でも守るルールを忘れるなんて、多分わたしは運転に向いていないんだろうな。
鈍い思考に過ぎるのは取り止めのないことばかり。ひとつひとつを言葉にするたび、心臓の動きが小さくなるのが分かる。体は酷く冷えているのに、震えることすら叶わない。
「金剛さん!」
薄れゆく感覚に身を任せていると、ぼんやりとした人影が映り込む。目を瞬かせても焦点は合わないが、輪郭と声で分かる。
瑪瑙くん。
よかった。無事だった。
「金剛さん! 金剛さん!」
彼の顔が近い。いつもなら照れて無愛想になっていたところだけど、顔がよく見えないから落ち着いていられる。
ポツポツと頬に落ちるのは涙だろうか。熱い雫は、冷えた肌によく染みる。
「どうして、どうして僕なんかのために」
自分を責めないでほしい。
彼の顔に手を伸ばそうとするが、腕がまるで上がらない。辛うじて動く唇の先で、言葉を紡ごうとする。
声は出なかった。それでも、微かな動きに気がついてくれた瑪瑙くんは、わたしをそっと抱き起こしてくれる。
距離がまた縮まる。ぼやけていた彼の顔が、少しだけはっきりする。
重たい前髪に隠れる、女の子みたいに可愛い顔。
ああ、そうか。わたしは彼が好きなんだ。
初めて彼と目が合って、ようやく自分の気持ちに気がつく。長年燻っていた感情に答えが出て、なんだかホッとした。
こんな死に際で気づいたところで、どうにもならないけど。
やっぱりわたしは、ノロマなデブだ。体は縦に伸び、お腹の脂肪は落ちたけど、本質は変わっていない。考えることを先延ばしにして、取り返しがつかなくなってから失くしたものの尊さを知る。
瑪瑙くんが虐められていることは、随分前から知っていた。でも、彼を庇って、昔みたいな立場になるのが怖くて、見て見ぬふりで逃げていた。誰の目にもつかないように気絶した彼を保健室におぶったこともあったが、ただの自己満足にすぎない。一時の助けを差し伸べて、許された気になっていただけだ。
傷付く度胸のない、保身ばかりの卑怯者。
彼への気持ちに気がついたところで、想いを伝える勇気はない。こんなことになる前に気がついていたとしても、伝えることはできなかっただろう。大事にしまい込んで、全部が終わった後、たまに引っ張り出して後悔に浸るだけ。
臆病者には当然の末路しか用意されていない、はずだった。
「キス、して」
死にかけのわたしの頭を過ったのは、呪いみたいな告白だった。
命を盾に、罪悪感に漬け込むやり方。どこかから、卑怯者、と罵る声が聞こえた気がする。それでも、わたしの心は満足感で満たされ、ふわふわとした昂揚が湧き上がってくる。
優しい彼は断れないだろう。瑪瑙くんの表情は強張るが、それは一瞬のことで、徐々に距離が縮まる。
──唇の先が、微かに触れた。
でも、死にゆく体には何も感じられない。もっと深いつながりを求めて喘ぐように口が開き、舌先が震えながら彼に向かう。
「……あ」
あたたかい。
彼の温度を感じた直後、わたしの体の内側から肉の弾ける音が響いた。




