猫が好き2025:十二支に猫がいなくて悲しいです
猫が好きシリーズ第二編、猫の日投稿2025です
目次
考証が始まる前に
考証1.ネズミは猫の間違いではないか:どこかで取り違えられたのでは
1-(1) 干支に選ばれている動物は、
人の目から見てどんな特徴を持っているか
1-(2) 考証1の検討
考証2.十二支が定められたとき、その地にはまだ猫がいなかったか
珍しい動物だった
2-(1) 十二支が定められた年代と場所を確定する
2-(2) 猫が発生した場所から殷までの移動経路と到達時を推定する
2-(3) 考証2の検討
考証3.この文書を書いているうちに生まれたアイディア
小劇場 あなたの生まれ年動物が生まれた理由
考証が始まる前に
去年の年末、珍しく年内に年賀状を書こうと殊勝なことを思いつき、インフルの体に鞭打って蛇さまを描いていました。(この年賀状は、「エスコート竜グルーガーの咆哮」に添付しました) そして、毎回年賀状を書くたびに、何で猫年はないのだ! 猫なら写真で済むじゃないか、ストックは一杯あるし! と怒りに燃え、そのくせ、そんなに嫌なら絵なんか描かなきゃいいのに、とは思いつかず、せっせと色を塗っているうちに、猫年がない理由をふたつ思いつきました。
そのひとつは、子、ネズミは、ね、猫の間違いであった! すばらしいアイディアだと思いましたがちょっと考えただけですぐに撃破されます。残念。
もうひとつは、十二支が創設された時、イエネコの分布はまだその地方に達していなかった! 我ながらすばらしい思い付きだとキラキラしましたが、これはたくさんの人が思いつくものらしく、ネットにすでに載っていました。 ちっ!(失礼)
最後に、おそらくこのあたりが正解に近いのではないかと言う倉名なりの結論にたどり着きます。そしてに、「そのようになったのは、こういう経緯だったかもね」劇場を付け加えました。
まずは。
猫派でない人の為に、一般によく語られている伝承というか、幼児が祖父母に「ねえ、おばあしゃん、どうちて猫のおとち(お年)はないにょ?」と聞いた時に教えられると思われるお話を書いておきましょう。
ある日、神さまは人間には自分の年齢がはっきりわからない、ということを知りました。それを哀れとお思いになり、十二の動物を選び、十二の歳を定めるとお決めになりました。自分の生まれた年の動物を教えてもらえれば、年齢がわかるからですね。
動物たちに、自分を歳の名にしてほしいものは集まるようにと、日を定めて呼び掛けました。その時、日ごろから嫌いだった猫をのけ者にしてやろうと思ったネズミは、下手に出た演技で猫のもとに行き、決められた日の三日後の日付を猫に教えました。
集合当日 (この日を正月とする説もあり)ネズミは気の優しい牛に頼みその鼻先に乗って、堂々と一番乗り。最初の干支の座を射止めました。次々に動物が集まります。神さまは喜んで、来た順に十二頭を干支の動物と定め、特別な字 (子・丑・寅・卯・以下計十二)を与え、長い年月を十二に区切って人が年を数えやすくしたのです。
はい、ここでサウンド入ります。おじいちゃんの介入です。
「十二年を一度めぐり、もう一度自分の歳になったら十二歳だ。太郎は寅年生まれだから数えてごらん、次の寅年まであと何年ある?
自分の歳が五回来たら六十歳だね、おじいちゃんはもうじき四回だから、計算できるかな?」
ちょっとウザそうな孫の太郎君と姉の美代ちゃん。
太郎君、それでもがんばって、指を折って、ね・うし・とら・う、とか、律儀にやっています。
美代ちゃんは、とりあえずそっちは置いておいて、お話の続きをねだります。
「ねえねえ、おばばさま、美代は騙されちゃった猫ちゃんが気になるの」
猫は、ネズミが教えた日に神さまのもとに出頭したけれども、神さまはもう終わったとすげなくするだけで、騙されたという事実にも騙したネズミにも興味を持ちませんでした。
怒り狂った猫は、それ以来ネズミを見れば必ず追いかけるようになったとか。
いや、神さま、猫の言い分の真偽を判定してやってよ、猫、嘘つきみたいでしょ、騙されたお猫よしに過ぎないのに、かわいそうすぎる~。
さて、考証に入りましょう。
考証1.ネズミは猫の間違いではないか。どこかで取り違えられたのではないのか
これを思いついた筋道、というか年賀状の絵を描きながら頭が暇なので考えていたことは:
十二支を定めた人々は、たぶん貴族的地位にあり“神殿”のような場所にいる人々だったでしょう。
なぜかというと。
太陽が夏至(または冬至)から次の夏至(または冬至)に至るまでの“1年”が365日とおよそ4分の1であること、月が満月から姿を変えて次の満月に至るまでの“1月”が30日弱であること。だから、365を30で割って、1年を12カ月と定めるのは、大変な作業です。
生産活動を免除されているからこそ、数年、数十年にわたって日暮れから明け方まで空を観察し続け記録を残し続けることができるのですね。さらに、一世代、数人でできることではないので、交代しながら同じ質の観察記録を残すという組織的行動があっただろうと推測できます。
ぶっちゃけて言うなら、夜中中起きて空を見ている変な人々は、昼間寝ている。なんちゅー横着者だ、と思われないためには、隠されて護られ、高貴な身分にしておかないと無理! と言うことですね。ほとんどの人は農民で、毎日勤勉に農作業に勤しんでいるのですから。
その組織では猫を飼うことは常識だったでしょう。
何故なら天文観察記録を、記憶に頼ることはできません。数十年に渡る記録が必要ですので、絹布、鞣革、薄く削った木などに書いて保存し、世代を超えた観察者全体で情報共有します。鼠はその貴重な記録を巣作りのために齧って持って行ってしまいます。それを妨げる猫は必須の存在だったことでしょう。
ですが、十二支を人々が普通に使うようになった時、猫はまだ珍しい存在で、親しみを持って飼ったことがない人々は、それを「似た発音でなじみ深い動物」に当てはめ、鼠と変えてしまった、のではないでしょうか。
その推理の基礎になったのは、干支に何が含まれているかという観点からのアプローチと言えるでしょう。
干支は、
子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、の十二。
ネズミ、牛、虎、ウサギ、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、イノシシ、ですね。
1-(1) 干支に選ばれている動物は、人の目から見てどんな特徴を持っているか
まあ、神さまが選んだという物語はあっちへ「よいしょ」、と置いておいて、何故これらの動物が選ばれているのか考えてみましょう。
牛、馬、羊、鶏、犬は家畜ですね。今も飼われています。だからこそ、何故猫がいないのかわからない、ということにもなります。家畜ということは、つまり日常的に見ることが多く、人が親しみを覚える動物である、ということでしょうか。そして大切なポイントは「益獣」、人にとって飼うことに利益があるからこそ身近に置いてエサを与える動物である、ということですね。
うさぎ、イノシシは、狩りの対象です。貴重なたんぱく源ですね。
もちろん、その意味では鶏も、あえて言うなら龍以外は、たんぱく源と「なりうる」と言っていいでしょう。
ところが、ここで疑問もあるのです。狩りの獲物というなら、鹿がはいるはずです。奈良の鹿を激愛する鹿ファンなら、「どうして鹿は入っていないのでしょうか」という疑問を持ちますよね。当然です。鼠のような小さな獲物ではなく、鹿のように狩り甲斐のもあるし、角に薬効まであるとされる大型草食獣が除外されているというのも不思議です。
蛇はどうでしょう。例えば大神神社に行くと、蛇がおまつりされ、卵がお供えされています。蛇が神格化されているのにはれっきとした理由があります。蛇は肉食動物で、穀物を荒らす鼠類や昆虫類を捕らえてエサとします。ネズミは貴重な食料を食べ漁ってしまうこと、飢饉のときなどに(ネズミ算的に)大量に増えると人の生死にかかわることで忌避されていました。弥生時代の高床倉庫にも、柱に「ネズミ返し」と呼ばれる、ネズミを柱伝いに倉庫に入らせない工夫がしてありました。(再現建築物:吉野ケ里遺跡、登呂遺跡、等)
蛇は、そこにいて匂いがするだけでネズミを追い払うことができるとされていて、倉庫の近くで飼っていた跡が残されています。蛇がお金をもたらすというので、蛇が脱皮した後の蛇殻を財布に入れる慣習もあったと思います。
**蛇の抜け殻** 以下、**ワード**によって、検索ワードを示します。倉名が検索した場所にたどり着きます。
虎と龍はどうでしょうか。どちらも四神に含まれていますね。
四神は、東の青龍、西の朱雀、北の玄武、西の白虎
**四神**
特に龍は中国皇帝を象徴するので、この十二支を選定した場所は、選定当時中国文明下にあったからではないかと考えることもできます。ですが、これが本当に青龍を示すなら、方位を表すとき、東の位置に置かれているでしょう。ですが、方位表を見れば辰は南東のひとつ南寄りで、東ではないことは確かです。
**国会図書館 暦** 第三章 暦の中の言葉、さらに、干支 方位神
虎はどうでしょうか。四神のひとつ白虎であるとすれば中国文明の影響でしょう。しかし、虎もまた西の位置に配置されてはいません。辰からふたつ北寄りです。
もうひとつ、選定当時選定場所には、虎がいた、という可能性があります。さらに、四神が選定されているというなら、朱雀は酉であったかもしれないとしても、亀がいない、という問題がありますね。
猿は、広く世界に分布していますね。
**猿 分布**
多くの種類に分類されているので、分布を中国に絞ってみましょう。(十二支が漢字なのでとりあえず)
**猿 分布 中国**
ナショナル・ジオグラフィックの記事の中に、古文書によれば「かつては中国の広い範囲に分布していた」とあります。
猿は森に住むようですが、これを狩れば食用にはしないとしてもその皮または毛皮は使われたでしょう。
また、猿は、ヒンドゥの神の一柱です。インドは、数学の発達が早かった場所ですので、インドと交易があって人の行き来があったとしたら、天文観測所で仕事をする貴族階級の人々には猿が神獣ハヌマーンだという神話を知るチャンスが(絵や文章を通じて)あったかもしれません。
さて。
十二支のうち、牛(家畜)、虎(神獣)、ウサギ(獲物)、龍(神獣)、蛇(ネズミ除けの益獣)、馬(家畜)、羊(家畜)、猿(獲物?)、鶏(家畜)、犬(家畜)、イノシシ(獲物)となりました。
すると、鼠の意味がわからないのですね。害獣だし、小さくて肉にはなりにくいだろうし、病原菌を運ぶ動物だから、これを常食すればネズミ食文化ごとその民族が滅びる可能性があるでしょう。なぜ十二支に入っているのでしょうか。
倉名の年賀状書きタイムの妄想は、ここで一旦止まりました。年賀状とあて先を印刷しなくてはならなかったからです。年が改まって、続きを考えたのがこの後の部分です。
1-(2) 考証1の検討
「猫年が鼠年に変えられてしまった妄想説」を覆すには、たくさんの方法があります。
ですが、“猫と鼠の発音が似ていた”からこそ、ふたつは入れ替えられたのだというところが決定的なウイークポイント、妄想の妄想たるところです。
干支にネズミがはいっていても、人には利益はなさそうです。だからこそ猫をオシたいのですが「似た発音」は証明できそうではありません。
成立するためには、干支を創設した場所では猫と鼠は似た発音であったこと。あるいはそれが日本に伝播するうちに通過したどこかの場所で、猫と鼠を表す単語が似た発音であったこと、さらに、そのポイント地点を通過した前後でネズミが猫に置き換わったという証拠を示さなくてはなりません。
ところが、鼠は現在十二支が残っている場所ではどこでも最初に入っているのですね。猫がウサギの代わりに入っているという場所はあるそうですが、鼠と猫が入れ替わっているという例は見つかっていないようなのです。
考証1は、まじめに考えだしたところで瞬間撃滅です。
考証2.十二支が定められた時、その地にはまだ猫がたどり着いていなかったか、
珍しい動物だった
これは、非常にありそうなことなのですが、いくつかの難関があります。論証の順番として、
(1)十二支が定められた年代と場所を確定する
(2)猫は発生した場所から十二支が成立した場所までいつ頃たどり着いたか
確定する
2-(1) 十二支が定められた年代と場所を確定する
まずはネット検索しましょう。
**干支 成立年代**
おお、すばらしい質問が出ていますね。ぴったり「干支はいつから始まったの?」です。
回答は、中国の殷王朝で使われていた甲骨文字、十干十二支が起源。
さっぱりしていますね。これは物証である甲骨文字を写真で確認できました。
では、殷王朝はいつ頃だったでしょう。これについては、ネットを使いませんでした。単に世界史の教科書に載っているからですね。辞書でもいいです。だれでも中学 (または高校)で習った通り、「史記」に記載があり、前王朝夏を滅ぼし、占いを政治の根拠にしたとされる王朝で、紀元前1100年ごろ、周に滅ぼされるまで存在したとなっています。なんか昔テストに出ましたよね、“殷墟”は「絶対覚えておきなさい」だったような~。記憶が曖昧ですけど。
とすれば、これだけでもう、十二支が成立した時代に猫は殷に到達していなかったと推定したくなりますね。なぜかといえば、猫は生まれた場所からインドに連れて行かれ、中国にまでたどり着いた理由は、仏典をネズミ等の食害から保護するためだといわれているところ、釈尊がお生まれになったのは紀元前600年ごろとされているからです。これ、500年以上間に合いませんよね。
しかし! ここで思考停止しては、作家になろうという志が涙を流します。どこかに間違いがあるかもしれません。次行ってみましょう! 確か、涅槃図 (釈尊が入滅なさる時を描いた絵)には猫が描かれていなかったはず。入滅から仏典成立までのどこかで猫はインドに達していたでしょうか。
2-(2) 発生した場所から殷までの移動経路と到着時を推定する
猫の故郷はどこでしょう。さあ、調べてみましょう。
**猫の発生した場所** この場合の猫は、現在私たちが接するイエネコを意味し、「発生」は、生物学用語で「イエネコが(祖から)分化して現在の猫になった」というほどの意味です。イエネコのルーツはどこですか、という意味です。
おお、ここにもジャストな質問が。「猫、もともとどこにいた」、核心を外しませんねー。
回答は、「中東付近での、リビアヤマネコの家畜化が始まり」です。少しタゲを外しているでしょうか。もともとどこにいた、と聞かれたのだから、「中東付近にいた」が質問に忠実な回答でしょう。まして、リビアと中東は違う場所ですから、このように誤った理解に導く回答はよろしくないでしょう。
なので、もうひとつの質問を。「猫はどこで生まれたか?」 回答は「約13万年前、中東の砂漠などを生息地としたリビアヤマネコと考えられています」 こちらはまず、質問されていない“いつ”に答えていますね。さらに、リビアヤマネコと考えられる、という回答になっていて、どこでという質問にストレートに回答してはいません。若干ピントを外していますね。
情報源は、内容を読む限り両者ともWikiのようで、Wikiの記事には、「この項目には検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか不十分」、と書いてあります。端的に言えば、読む人はこの記事を信じる前に自分で参考文献や出典を探して、事実かどうか検証しなさい、と言う意味ですね。
生物学的な証拠を探すのはそれほど困難なことではありません。遺伝子解析で分布速度も分化もわかるからです。ですので、文献を探してみましょう。
**遺伝子解析 猫のルーツ**
この遺伝子解析は、2007年に行われたようです。
分化図が掲載されていますので確認してみてください。リビアヤマネコの写真も掲載されています。東京大学 FEATURESの所です。リビアヤマネコは現在も生息しているそうです。
それでは次、猫の骨は殷墟 (殷の都)の遺跡から発掘されているでしょうか。発掘されているなら、十二支が制定された場所、少なくともその首都に猫はいたことになりますよね。
殷墟は、現在の中国、河南省というところにあったと思います。調べてみましょう。
**殷墟**
所在地は、中華人民共和国河南省安陽市の市街地西北郊、殷都区
河南省というと、洛陽のあたりだと思います。確定したい方は、世界地図帳でどうぞ。
**殷墟 猫の骨**
該当なし
**殷墟 動物の骨**
検出できず
ここで諦めないのが根性というやつですね。
**十二支 経典**で、大阪公立大学 学術情報リポジトリにたどりつくと、そこに、「ネコはいつから「猫」になったのか」、著者、小山瞳氏、が掲載されています。そこに、小山氏が展開している本論とはごく関係が薄い形ではありますが、中国における猫の骨が発掘された例が記載されています。
龍山文化晩期の遺跡にイエネコとみられる動物の遺骸が発見されているそうです。同ページ下部に参照文献が記載されています。四の資料が出ていて、その最初を例に挙げると、
「河南省湯陰白営河南龍山文化遺址的動物遺骸」。
河南省だよね! がんばった甲斐がありました。多分すごく広いけどね!河南省。
それでは龍山文化を調べましょう、るんるん。
**龍山文化**
龍山文化は前期と後期に分かれていて、後期はBC2600頃から、BC2000頃。(BCは、Before Christ、キリスト誕生以前、という意味の英語の省略形で、訳は紀元前です。対語である紀元後、ADは、神の年というほどのラテン語、Anno Dominiの省略形です。これ以降、ADとBCを使用します)
後期、殷は北部で優勢となり、西との交易路の出入り口もできていたらしいです。
やりましたね! Wikiの指摘は伊達ではないようです。イエネコはBC2000には、おそらく交易商人に連れられて(おそらく北ルートで)中国に達していたのですねぇ。発掘された骨という物証がありますからね。
インドではまだBC2000以前の猫の遺骸は発見されていないようですから、インド経由ルートは、遺骸が発掘されるまで証明不能ということになるでしょう。何といっても、お釈迦様がBC500頃に亡くなった時を描く「涅槃図」に猫の姿がないのはインド経由ルートにとって結構な打撃で、猫が殷に到達したのは北ルートである、という推理を支持する理由となりえます。
年代はADにはいりますが(AD600過ぎ)、玄奘法師がインドまで経典を求めに行った時、経典は木の葉に書かれていたそうです。多分その木の葉は大きさと同時に防虫効果のある香りや成分で選ばれてはいたのでしょうが、鼠や虫の攻撃対象に違いないので、その時インドに猫がいたなら玄奘法師も写経をなさるときにその場所付近で猫をご覧になったと思います。厳しい学究の時を過ごした玄奘法師の心の慰めとなっていればいいですね。
イエネコは、メソポタミア文明の地、つまり、チグリス川とユーフラテス川沿いの地域だから、現在はシリア、イラン、イラクとなっている場所で、リビアヤマネコから分化したようです。
野生状態から次第に人に交じって生活するようになったのは、猫が人になつく性質を持っていたことが重要だったのでしょうが、何といっても食料を虫や小型獣から守ってくれることが人にとって魅力だったでしょう。川沿いの地で農耕を営んでいた人々にとって、鼠や虫をとる性質は重宝されたことでしょう。
注:リビアヤマネコと言われているのに、どうしてイラン付近で分化したのか、又はイラン付近で分化したのにどうしてリビアが付いているのか、というと、リビアで最初にリンネの分類に登録される発見があったからなのかもしれません。紛らわしいですよね。新種が認定されるとき、たとえばイリオモテヤマネコのように、最初に発見されて登録申請した時の名前が採用されるようなので、そういうことなのかもしれません。これ、倉名推理なので、信じる前に資料を確認してくださいね:注終了
さて、昔の猫と言えばすぐに連想するのはエジプトの猫のミイラですけど、西への伝播にはもっと古い物証もあります。
BC7500頃の猫の遺骸が、キプロス島で男性の遺骸とともに発掘されています。
**キプロス 猫の遺骸**
フランスの発掘隊が発見したそうですが、男性の遺体とともに葬られていたそうです。
キプロス島に、猫が単独で来たと考えるのは困難です。
エジプト・トルコ間を沿岸航海していた小型船に乗っていて嵐で流された、とかいうサバイバルな理由があったかもしれません。あるいは、トルコ・キプロス間の貿易に従事していた主人の愛猫だったというのもありそうですね。
殷はもちろん、メソポタミア地域から東に当たりますので、東へ移動したルートを考えてみましょう。
現在のトルコ・アゼルバイジャン間、当時のカスピ海沿岸に至る場所には通商路が見つかっています。商隊が利用したと思われる小都市もあります。カスピ海沿岸から草原の国々へと、猫はおそらく隊商に連れられて移動したのではないでしょうか。
BC4000から3000となると、荷を載せた船でカスピ海を横切ることができるのはエジプト外征軍ぐらいだったのではないでしょうか。ですので、ここは南路を取ってカスピ海を回ったと考えてみてもいいし、縄文海進の影響でカスピ海が今よりずっと広かったと考えるなら、北路を選んだかもしれません。
その先には、トルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンと、高地草原の国々が続きます。この間のルートは年によって変わったでしょう。気候と安全性、水場などを総合的に考える隊商の長が本領を発揮するところでしょう。
アフガニスタンまでくれば、すでに夏や殷との間に将来シルクロードとなる交易路が通っていたのではないでしょうか。
この長いながい道を、ひとつの隊商が通しで行き来することは到底想像できません。荷も隊商も“都市間”の短い距離を往復したでしょう。運ばれた荷は売られ、一部はその都市で消費され、一部は次の都市へ運ばれ、荷は総じてゆっくり動いたことでしょう。
猫は、ネズミを狩って荷を護る役割をする性質を見込まれ、チグリス・ユーフラテス河川域に通商に来た人々に連れられて、東へと徐々に移っていきます。繁殖力が強く、年に2回、各4,5匹の仔を産む猫ですから、たどり着いた通商都市で数を増やし、やがて次の都市へ。隊商と猫は次第に普通にみられる光景になったことでしょう。猫を連れた隊商の最先端は、少しずつ殷へと接近します。
それは長い道のりです。都市にたどり着いた猫がそこで住民と折れ合って暮らし、繁殖して数を増やし、次の都市について行けるまでの数となり、また次の都市で繁殖する。到底100年単位でたどり着けたとは思えません。西のキプロスに猫がいたとはっきりしているのがBC7500,龍山文化地域で猫が埋葬されたのがBC2000。仮にBC7500にはメソポタミア地域から東に向けて旅立っていたとしたら、5500年以上ですねぇ。いや、猫の遺骸とか骨格が小さいですから、人とともに墓に埋葬されていた遺骸が見つかるという幸運に恵まれなければなかなか見つからないでしょう。
キプロスで発掘された猫も、殷で発掘された猫も、主とみられる男性とともに葬られていたというところがグッときませんか? 猫は、男性と数々の旅を共にした“戦友”だったかもしれませんね。
人に同伴して猫は世代を越えて旅をしました。
人とともに旅に出、食料を護り、人の孤独を慰め。通商のために都市を出た猫が生まれた地に帰ることは殆どなかったでしょう。あるいは旅商人が死亡して、中途の町・村で引き取られ、繁殖して子を残したこともあったでしょう。鼠を追って迷子になり、一匹で寂しく亡くなったこともあったでしょう。
長大な旅をして、旅に斃れたすべての猫に哀悼を。
2-(3) 考証2の検討
十二支に猫が含まれていないのは、十二支が成立した時まだ猫がその場所にたどり着いていなかった、あるいは非常に珍しくてあまり見かけられない動物だったからだ、という二番目の「ひらめき」も粉砕されました。
十二支が成立したのは、中国の殷時代で、証拠は甲骨文字に刻まれた文字。
殷は、はっきりしないもののおよそBC1600より以前に成立し、BC1100頃周により滅亡。
猫は、遅くともBC2000には殷のあった場所近辺に到着している、証拠は人の墓にともに葬られた猫の遺骸。
400年から900年もあれば、猫は普通に見かけられる動物になっていたことでしょう。
さあ、それでは、新しいアイディアに向けて出発しましょう!
考証3.この文章を書いているうちに生まれたアイディア
倉名は、ふたつのアイディアが没になる間にいろいろと調べて、科学者なら多分こう考えるのではないかというアイディアにたどり着きました。
それは、子・牛・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥は、天文学に使用されている間は一文字たりとも動物を表してはいなかった。記号であった、ということです。
これらは、天文の観察・記録に使用された文字です。そして、時間と方位に使用されています。それならば、それは、数字でしょう。いや、αとかφのような記号あるいは、アルファベットやあいうえおのような、順番を表す記号として使われたのかもしれません。
何故なら、十二支と対になっている十干は、甲・乙・丙・丁・戊・己以下10種の字のどれも、動物、植物などとは関係なく、五行説で色を表しているとされているからです。甲は青を表すとされているようですが、青と甲の間には、五行以外では何の関係も見出すことはできません。現代日本でもまだその字そのまま、甲種とか、乙種、乙姫 (兄姫・えひめに対応する妹の意、弟姫)として、数字の意味を含んで使用されています。
十二支の子丑寅も少なくとも天文観測所で使われている間は記号だったのではないでしょうか。
天文の観察によってしか、1年が365日強であることを知ることはできません。また、月が30日弱で姿を変えることを記録することもできません。
BC5000からBC4000頃に、天文を観察していた人たちは、1年が365日強で、月の一巡り(1か月)が30日弱という観察結果を踏まえて、それならば、365日を12月に分ければ大体おさまりがいいものの、それではズレが出るので、修正のために閏月とか閏年を編み出します。
西洋文明が1年を10の月に分けて考え、シーザーの時代、BC45に12カ月としたのに対し、非常に早いといえるでしょう。やはり、農耕と暦は密接に関係しているからなのでしょう。
当時シーザーが滞在していた最晩期のエジプト文明も、農耕そして天文観察と深い関係がありました。彼らはナイルの氾濫を中心に、シリウスの観察によって氾濫日を予想していたようです。そして、観察していた人々は神殿の神官だったのですね。
暦を作った人々ってすごいね、と思います。だって、彼らは、地球が自転しながら太陽を公転していることを、少なくとも公には、「知らなかった」のです。一般的には、地球は球ではなく平らな円盤で、空は円盤を覆うドームだ、くらいに思われていたのですからね。それなのに観察して辻褄を合わせてくるって、すごい、と思いませんか?
彼らは現代で言えばアインシュタインやホーキングのような、あるいはフィールズ賞を受賞する人々のような数学的な能力を持っていたのでしょう。たった5000年程度でヒトの脳の構造が変わるはずもありませんから、アルキメデスもアインシュタインも、そして殷で天文を観察していた人々の中の名が伝わっていない天才も、現代私たちが知る数学者や物理学者と同じような能力を持っていたでしょう。
私自身は、彼らは地球が球形であることを疑っていたか確信していて、奥義として口伝していたのだと思います。天と地のありようは宗教と関連しているので、神殿のような場所に保護されている以上おおっぴらに口にすることはできませんが、長年観察を続ける科学者の視点から見れば科学的事実は”自明の理“に違いないのですから。
どのくらいの期間、観測すればいいのかもちょっと見当が付きません。観察と記録を始めた理由は多分、いつ種蒔きをすればいいかとか(これは日照時間である程度いける)、こういう現象が起こったら雪の降り始めは何日後とか、そういう情報を引き継ぐことができるようにするためだったのでしょうねぇ。もちろん、動物の骨や亀の甲羅の割れ方を見て政治をしていたのだから、公的な理由は「占術をさらに極めるため」でしょうけれども。「科学的な助言」は、占術の結果をどう読むかという点について、非常に役に立っていたでしょう。
それで、子・丑・寅、の字ですけど。
なんで、東西南北とかじゃダメなんでしょう?
それは多分、足りないからです。12必要なのです。12カ月、1日を12等分(日がある時間帯を6等分、日が沈んでから夜明けまでを6等分で、合計12等分)、そして、方位は各方位の間を3等分します。それに甲・乙・丙・丁の10文字が最外から被さるように補助しているのですね。もしかしたら甲・乙・丙・丁の文字盤は、回転するように作られていたかもしれません。
こうすると、時間・日付・方位を全部ひとつの図に書き表すことができるみたいなんですね。もちろん、倉名にはできません。ですが、見れば、少なくとも「きれいな図だなぁ」とは思います。美しく整っていることは、数学を学ぶ人にとって非常に大切なのではなかったでしょうか。
数字ならば一・二・三でいいじゃないか、と思うかもしれません。ですがそれが選ばれなかった理由は明白です。紛らわしすぎ、手軽に偽造できるからです。現代でも、御祝儀袋などには、壱、弐、参の字を使いますよね、それは、中身の紙幣が抜かれて辻褄があうように棒が一本、あるいは二本、消されることがないように用心しているからでしょう。
では、壱・弐・参でないのは、何故でしょう。それは11と12が二文字になるから。更に、字画が多すぎて、小さく書きにくい、あるいは甲骨に刻むには不便だからでしょう。
子・牛・寅は、当時の数学者や天文学者の使う、時間や方位を表す記号だったのかもしれません。現在でも、数学ではギリシャ文字αやβ、あるいは数々の数学記号を使います。それとほぼ同じ、と考えます。
これが、一般に広がるとき、広めたのは数学者や天文学者自身ではないでしょう。彼らの突出した能力では、数の概念、まして10(干)と12(支)の最小公倍数を求め、60年をひとつの括りにするというような考え方を庶民に説明することはできないと考えてもいい。それは、現代でいうなら、小学生を前にして数列を論じるのと同じことになるでしょう。
アインシュタイン教授が小学1年生に足し算を教えるとかどちらにとっても不幸でしかありません。としたら、民と学者の間に立った人たちがいる訳です。
さあ、数の教育を受けたことがない民にどのような経緯で十二支が浸透することになったか、小劇場にご案内しましょう。子・丑・寅は、なぜ鼠、牛、虎となったのか。だって字は全然違うじゃないですか。どうやっても鼠、牛、虎にならないし、読むのも無理ムリです!
あくまで「倉名説」ですが、ありそうな話に組み上げました。
小劇場演目:あなたの生まれ年動物が生まれた理由
登場人物: 天文学者、天文観察の他に貴族子弟に数と計算を教えている
高官: 少年時代に天文学講堂で同年代の子どもたちと数学を仕込まれた
「先生、お久しぶりです」
「ああ、変わりはないかね」
「はい、先生こそ。いつお会いしてもお変わりなく」
「いやいや、世辞はいいよ。やはり年を取ったねぇ」
「そうですか? そうは見えませんけれども。
そうそう、今日は年齢のことでお知恵をお借りしに来ました」
「フム」
「ささ、こちら、甘かずらを掛けた団子にございます。先生、お好きですよね」
「ああ、ありがとう。
イエン君、悪いが厨にお湯を沸かしてもらえるよう頼んでくれるかね。
ワン君が団子をね。皆も休憩にしたまえ」
「はい、先生」
イエン君、にっこり。
「さて、なんだね。相談がある様子だが」
「はい、先生。この度わたくし、徴税を担当する役所で修業を積むことになりまして」
「おお、それはそれは、おめでとう」
「いえ、まあ。確かに名誉ではありますが。
戸籍票が整っておりませんで。
税収が安定しないのはそれも原因かと」
「ふむ」
「ご下命を受けて、戸籍票を調べましたが、よくわかりませんでしたので、戸籍票を作る下位役人について村々を巡ってまいりました」
「ほお、それはそれは。ワン君は実務に優れているのだねえ。さすがに父上の息子さんだよ」
「いえいえ、まだまだ下っ端の走り使いです」
ここで温かいお湯と団子が登場。一息入ります。
「先生、これをご覧いただけますか、これが戸籍票です」
「ふむ」
「この木製の票が、一家族に一枚です。表にはまず家長が大きく、その右が先代家長と現家長の母の名が書かれています。左が現家長の兄弟姉妹で、戸籍を離れると離れた先を名の下に書きます。死亡の場合は名に線を入れます」
「なるほどね」
「裏をご覧くださいますか。裏には、家長の妻と妻が産んだ子、子が産んだ孫が順に書かれています」
「ほう」
「はい」
「よくできているではないか、問題とは?」
「はい。
わが国では、生まれた子が7歳になると税を課すことになっております。7歳までは子が死にやすいということもございますが、7歳になっておりますれば、農作業の手伝いもいたします。それで戸籍票にも7歳になってからその名を書くのでございます」
「うむ」
「税は、家長が7歳以上の家族の分をまとめて支払いますので」
「なるほどの、子の年を偽って、年貢を納めない家長が出てくるのだな」
「はい」
天文学者は、白いひげを撫でながらしばし黙考。
「そうじゃの、あれを使ってみてはどうかの
子・牛・寅・卯、あれなら12まであるからの」
「ええー、無理じゃないですか、先生~あれを覚えさせるのですか~」
と、のけぞり退きする生徒。
「ふむ、無理だろうかね。ワン君はすぐに覚えたと思うが?」
「いえいえ、先生。わたくしたちは部屋の壁に、子・牛・寅が書いてあるほど親しみを持つよう教育されてきたからこそです」
「そうか、なるほど。うーむ。
しかし、仮に家長が子の年を偽ったとしても、子に、何の年に生まれたね、と聞くだけでよいではないか」
「それは確かにそうですが……」
「きみ、ワン君、少しは知恵を働かせたため。戸籍調査の時に、その年生まれた子に小さな木札を与え、常に首から掛けるように指導するなどはどうかね? 五行のお守りだとでもして、国から健やかに育つように与えられたとか言えばいいではないか」
「はあ」
「まだわからんかね、その札にその子が生まれた年を書いておくのだ」
「あ!」
「わかったようだね」
「は、はい、先生、さすがです」
「まあ、やってみたまえ」
「ははー」
演目終了
というわけで、しばらく税務局は昔天文所付属の教育所でこの記号に苦しめられた思い出で盛り上がり、同時にこれを使えば12までの数を楽に数えられて、当時の農民の天寿は40歳くらいで上限だろうから3巡り、イケルとなったのではないでしょうか。
後は実施ですけど、記号では何のことやらわからない人がほとんどでしょう。
そこで、天文学者のアイディアを民に広く理解させるために、彼らは頭を絞りました。
「子の音で始まる動物をこの年生まれの子どもの守り神としてみてはどうでしょう。
与える木札に、子の記号とともに動物を描いてみては」
「それはよいかもしれない」
子・牛・寅の音にいろいろな動物を当てはめてトライ、もっとも嵌りが良かった動物を選択して、家畜、狩りの対象、発音で語呂が悪くて覚えにくかったので神獣なども入れ込んでなんとか12種類を整えた、という次第。これでいかがでしょうか。
子が鼠になったことは、あまり好感を持って迎えられなかったかもしれません。ですが、中国語には四声という発声方法があって、12の動物を滑らかに、歌うように(例えば京都の通りに付けられている名を子どもに覚えさせるために、わらべ歌で、まるたけえびすおしおいけ、あねさんろっかくたこにしき、というのがあるように)12の動物を滑らかかつ美しく整えるためには、鼠が適していて、鹿も猫も適していなかった、そういうことではなかったのでしょうか。
身近に中国語に詳しい言語学者がおられて、十二支を、おそらく殷の時代ではこんな感じだったのではないかという、古い発音で読んでもらえる方がおられましたら、ぜひトライしてみてくださいませ。
倉名の「猫がいないよ~(涙)十二支に」ストーリーはここまでです。
楽しんでいただけたなら何よりです。
Thank you for all CATS, Granite