長生きをする嘘つき
短めの作品です。こういった長さのものを今回初めて書いてみたのですが、着想から書き終わりまでスピード感を持って作業が出来て楽しかったです。物語の始まるところから終わりまで、気ままに書くことが出来ました。今後この規模の作品も投稿していこうと思っています。水原
一
収穫の時期に、姫君が自分の領地を見て回った時のことだった。大勢の、忙しく動き回っている小作人の中の一人に、姫は目を止めた。その男、背が高く眉間にしわの寄ったその男は、年老いた父親について一緒に仕事をしていた。愛想のない男で、周りの誰かが話しかけても相づちだけで済ませてしまう。そばにいる腰の曲がった父親が、仕事のことで常に何か指図をしているのだが、男はそれを上手くやることが出来ず、一つのことのために何度も指図を受けていた。そうしてその間、あの眉間にしわの寄った難しい顔つきは変わらないのだった。男は、その要領の悪さを誰もが一度で見て取ることの出来るような、愚鈍の人物であった。
この男を見て、姫はこれを従僕に欲しいと考えた。もちろん、姫の下にはすでに何人もの、有能な使用人がついていた。しかしこれらの有能で賢い使用人たちに囲まれていることが、姫には不満だった。姫は愚かだった。また、自分が愚かだということを分かってもいた。だから姫は、自分よりも使用人たちの方がずっと賢いということを知っていたし、使用人たちの方でもそれを知っているのだということに、気付いてもいた。これは姫には非常に不愉快なことだった。姫にはどうしても、愚かな自分にも見下すことの出来る相手が、自分以上に愚かで地位のない存在が、身近に必要だったのだ。
姫は使用人の一人に言いつけてあの男を呼び寄せると、従僕となって自分の下へ来るようにと言った。一介の小作人には、姫君がこれを欲すと言えばついて行くほかはない。男の年老いた父親は別れ際に、しっかりやるように、というようなことを男に言いつけた。男は「ああ」という、返事のような、単なるうめき声でもあるような声を返した。
こうして姫は男を城へ連れて帰った。愚鈍なこの男は、しかし同時に正直者でもあった。男はこれまでに、嘘をついたことが一度もなかった。無口で全然人と関わらないこの男には、嘘をつく用事も、それをする機会も、全く欠けているのだった。ところで嘘をついたことがないということは、今日の我々の間においてと同様、当時その国においても稀有なことであった。
二
やがて、姫は隣国へと嫁ぐことになった。姫はあの男一人を、従者として一緒に連れて行った。ほかの有能な使用人たちは皆、元いた城へと残していった。嫁いで行く先にも、同じくらい有能な使用人が同じくらいたくさんいるのだろうし、元の使用人たちの中で姫が執着しているものは一人もいなかった。ただ一人、あの男だけが例外だった。
姫は男に愛着を持っていたが、それは人が飼っている動物に対して持つのと同じ種類の愛着であった。従僕は全員、例外なく、身分の違いからいって姫にとって対等な存在ではなかった。貴族同士であっても、家柄と、性別と、地位にあるものからの親等とで、一人一人を細かな階級に区分することが可能であり、実際そうした区分をまぬがれているものは一人もいなかった。
人間とは、見下すか見下されているか、この二種類のいずれかであった。そんな中でもあの男は、姫の所有物であり姫はこれを全面的に見下すことが出来、また愚かで正直なこの男が姫を見くびることは決してなかったため、姫はこれに特別の愛着を持っていたのだ。たとえその愛着が、人間が人間に対して向けるには不適切なものだったとしても。
三
隣国の王子の元へ嫁ぎ、その王子が王となったので、姫もまた妃となった。そうして一年、二年、三年と経った。その間に一人の子も産まれなかったので、城では跡継ぎをどうすべきかとか、王に、あるいは妃に、何か問題のあるために子が出来ないのではないかとか、様々な噂がささやかれるようになった。
ところがそんな矢先に妃が子を身ごもった。産まれたのは男の子で、王子の誕生に国中が喜び、盛大な祝いが催された。城にわだかまりつつあった不穏な雰囲気は消えてなくなり、皆、自分たちがしていた噂のことも忘れてしまった。
この王子の誕生には秘密があった。妃は王とは別の一人の貴族と姦通していて、どうやら王子の本当の父親はこの貴族であるらしかった。王は何も知らなかった。これを知るものは誰もおらず、ただ一人、従僕の男だけが、妃から直接にこのことを聞かされていた。「このことは決して、何があっても、誰にも言ってはいけないよ。お前はこの秘密を、お前自身の命と一緒に、あの世へと持って行くんだ。いいね。」そう妃に言われ、男は秘密を守り抜くことを誓った。
四
それっきり妃には子が出来なかった。王子は順調に成長していたが、ある時、王が病にかかりそのまま死んでしまった。王子はまだ若く、これを王座に据えることに不安を持つ若干のものが城にはいた。すると例の、妃と姦通していた貴族が名乗り出て、自分が王子の本当の父親であることを明かし、自分に王位を継承する権利があると主張した。皆が驚き、事の真偽が問われたが、妃は否定した。貴族の近辺のものは貴族と口裏を合わせていたが、妃の周囲にはそんな話を知っているものはおらず、貴族が嘘をついているのではないかということになった。
貴族は怒り、従僕の男を尋問した。貴族は妃がこの男に秘密を打ち明けたことを、ほかでもない妃自身によって聞かされて知っていたのだ。貴族は真実を言っているのであるし、従僕の男が口を割ればそれで全ての思惑が実現するはずだった。しかし男は口を割らなかった。
男が口を割らないので、貴族は看守に命じて男を拷問した。しかし、どんなひどい仕打ちにも男の態度は変わらなかった。拷問に当たった看守は、男の精神力だけでなく、むしろその生命力に驚いた。こうしたむごい仕事を長年に渡って行ってきたその看守は、経験上これではもう死んでしまうというような仕打ちに際しても、男が苦しみこそすれ命を失わずにいることが次第に不気味に思えてきて、貴族に泣き言を言った。
貴族はなおいら立ち怒ったが、結局度重なる拷問にも男から一言を引き出すことが出来ず、ついにはこの貴族の方が謀反人として罪に問われ、あっさりと処刑されてしまった。
こうして王子が新しい王となった。妃は拷問の傷が癒えた男を部屋へ呼ぶと、言った。「よく言いつけを守ったね。お前が口を割っていたら私は破滅していた。だけでなく、あの子もまた不幸な運命へと転がり落ちてしまっていたことだろう。分かったね。これからは私だけでなく、あの子のためにも口をつぐみ続けるんだ。あの子は、私のたった一人の子。私の宝なのだよ。」
五
男は妃の秘密の守り手となる以前には、嘘をついたことが一度もなかった。それは今日と同様、当時の人々の間においても非常に珍しいことであった。そうして嘘をつくことなく、そもそも人と関わらないために嘘をつく機会を持つこともなく、長年を生きてきたこの男の言葉には、いつしかこの世ならぬ不思議な力が宿っていたのだが、男自身も、ほかの誰も、そのことに気付いているものはなかった。力は振るわれる機会を持たず、ただ蓄えられ続けていった。
男が妃の秘密をただ知っているのみでなく、それを尋ねられるようになった時、事情は変わった。拷問を受けているさなか「あの王子は王の子ではないな!あの貴族と妃の間に出来た子だな!」「妃が貴族と通じていたことを、お前は知っていたな!」などと問われるたびに、男は「違う!」「知らない!」といった嘘を口にした。
こうして男が初めてそれを口にした時、男の嘘は不思議な力を発揮して、男は自分で気が付かないままに、その奇跡を身に受けていた。
男が嘘を口にするそのたびに、男の寿命は延び、最期の日は現在から遠ざかって行った。拷問を受けている時、その仕方のあまりにひどいために、本来ならそこで死んでしまうはずの瞬間が男の元を訪れていた。しかしすでについていた嘘のために、男はその瞬間を越えてなお生き永らえた。拷問に長けた看守は、自分がうっかり『ひどく痛めつけながらも生かし続けておくために越えないようにしなければいけない一線』を越えてしまい、内心で「しまった!」と感じた時でさえ男が死んではおらず、以後数度あえてそうした『行き過ぎ』を犯してみてもやはり男が生きているので、それを不気味に思ったのだった。
貴族が処刑されたので男が拷問を受けるようなこともなくなった。しかし嘘をつく機会は増えた。誰も考えつかなかったようなことが大きく取り沙汰され、そして解決されて、後には噂だけが人々の楽しみとなって残ったのだった。事実から解き放たれて初めて、噂は人を夢中にさせるあの本来の魅力を得ていた。男はことあるごとに、もう何度も答えてきた質問、「姦通はあったのではないか。王子の父親はあの貴族なのではないか。」というあの質問に、否定の答えを返し続けるはめになってしまった。
男は嘘をつき続けた。人と関わらず、嘘をつかず、嘘が何になるのかも知らずに生きてきたこの男には、そうした質問には答えずに黙っていた方が賢明だということが分からないのだった。
六
男の知らないところで男の寿命はどんどん延びていった。周りの人間が皆年を取っていくのに、男の姿はいつまでも変わらないままだった。そのことを不思議に思ったり不気味がったりする人間ももちろんいたが、その数は少なく、ほとんどの人間は男の容姿はおろか存在にさえ、そもそも大した注意を払っていなかった。
やがて母后は年を取り、そして死んだ。その子である王も、いつしか年老いていき、最後には死んだ。この王が死んだことで、男は従僕としての役目を解かれて城の外へと放り出された。亡き王は、母親が大事にしていた従僕の男を母の死後も城へ置き続けてくれたものの、母親と同じような愛着を男に対して持つことはなく、自分の子供たちにも男を近付けはしなかった。するとこの王の死後、無愛想で愚鈍なこの男を従僕としてなお使い続けようという人間は、城にはもう一人もいないのだった。
突然従僕ではなくなって一人放り出されたものの、男はこの国に何の身寄りもゆかりもなかった。にもかかわらず男は、自分がこの先どうして生きてゆくのかを、全然心配しなかった。どうにかして生きては行けるだろうという、根拠のない漠然とした確信が、男にはあったのだ。その確信は的外れではなかった。確かに、男が死ななければならないその日は、この時点ではるかに遠い未来へと延期されてしまっていて、当面の間は命の心配をする必要がなかった。しかし当の男自身はそれを知らないのだった。
七
かなり長い年月が経った。ずっと後の時代になり、この国の王家は廃れ、この国自体も近隣のもっと大きな国に併合されて、もはや一個の国家ではなくなっていた。
ある時一人の学者がこの地域を訪れた。この学者は歴史家で、この地にかつて栄えていた王家の歴史を調べ、それを一冊の書物に記すという計画を持っていた。調べることの出来る文献や記録はすでに調べていたが、学者にはなお知りたいことがあって、それでこの地に滞在しているのだった。
町のとある酒場で、この学者が客の一人と話している時だった。学者と話していたこの客が不意に、奥の席で一人で飲んでいる男に声をかけた。客はにやにやしながら、「おおい、この先生がよ、知りたいことがあるんだってよ。あんたの得意の話を聞かせてやりなよ。」と言った。
呼ばれている男とは、あの従僕の男であった。男は返事もせず、振り向くこともなく、ただ眉間にしわの寄った不機嫌そうな顔のままで、わずかに顔の向きを変えただけだった。
学者は立ち上がると、躊躇なく男の隣に座って話し始めた。
「どうも初めまして。私は歴史学者で、ここにかつて栄えていた王家のことで調査をしているものです。実は、記録に残っていないことで少し気になることがあったもので、人に聞いて回っていたんですよ。ちょっとした、噂みたいなものなんですがね。何か、こんなことを聞いたことはありませんか。昔ある時に、王と王妃との間になかなか子が出来ないことがあって、結局二人には男の子が一人産まれるんですが、この子はどうも妃がほかの男と姦通して出来た子であるらしい。相手の男も相当に身分の高い貴族だったようだから、これが事実なら血筋という意味で…」
しかしここで、男は学者をさえぎった。
「偉い先生、そんな話はどこにもない。お妃さまはそんなことはしていないし、王子は王と妃の子で間違いない。それが本当のことだ。調べたって、ほかに何も出て来やしない。」
男はこう言うと、立ち上がって店を出て行った。後にはぽかんとしている学者と、にやにやしている客が残った。
王子の出生に関する噂は、こんなに後の時代になってもまだ、完全には消え失せていなかった。きちんと始末をされなかった火のように、誰もがそれを忘れた頃になって、噂はそれを話す人々の口元をくすぐった。誰かがその話をしているのを聞くたび、男はむきになって火消しをしようとした。男は笑いものになり、そしてまたも無自覚に死期を遠ざけた。
八
さらに年月は経った。男は妃のことで嘘をつくべき機会を、あまり持たなくなっていた。時間が経ち過ぎていて、そのことを聞きたがる人間はあまりいなくなっていたし、王家の歴史が記されて以来、男がいくら妃の無実を主張したところで、誰からも相手にはされなかった。人との関わりは少なくなっていき、誰とも話さないので、おのずと男が嘘をつくこともなくなった。
男はいつしか年を取り、病をわずらい、床に伏せた。一人、横になって、ぼんやりする頭で男は考えた。
(俺はもうすぐ死ぬのかも知れない。何だかそんな気がする。自分は全然死なないんじゃないかと思えたことも前にはあったが、でも今は違う。もしこのまま死ねるのなら、お妃さまの言いつけも、何とか守り通すことが出来たわけだ。長くはあったが、どうにかしくじらずに済んだってことだ。)
確かに、多年人と話さず嘘をつくこともなく生きてきたために、男の最期はかつてよりはずいぶんと近付いていた。今、年老いて弱った男は、普通の人間がそうするのと同じように、生への執着を死への親しみと引き換えにしていた。愚直にも務め続けてきた、秘密の守りというその役目がもうすぐ終わることを思って、男は一人、安心を覚えた。(終)