おかえり、アタシのホンダレブル
「別れよ。アタシ、人のもの盗む男は無理」
馴染みの喫茶店で別れ話。窓際の席。テーブルを挟んで正面に彼氏のタケルが座っている。正確には、今ちょうど彼氏じゃなくなった男だけど。
「てか、そもそもアタシに全然興味ないでしょ。付き合ってる意味ない」
思いのほかタケルは動揺しているようだった。
「な……、なんでだよ。いきなりすぎるって。てか、盗みじゃねーし。借りてるだけだし」
「借りたもの返さないのは盗みだろうが。無断で借りるのも盗みだよ」
アタシはため息をつく。窃盗を正当化する男と、そいつと別れたがる女。この構図。はたから見れば、アタシはクズ男に引っかかった哀れな女の子に見えるのかもしれない。
「だけど、盗みならヒナタだってやってたじゃんかよ」
弁解でもするかのようにタケルは言う。
「やめたんだよ。盗みは最低だって分かったからな」
「何か盗まれたのかよ」
「バイク。……アタシのバイク」
言ってる途中でちょっと泣きそうになって、語尾が尻すぼみになる。
バイト代をためて買ったお気に入りのホンダレブル。毎日拭いて、カスタムして、大事に使ってた。
それが盗まれた。あの日の気持ちをアタシは未来永劫忘れないだろう。
大学の試験日だった。友達から借りたカンペでどうにかドイツ語のテストを乗り切った帰り。私の愛車が消えていた。うかつだった。鍵を取り忘れていた。
鍵が差しっぱなしのアタシのバイクを目ざとく見つけて、乗っていった奴がいるのだ。いや、もしかすると狙われていたのかもしれない。
ぎりりと奥歯を噛み締める。タケルには気づかれないようにしようとしたけど、隠せた自信はない。
「で、でも、別れないぞ。絶対別れないからな」
「うっさい。別れたくないなら盗みやめろ。やめるなら許してやってもいい」
途端にごにょごにょしだすタケル。普段の威勢のよさはどこへ行った。
「やめる気ないなら別れる。それでいいんだな?」
凄んで見せる。ヒッ、と情けない声が聞こえた。そこまで弱々しいと逆に心配になる。
いつもは調子よくべらべら喋るのに、いざとなるとこれだ。嘘でも「やめる」と言えばいいものを。ま、それでも余程のことがなければ別れるけど。
「本当、なんでアンタみたいなのと付き合っちまったんだろ。アンタみたいな、アホで嘘つきで窃盗犯のバカと」
「そ、そこまで言うことないだろ!」
流石に癇に障ったようだった。タケルは大声を出す。周りの客の視線がパッと集まったのが分かった。
「好き勝手言いやがって!自分がガサツなのは棚に上げてよぉ!今日だってここまで誰のバイクで来たと思ってんだ!それなのに感謝の言葉もねぇ!ガソリン代出せ!クソが、どっちが窃盗犯だこの野郎!」
「あ?」
思い切り睨んでやる。頭に血が上っていく。
「いや、あの……えと」
タケルが一瞬で静かになる。横目で見渡すと、店中が静まり返っていた。
「おい」
タケルの背中が跳ねる。
「バイクの鍵出せ」
二秒で体中をごそごそ探し、机の上に鍵が置かれる。私はそれを自分のポケットにしまう。
「バレないと思ってたのか?」
「え、なんのこと……」きょとんとした顔のタケル。
「………」
こめかみがきしむ。はぁーっと長く深いため息が出る。どう怒鳴りつければいいか悩む。
もういいか。どうせ別れるんだし。
「あのな、もしもアンタが自分から謝ってくるなら全部水に流してやりなおすのもいいかなとか思ってたけど、はあー最悪。自分が恥ずかしい。アンタには失望したわ」
「なになに、どういうこと。俺なんかした?」
戸惑いつつも悪びれない様子のタケルに舌打ちが出る。タケルがたじろぐ。
「あのなぁ!」
机をドンと叩く。真正面から睨みつける。
「お前が今日乗ってきて、私を乗せてやったとかいきがってたあのバイクはなぁ!!」
拳を振りかぶる。空気がブーンとうねる。近くの客が息を呑んだのが分かる。
「アタシのバイクだこのカスがァ!!!」
積年の恨み。渾身の力を込めて、私は元カレの顔面に拳をめりこませた。
お冷、コーヒー、食べかけのサンドイッチ。そこにあったもの全部、あいつの頭にぶっかけて、アタシは店を出た。
道路の脇に、見慣れた愛車が止まっている。少し色あせて、傷ついてはいるけど、何度見ても間違いない。アタシのホンダレブル。
チェーンロックを外し、鍵を差し込むと、聞き慣れたエンジン音が響いた。
シートにまたがり、ぎゅっとハンドルを握る。エンジンをふかして走り出す。元カレが追いかけてこないうちに。信号はちょうど青になったところだった。
風を切りながら走る。
おかえり、相棒。