15 懇願
「何かしら」
誰かが言った。
「さぁ」
「あの子はどなた?」
そんな小声の会話が聞こえてくる。
しかしそれらに返事をする余裕は、残念ながらない。
休憩屋に集まった令嬢たちを背にしてリゼットは冷や汗を流した。
「で、殿下……」
「リゼット、リゼットだな? なぜ帝国に?」
リゼットの腕を掴んだまま、パトリックが食いかかるように言った。
――なぜ、なぜって、誘拐されたっていうか……行きついた所がたまたま帝国だったというか……。
いずれにしても、パトリックが原因でリゼットはここにいる。それをわざわざ伝える気にはならなかった。なんだかひどく癪だったから。
リゼットは顔を歪めて、力強く手をひいた。
パトリックの大きな手の中から自らの華奢な腕を救出し、距離をとる。
「あの後、帝国にきたのか」
パトリックは、抜けていった手を一瞬視線でおったが、すぐにリゼットと目を見下ろして言った。リゼットは再び沈黙を返す。
「帝国で何をしている?」
「……」
「まさか、その格好は……聖女? そんな……」
「……だったら、なんだっていうんです」
リゼットは険のある声で答えた。
正直、この男の質問に応える義理はないと思っている。
顔も見たくなかったし、声も聞きたくなかった。今回の披露会がなければ、もしかしたらずっと思い出す事すらしなくてすんだかもしれない。
裏切られたとか、失望とか悲しみとかの気持ちはない。恨みもない。今の生活の方が以前よりずっといいのだから。ただ、自分を一方的に捨てた相手だ。心を開く理由など何一つない。
会話をする義務もない。
それでも返事をしたのは、黙っていることで、パトリックが都合よく解釈するのが嫌だったから。この男は、そういう解釈の仕方をするのだ。
それを痛いほど知っている。
「帝国が最近聖女を見つけたと聞いたが、お前がそうなのか。聖女として、認められたのか」
パトリックは呆然と言った。
そこでようやく、リゼットはパトリックの顔をまじまじと見つめた。
――なんか……。
痩せている。いや、やつれている。
目の下には隈があり、頰は痩けて、髪はよく見ればパサついている。立派な服を着ているのに、着せられているような気配すらあった。
まるで病人のような姿だとリゼットは思った。
見れば、むき出しの手首も細い。リゼットより年上の、それこそディーとほとんど変わらない歳の筈なのに、ディーよりもずっと弱々しい。
――前は、こんなんじゃなかった。
眉間にしわを寄せて、わずかに目を見開いて、リゼットはパトリックを見返した。
パトリックもまた目を見開いてリゼットを見ていた。
その目には、どことなく光が宿り、まるで飢えた旅人が水を見つけた時のように、喜びにゆがんでいる。痩せた顔にその目が乗っていることが不気味だ。
気味が悪いとリゼットに思わせるギラついた目つき。
やはり、以前と違う。こんな顔をする人でなかったはずだ。すくなくとも人前では柔和な顔をしている人だった。どこか自信満々の顔で、人を見下すような人でもあったが。
だから、見慣れない姿に、リゼットは困惑していた。
不意にパトリックが足を踏み出した。
反発するようにリゼットが一歩下がると、また一歩近づく。リゼットの後ろにはソファがあって、そう距離を保つ事はできない。それでもリゼットは足をひいた。
一種の回避行動だ。
離れなければいけないと、危機感すらある。
「頼みがあるんだ」
パトリックが絞り出すように言う。
リゼットはいつかのように首を左右に振った。
あの時は、否定のための行動だった。今度は、拒絶だ。
話など聞きたくない。頼みごとを聞く義理などない。だから近づくな。という拒絶。
しかしパトリックは意に介さず、近づいてくる。
ドンっと、背中がソファにぶつかった。
「何ですの?」
そんな言葉がソファにいた女性から掛けられる。
――何、は、こっちの台詞よ。
リゼットは下がる事の出来なくなった体を縮めるようにして、首を左右に何度も振った。
「きいてくれ」
「いやです」
「頼みがある」
「いやですって」
「お前にしかできない事なんだ」
人の話はまるで聞いていない。
拒否しているのに、お構い無しだ。
「頼む」
「だからっ」
続いて飛び出た言葉にリゼットは目を剥いた。
「聖女として戻ってきてほしい」
「は、はぁ?」
――な、なに言ってるの? この人。
困惑して口をぽかんと開けたリゼットに、パトリックは再び近づいた。
片足を後退しかけて、しかしソファの背に足が当たる。
もう、下がれない。
ならば立ち向かうしかない。そんな気持ちで、リゼットは唇を噛んで、パトリックを睨みつけた。
「何、言ってるんです。追い出したのはそっちでしょう」
「ああ、だが、今はお前が必要だ」
「そんな都合のいい……ユリさんがいるでしょう!」
途端、パトリックが顔色を変えた。
怯えたような、焦ったような、混乱したような、そんな顔で視線をキョロキョロと彷徨わせた。
――何?
「違う、違う」
パトリックはうなされるように、繰り返しつぶやく。
「違う。あいつは、ユリは、彼女は違う。美しい、いや、違う、違う、聖女では」
額に手を当てて、パトリックは唸っていた。
違う。とひたすら繰り返す。明らかに様子がおかしい。それはおそらく、ユリのもつ謎の力が影響しているのだろう。そうリゼットは感じ取る。
――やっぱり、ロクな力じゃなかったんだ。
パトリックの様子は精神を壊した者の姿だ。
そうしてしまうほどの力を、ユリは持っていたのだ。そう思うと恐ろしさからか身震いした。おそらく、リゼットが持つ聖女の力とは真逆の黒い力だ。
もし対峙することがあったとしたら、果たしてそれは聖女の力でどうにかできるものなのか。
急に、リゼットは興味を覚えた。ユリの力を相殺できるかどうか。
そっと頭を抱えているパトリックに向かって一歩を踏み出し、手を伸ばす。
その手を、誰かが横から掴んだ。