雲の王国
数年前から流行り出した「ソロキャンプ」に挑戦しようと思い、すっかり準備して出掛けた森の中で、想像もしていなかった者達に出逢い、始まるお話です。
半袖を着る程の暑さでもなく、セーターを着る程の寒さでもなく。
長袖のTシャツにパーカーをサッと羽織る程度が丁度いい塩梅。
換気をするのに開けた窓からふと空を眺めると、なんとも心地よい青空。
部屋に吹き込む風も穏やかで、家にいるのがもったいない気がした。
事前に一週間の天気予報で三連休初日の今日の天気は知っていたけど、ここまでだとは思いもしなかった。
高いところのお日様が、「外に出ておいでよ!」なんて言っている気がした。
「よし!じゃあ、行きますか!」
誰に言う訳でもなく、見慣れた部屋で元気よく声を出した。
行き先は決めてある。
最寄り駅から電車で約2時間ほどの場所。
渓流釣りなどをする人やアウトドアの達人、山菜採り名人などが好む様な、割と静かな川の辺りを目指した。
数年前から流行り出した1人でキャンプをする「ソロキャンプ」に挑戦してみることにしたのだった。
まだ寒い季節のうちから仕事帰りに100円ショップや、ホームセンターなどに寄ってはちょこちょこ必要な道具を買い揃えて来た。
金のある人の様に、いっぺんにドカンとキャンプ道具一式なんて買える訳もないので、給料が出たら毎月使えるだけのお金を使う形。
僕は金持ちの様にドカンと買うよりも、少しづつちまちま買う方が好きだなあ。
それは決して負け惜しみ的なことではなく、ちまちま頻繁に買いに出掛ける方がゆっくりと色々吟味しながら楽しめると感じたから。
そして、そういう風にじっくり使いやすさや値段などを考えながら買う方が、バッと一度に買ってしまうよりも道具などに愛着も湧くだろうし、何より飽きないんじゃないかとも思う。
別に批判するつもりも偏見もないけれど、ババっとドカンと買っちゃうタイプは、なんだか飽き性な感じがするのだ。
これは勿論僕だけの意見なのだけれど。
電車から降りて歩き始めると、背中に背負った荷物と片手に持った荷物が案外重たいと感じた。
車…欲しいけど…なあ。
ある程度の都会、でもないけれど、そこそこ人が多くて電車やバス、自転車で毎日の生活が十分な場所で暮らしている為、こんな場合にならないと「車」の必要性を感じなかった。
歩き慣れたスニーカーでも、持ち物の重さと歩き慣れない山道が僕の体にどっときた。
「はあ…疲れた。」
おおよそこの辺りが目的地であろうという川原に辿り着くと、ふうと大きく息を吐いてから腰掛けるのに丁度いい安定感の岩に荷物を降ろした。
「あ〜、結構な遠さだったなあ。」
つい口から本音が漏れた。
とりあえずリュックから出したペットボトルのお茶をグビリと一気に飲み干した。
辺りを見渡すと、人っこ1人いない。
まあ、いいか。
初めての「ソロキャンプ」なので、「ソロ」だけど近くに誰かいてほしい気持ちも幾らかあった。
「さてと…」
汗がすっかりひいた頃、ようやく僕は荷物を広げた。
ここへ来る計画中に何度も何度も見た動画の様に、僕は「初心者用」の釣り道具セットで早速、釣りを始めてみた。
そんなすぐには釣れないって。
そう思っているのもつかの間、川に釣り糸を垂らしてまもなくブルブルとした手応えあり。
「おおっ!マジか!えっ!あっ!」
やり慣れないながらも、僕は必死にリールを巻いて釣り針に引っかかっているらしい獲物と格闘した。
釣り竿を持ちつつ力強くリールを巻く獲物との真剣勝負の最中、心のどこかでは「これ!これ!これよ!」とはしゃぐ自分がそこにいたのだった。
水面に獲物の影が見え始めた時、僕はのけぞる程びっくりして思わず大きな石がゴロゴロしている川原にドンと尻餅をついてしまった。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
だが、女の声で我に帰った。
「ちょっと〜!痛いじゃないのさ〜!」
そこにはやけに筋骨隆々の若い女がずぶ濡れで文句を続けていた。
はて?何?どういうこと?何?この人?誰?
僕の頭の中は疑問とパニックでいっぱいだった。
枯れた声で「ちょっとあんた!聞いてんの?」と言われ、やっと幾らか冷静になれた。
ずぶ濡れの女はよく見ると上半身裸で、赤茶色の長い髪に引っかかった釣り針を全力で取ろうとしている様子。
ゴリラの様なマッチョな上半身に気を取られすぎて、下半身が魚だということに気がつくまで少し時間がかかった。
に、人魚?
僕は伝説の生き物として漫画や映画などで見たことがある、あの「人魚」とご対面しているのだ。
驚きすぎると人は両目を擦ってみたり、首を振ってみたり、様々なその手のリアクションを自然ととってしまうものなのだとわかった。
時間というのは不思議なものだ。
今、目の前に伝説の生き物である「人魚」がいることに、違和感を感じなくなってきた。
そして、冷静になってよくよく彼女の声に耳を傾けると、何故か言葉が同じで通じることに気づいた。
えっ?なんで?と心の中で叫んでみたところで、実際にそうなのだからそうなのだと受け入れるしかない。
そうとわかれば僕は大丈夫だった。
「あ…あの…あなた…あの、人魚?さんですか?もしかして、もしかするとの話なんですけども…。」
「あ!あんた、話せるの?そう、よかったあ…え〜と、ああ、そう、あたし、人魚っての?あんた達みたいなのが勝手にそう呼んでるみたいだけどさ…。」
「…そ、そう…なんですね。」
「ああ、あのさ、そういうのはいいから、ちょっとこれとるの手伝ってよ!」
「ああ、はい、わかりました。ちょっと、あの、ジッとしててもらえますか?」
「こう?」
「そうです、そんな感じで…すいませんです。」
僕は何故人魚にへーこらしているんだろう?
自分が少し情けなかった。
長い髪に絡まった釣り針は結局手では取れず、その部分だけキッチンバサミで切ることでようやく解決した。
「ああ、ありがとう。助かったわ。」
「なんかすいません、僕が投げた釣り針が引っかかっちゃって…おまけに髪の毛もちょっと切っちゃうことになっちゃって…。」
「いいよ!いいよ!そんなことさ…いちいち気にしてないし、どうせまた伸びるし…。」
人魚の彼女はあっけらかんとそう答えてくれた。
唐突に僕は頭に浮かんだ疑問を彼女にぶつけてみた。
「あの…ちょっと聞いてもいいですか?」
「ああ、いいけど、何?」
「あの、人魚って普通海にいるもんじゃ…。」
そこまで言いかけた時、すかさず人魚が被せる様に答え始めた。
「ああ、海ね…昔はさ、海に住んでたんだけどね…塩水でしょ?だから、なんつうかさ…肌とか髪とか荒れちゃうんだよね…。」
「えっ?」
そんな理由?
「…んでさ、海の底辺りだとあんまり水の動きがないから楽っちゃ楽なんだけどさ…やっぱり肌荒れとかが酷くなってきちゃうとさあ…。」
「…はあ…。」
「そんでさ、仲間と一緒にちょっと川にでも行ってみちゃう?的な…。」
なんだろう?この軽さ。
「…でもさ、来てみたのはいいんだけどさあ、川ってさあ、そもそも流れあるじゃんかあ。」
「はい〜。」
「案外流れが強い訳よ…んで、ここまで遡上してくんの、大変だったのよ〜…わかる?泳げども泳げどもなかなか進まないのしさあ、大変なんてもんじゃないのよ!本当にわかんの?」
「…んん、まあ…なんとなく…はい…。」
「んで、やっとこ着いたここら辺りだら流れも緩いし、割と静かだしって感じでしばらく住もうかなあって。そんな感じ!」
「あ、ああ…そう…そうなんすねえ…。」
ギャルっぽい様な、そうかと思えばどこか姉御肌が漂う人魚に、僕は自然と舎弟気分になって聞き入った。
「まあ、でも、ここはいいわあ…魚も美味しいし…。」
「…あ、へ〜え、そうなんすねえ…。」
「だけどさ、ずっと同じ食べ方ばっかでしょ?流石にちょっと飽きちゃってるところもあんのよ。でも、腹は減るからさ…。」
ここで人魚は寂しそうな表情になった。
彼女の寂しそうな横顔を見ると、どうしても一緒に視界の端に彼女の出しっ放しの胸が見えてしまう。
見たくてみている訳じゃないのに。
どうしても、どうしても視界に、僕の視界の片隅にマッチョボディだけれど、女性らしい膨らみ、そして、その先っちょにぷっくりした先っちょ。
いけない!いけない!と心で叫びながらも、チラチラといやらしい目でみてしまっている僕。
よく見るとなかなかの美人でもある彼女。
男として抑えきれない気持ちが強くなる一方、ピチャピチャと川の水で遊んでいる彼女の「魚」の部分を見ると、膨れ上がった男の部分がシューと音を立てて縮んでいくのがわかる。
ああ、ダメだ!ダメだ!
脳内で格闘する僕は咄嗟にいいことを思いついた。
まずはリュックから着替えにと持ってきていたTシャツを彼女に着てもらった。
これで安心。
…だと、思う。
と、考えつつ、Tシャツ越しにピョンと立っている彼女の胸の先端を、何気なく会話をしつつも時折見てしまうのだった。
Tシャツを出す時、持って来た道具で更にいいことを思いついた。
「あ、あの、よかったら…なんですけど…魚、天ぷらにして食べてみます?」
「ん?天ぷら?…天ぷらって何?」
わからない人に口で上手に説明するのは、とても難しい。
だもんで、僕は早速道具を出して「天ぷら」を揚げる準備をした。
「あの、すいませんけど…何か、食べたい魚とか獲ってきてもらえたら…天ぷら、できるんですけど…いいですか?いいですかねえ?」
「ん、わかった、あたしが食べたい魚を獲ってくればいいのね…ちょっと待ってて。」
そう言うが早いか、彼女はドブンと川に飛び込んだ。
やっと1人きりになった今、先ずは「火起こし」から始めた。
心地よい川のせせらぎ、鳥の鳴き声、風で木々の葉が擦れる音。
なんて気持ちがいいんだ。
僕は目を閉じた。
もしかして、今さっきの人魚のこと、夢だったりして。
そうだよなあ。
まさか、人魚って…人魚って…ねえ。
僕の中のもう1人の僕も、一緒に「ねえ」と言ってくれた。
だが、次の瞬間、ザバーッと川で大きな音がした。
「獲ったよ!」
両手に1匹づつ魚を掴んだ彼女が、水面から勢いよく上がってきた。
あ、やっぱホントだった。
僕の中に何故か若干の「がっかり感」が生じた。
「これだけど、大丈夫?本当にできんの?その、なんだ…え〜と、え〜と…。」
「天ぷらね。」
「そう!それよ!それ。出来んの?」
「ええ、出来ますよ!ちょっと待っててもらえますか?今から作りますんで…。」
やべ、火は無事に起こせたけど、天ぷらの準備が…。
そうこうしながらも、僕は慣れない道具を駆使して、やっとの思いで「魚の天ぷら」を揚げた。
揚げている途中から、天ぷらのいい匂いがそこら中に漂った。
僕は天ぷら粉を発明した人、改めてすごいなあと思った。
揚げたて熱々の天ぷらを100円ショップで買ったアウトドア用の仕切りのある皿に乗せると、まずは「抹茶塩」を軽く振りかけた。
「はい、できましたよ!まずは、お塩でどうぞ!」
目をキラキラさせて今か今かと待っていた彼女に天ぷらを差し出すと、彼女は一瞬熱いといったリアクションをとってから手掴みの魚を口の中に一口、恐る恐る放り込んだ。
「あ、ごめんなさい。熱かったでしょ?」
僕が謝る間も無く、彼女の顔がパーッと晴れやかになった。
「ほっ、ほっ、ほっ…ほい…ひい…なに、これ…。」
熱くてなのか、美味しすぎてなのかわからないが、彼女の目にうっすら涙が光った。
一つ目を食べ終わると次に手を伸ばしたので、僕は「ちょっと待って!ごめん、今度は、こっちで食べてみて!」と、天ぷらにめんつゆを少しだけかけた。
「何かけたの?」と聞かれるかと思ったが、彼女はそんなこと言わずにすぐさま「めんつゆ」の天ぷらを口に運んだ。
「あ!…ほっ、ほっ、ほっちも…ほいひい!」
多分、こっちも美味しい!なのだろう。
こんなに喜んでくれると、こちらも嬉しくなった。
全部食べ終わると彼女は、「あんたさ、いっつもこんな美味しいの食べてんの?」と聞いてきた。
「あ…いや…いつもではないですけど…まあ、食べますねえ。」
「へえ、そうなんだあ。いいねえ、羨ましいな。」
僕は思いがけない彼女の台詞に、少し驚いてしまった。
「あたしさ、いっつも生でばっかだから…たまにこう言うのもいいね…。ありがとう、わざわざあたしの為に作ってくれて…それとこれは…ごめん、返すね…水の中じゃ、ちょっと邪魔くさいから…。」
そう言うと彼女はすかさずTシャツを脱いで、こちらに寄越した。
「濡れちゃって悪いね。あ、そだ、あんたにこれ渡そうと思って…。」
彼女は長い髪から金色の髪飾りを取ると、僕の手に。
「えっ?これ。」
「ああ、お礼。綺麗でしょ?確かさ、金って言うやつじゃなかったかなあ?」
ええ〜っ!き、金!
一瞬嬉しくなったが、いや、待てよと思った。
こんな素晴らしい細工の金の髪飾り、もらったところでどうするよ?
金の買取でお金にしようにも、出どころが怪しまれそう。
そんで、通報とかされちゃったりするかもしれないし、詳しく正直にもらった経緯を説明したところで誰も僕の話を信じてくれそうもないだろうし、そもそも彼女の大事な物だろうから、もらう訳にもいかないし、僕の髪につけるのも変だし。
短い間に色々な心配事が巡ったので、僕は「これ、返すよ。ごめんね、気持ちはものすごくありがたいんだけどさ。僕が持ってるより、君の髪につけてた方がずっといいなって思うから。」
沈んだ哀しい表情の彼女に向けて、僕は「ほら!ねっ!僕、似合わないでしょ?」と言いながら自分の短い髪に髪飾りを当てて見せた。
「やっぱり、君の長い髪につけた方がずっと、ずっといいもの。」
そう言いながら、僕は彼女の髪に金色の髪飾りを戻してあげた。
「本当にいいの?」
「うん、いい。それに、お礼を言われる様なことしてないもの。君の髪に釣り針…。」
そこから僕はジェスチャーで伝えた。
「ああ…そっか…うん…そうだったね…。」
「じゃ…。」
「あ、そうそう、あんたさ、名前なんての?あたしは※@&%!」
「えっ?あ、僕はケンジです。山谷ケンジ。」
「ふ〜ん!そう!ケンジね!わかった!じゃね!ケンジ!今度いつ来る?また天ぷら食べさせてよ!次はもっと沢山魚獲るから、いっぱい作ってね!」
僕は次のことなど考えてもいなかった。
「あ…そのうち、また、来ます!多分…来ると…思います。」
「絶対来てよ!約束だよ!じゃね!ケンジ!美味しかった!気をつけてね〜!」
「あ…じゃあ、また、今度…いつの日か…。」
川に戻る彼女に手を振って見送ると、僕はまたもや驚いた。
彼女の泳いだ先に複数の「人魚」達がいるではないか。
女性ばかりではなく、男性の姿も。
あれ?女の人魚はマーメイドだけど、男の人魚ってなんて言うんだっけか?
早速、スマホで調べた。
「マーマン」
えっ?男の人魚、マーマンって言うんだ。
なんだか母さんみたいな響きだなあ。
それはそうと、彼女、名前…発音できないよ…う〜ん…。
頭の中で一連の出来事を整理しながら、僕はキャンプの場所を求めて移動を開始した。
揚げ油の処理…ちょい、めんどくさかったなあ。
僕は頭の中でぼやいた。
そして、人魚にばかり食べさせて自分は一つも天ぷらを口にしていないことに気づき、心の中で「ちくしょー!」なんて叫んでみたのだった。
さっきまでの川の横に土の歩道がある。
そこを川の上流に向かってゆっくりと歩いた。
ふと見上げるも、まだお日様はピカピカしている。
沢沿いの道は周りの木々に覆われて丁度いい木陰となって歩きやすい。
「あ〜、腹減ったなあ…まあ、ここらでちょっとひと休みするか。」
横たわる大きな倒木に腰掛けると、僕はゆっくりと深呼吸。
「はあ…さっきは何だったんだろ?」
僕の脳裏にはさっきの人魚の彼女の姿。
そして、筋肉マッチョだけど、ちゃんと女性らしい胸、そしてピンと立っている先端。
あ〜、何考えてんだろ?
中学生じゃあるまいし。
そんな中、いきなり後ろから動物の様な鳴き声がした。
それと同時に熱くて臭い息もかけられた。
「ひゃっ!」
あまりの驚きに、僕はピョンと立ち上がった。
まさか…熊?
恐怖で固まったままの僕の背中を、優しくツンツンと突いてくる。
振り向きたい。
けれども、怖すぎて出来ない。
さっきまで伝説の人魚と一緒だったから、怖いなどもう慣れたと思ったのに。
低い鳴き声の主がゆっくりと足音を立てて、顔側に来る。
僕はぎゅっと瞑った目をゆっくりと静かに開けてみた。
目の前にあるのは真っ黒に近い焦茶の毛の壁。
鼻の周りにまとわりつく獣の臭い。
やばい!死ぬのか?ここで。
耳元に心臓があるんじゃないかというぐらい、僕の鼓動は激しく大きかった。
すっかり開いた目で目の前にいる獣を見上げてみた。
熊…じゃない…けど、何か、熊的な獣…そ、そうだ!雪男!…とか、そんな感じ…イエティ?…あれ?イエティって雪男のことだっけ?そもそも雪男ってもっと白っぽくて、雪の中にいてもわからない感じじゃないのかな?こんな熊みたいな色の毛だっけか?
我ながら馬鹿みたいな疑問が、後から後から湧いて出る。
臭い息はかけられてるけど、距離があまりにも近すぎるけど。
何もしてこない。
ただ、お互い向かい合って立っているだけの時間が続いた。
どれぐらい経ったのだろう。
1時間ぐらいなのか?
はたまた、たった5分程度なのか?
僕にはわからなかった。
幾らか落ち着いてきた頃、相手からジェスチャーが始まった。
獣は一生懸命。
「あ…もしかして、前髪?」
ジェスチャーに答えると、どこから出したかわからない「ピンポーン!」という音が獣から聞こえた。
「えっ?何?今の音?どっから出てたの?」
そうぶつぶつ独り言を言う僕に構わず、獣は更に続けた。
「え〜と、何?え〜と、前髪…邪魔だから?」
「ピンポーン!」
「え〜と、え〜と…ピン留めとか持ってるか?ってこと?」
「ブブ〜!」
どうやら僕の答えは不正解らしい。
「え、え、じゃあ、じゃあ、え〜と…カット?カットして?切る?切ってってこと?」
「ピンポーン!」
正解は前髪を切って欲しいでした。
答えが出た途端、2メートルを越す程のデカい獣は、いきなり僕を抱きしめてその場でくるくると周り喜びを精一杯表現してきた。
僕は毛だらけの獣の胸辺りに顔を押し付けられる形。
ぎゅっと強く抱きしめられたが、悪い気はさほどしなかった。
なるほど。
冷静になってよくよく観察してみると、確かに獣の顔、毛だらけで目や鼻、口があるのかわからない。
わからない僕からしてみれば、元々そういう獣なのではないか?と思わせる風貌。
だが、彼なのか?彼女なのか?わからないこの獣からしてみると「前髪の毛が伸びすごて邪魔で見づらいのよ!」ってことらしい。
言葉は通じないが、僕もジェスチャーを交えて獣との交信を試みた。
リュックに入れた小さなスケッチブックとペンを取り出し、獣の姿と前髪を切った後の姿を簡単な絵で描いて見せた。
そして、それを指差しながら、「これを、こう?」などと声に出した。
すると、相手はうなづく様な仕草を見せた。
「わかったよ!わかったから!じゃあ、そうだな…ちょっと、ここに座って!」
僕はそう言うと腰掛けていた倒木の上を叩いて「座って!」とジェスチャー。
すると、獣は僕の伝えたいことを理解してくれ大人しく、まあ最初から大人しかったのだけれど、腰掛けてくれた。
僕は早速リュックから100円ショップで購入していた「キッチンバサミ」を取り出した。
ついさっき、人魚の髪に絡まった釣り糸を切る時にも使ったが、またしても珍しい場面で使う羽目になろうとは。
理容師や美容師ではないけれど、前髪ぐらいは切れる自信があった。
獣に持参していた小さな手鏡を渡すと、毎日使っているブラシで獣の毛を綺麗にとかしてあげた。
長く洗っていない毛にブラシをかけるのは、なかなか難しい作業。
だもんで、どういうつもりで買って持って来たのか忘れてしまった「水を入れた霧吹き」で少し濡らしながらゆっくりと、丁寧に丁寧に毛を引っ張ってしまわぬように気をつけた。
獣は手鏡に驚き、興味深々の様子。
小さな子供のようにはしゃいでいる姿が、何だかとても可愛らしいと思った。
「じゃあ、切るよ!いいかい?」
ブラシで整えた前髪の毛を、僕は少しづつ切っていった。
途中、何度も「これぐらいでどう?」と聞き、獣が首を傾げて「もうちょっと!」的な仕草を見せると、また少し切ってあげた。
何度目かのやり取りで今度は丁度いいらしく、「ピンポーン」が聞こえた。
獣の目や鼻、口元がすっかり見える様になると、僕も何だか安心した気持ちになった。
やっぱり顔がわかるとこんなに違うものなんだねえ。
ようやく出てきた獣のまあるい眼が、意外とつぶらで愛らしいと思った。
獣が手鏡を僕に返そうとしたので、「いいよ!あげるよ!なんか気に入ってくれてるみたいだからさ。」と笑顔で言った。
すると、獣はちょっとばかり困惑した様子を見せたが、僕からの贈り物という形を理解すると、毛だらけの脇の下から何か取り出した。
そして、手のひらに乗せたそれを僕に見せてくれた。
「ん?何?」
勧める様に見せるそれは、キラキラと光る赤い大きな宝石だった。
「えっ?何?これ?僕にくれるの?」
そう尋ねると、獣はうんうんと嬉しそうに頷いた。
わ〜!綺麗…だけど…これ、もらってどうするよ?
さっきの人魚の金色の髪飾りもそうだけど、換金出来ないじゃん!
どうすんのさ?こんなのもらって?
困るの自分じゃんか?
僕は心で激しく葛藤した。
そして出した結論は、さっきと同じ、「もらうのを辞退する。」だった。
「ごめん、気持ちはありがたいんだけど…僕、前髪切ってあげただけだし…こんな高価な物受け取れないよ。それに、これ、君の宝物なんでしょ?じゃあ、なおさらもらえないよ。大事に持ってなよ!ねっ!」
断ると獣はあからさまにしょんぼりした態度をとった。
「ごめん!ごめんよ!気持ちだけもらっておくから。じゃあ、僕はこれで。」
それだけ言って、獣の側から歩き出した。
すると、どういう訳か、僕の後ろを獣がついて来た。
最初は嫌だなあと思ったけれど、前髪を切った僕を慕ってくれているのかと思うと、邪険にすることもできず。
結局、男か女かもわからないでっかい獣と一緒に、山を歩きキャンプできる場所を探し求めた。
「あ〜、腹減ったあ。ねえ、もふも腹減ったかい?」
ついて来ちゃった獣に僕は、「もふ」と言う名前をつけた。
歩きながら、色々もふに質問をぶつけてみると、「ピンポーン!」と「ブブ〜!」が返ってくるので、それとジェスチャーを合わせて使うと、案外意思疎通ができるとわかった。
だが、家族構成や年齢などプライベートな質問はあえて避けた。
こちらもあれこれ根掘り葉掘り聞かれるのは、僕も面倒だし苦手だから。
辺り触りのない「お腹空いたね?」とか、「天気いいね。」ぐらいの他愛のない会話で十分だった。
だけど、獣と話すのにどうしても呼び方だけは重要だったので、色々な名前を出して獣から承諾を得た「もふ」と言うのに決めた次第。
「この辺りはどうかな?」
僕の提案にもふは大きく頷いてくれた。
人魚の時に一度火を起こしたので、今回は割とすんなり出来た。
「バーベキューコンロ…いいわあ、これ…。」
僕の独り言の様な発言に、もふはいちいちちゃんと首を激しく上下に振って「そうだね!そうだね!」とばかりに返事をしてくれる。
家を出る時は「1人で!」と意気込んでいたけれど、こうして「連れ」ができるとそれもまたいいもんだなあと感じた。
初心者の僕は家で塩むすびを7〜8個握って、後はバーベキューか天ぷらをするからいいやと決めて来ていた。
お肉や野菜の他に、ウインナーやお餅など、万が一「遭難しても大丈夫」な様に、食料や飲み物は多めに持って来ていて良かったと思った。
火から目を離すと、いつの間にか辺りが暗くなって来ていた。
「夜の入り口ってとこかねえ。」
僕はいい具合に焼き上がって来た肉をもふのお皿に入れようとしていると、「そうだねえ、なんかロマンチックだよねえ。」とちゃんとわかる言葉が聞こえた。
「えっ?もふ、君、喋れるの?」
「の?」まで言いかけてふと横を見ると、いつの間にか3〜4人の小人。
まさしく絵本なぞに出てくるまんまの、とんがり帽子を被った小人だけどヒゲが生えているからおじさんか、おじいさんといったところだろうか。
「えっ?ちょ、ちょっと〜!なんですか?あんた達、勝手に…しかも、僕たちのお肉まで…。」
僕の怒りを無視して、小人達は勝手に僕らの食糧を一緒に食べ始めちゃっていた。
「ちょ、ちょっと!」
「まあまあ、いいじゃないの、ケチくさい男だね…ほら、俺らのも分けちゃっからいいんでしょんが!」
小人の1人がガサゴソと自分の肩掛けバッグの中から、チーズやパン、ベーコンなどを取り出し、勝手に焼き網に乗せると、焼き上がったそばから僕やもふに「食べれ。」とくれるのだった。
僕は複雑な気持ちでいっぱいだった。
気配もなくいつの間にか勝手に僕らのバーベキューに参戦し、自分達の食材も提供してみんなで一緒に仲良く食べようというこの感じ。
最初は僕ももふも随分腹が立ったし、戸惑ったけれど、彼らの愉快な会話やフレンドリーな雰囲気に呑まれ、いつしかすっかり苛立ちなどいなくなった。
火を囲む全員の腹が膨れ、彼らが持ち寄った「葡萄酒」が振る舞われると、宴もたけなわとなってきた。
食べ物がなくなると、小人の1人がバッグからギターの様な楽器を弾き始め、それに合わせて違う1人が歌い出した。
僕ともふは初めて耳にするテンポのいい曲に合わせて、手拍子を打った。
炭火を囲んだちょっとしたキャンプファイヤーが、妙に心地よかった。
愉快な時間の中、僕の脳裏に子供の頃読んだ本の挿絵が浮かんできた。
森の奥で暮らしている働き者の愉快な小人達の食卓の場面も、確かこんな風にパンやチーズ、ベーコンにりんごなどのフルーツ、パウンドケーキの様な焼き菓子に、大きな鍋にスープ、それに葡萄酒などがテーブルいっぱいに乗っかっていたものだ。
宴が終わりをむかえた頃、小人ともふは火の近くでいびきをかいていた。
キャンプに来てから驚くことばかり続いている僕は、今、目の前の小人ともふ、それに昼間会った人魚のことなどが未だ信じられず、興奮してとても眠れる状態になかった。
そんな中、起きていた「長老」の様な小人が僕に話しかけてきた。
「若いの…なんだかすまなんだなあ…勝手に押しかけてしまって…。」
「あ…いや…全然…むしろ楽しかったです、ありがとうございました。それに、あのパンやベーコン、後、そうそう、葡萄酒、初めて飲んだけど、美味しかったなあ。」
「そうか、そうか、そりゃ良かったわい…。」
暗くなった森の頭上に満点の星空。
全く静かではなく、微かに虫の声が聞こえ、遠くにチョロチョロと小川の音も。
「なんか…いいなあ…。」
「そうかね…。」
「はい、僕は普段人が割と沢山いるところで暮らしてるから…こういう静けさみたいなのがなんだか新鮮で…。それに、あなた達とも知り合えたし…。」
「…。」
「本当は僕、1人でキャンプを満喫してやるぞ〜!って思って来たんですよね。でも、昼間は人魚さんとか、ここにいるもふとかに出逢っちゃって、そして、あなた達でしょ…今日はこういう日なんだなあって…。」
「そうかね…そうかね…ところで、若いの、名はなんと?」
「ああ、僕ですか?僕は、山谷ケンジです。」
「ケンジか、ほう、そうか、そうか…あ、こりゃ失礼、まだ名乗ってなかったかのお…わしは¥$#、そんでな、これは@+*、そして、そっちに寝とるのが?〉『、お前さんの連れによし掛かって寝とるのが※≠“よ。」
「…はあ…そうですかあ…。」
またしても誰1人として名前の発音することが、できない僕だった。
「長老」は自分達の暮らしをベラベラと僕に教えてくれた。
彼の話を聞いているうちに、僕はいつしかウトウトと船を漕ぎ始めていた。
ガクンと首が前のめりに落ちた時、ハッと目が覚めた。
炭火はいつの間にか消えていたけれど、もふも小人達はちゃんと消えてはいなかった。
それがなんだかくすぐったいような嬉しさで、僕はブルっと身震いをすると彼らを起こさぬ様そっと離れた場所に移動した。
チョロチョロチョロチョロ。
丁度いい木の側で用を足していると、いつの間にかもふや小人も並んで用を足している。
うっすらと空が白み始めていた。
昨日の夜あれだけ飲み食いしたけれど、目覚めて用を足し終わると妙に腹が減っていた。
僕だけがそうな訳じゃない模様で、元の場所に戻るや否や小人達が手際良く火を起こし、朝飯の支度を始めた。
彼らは小さいプライパンで人数分の卵を焼いた。
僕は持って来た切り餅を焼き網に乗せ、醤油と海苔を用意した。
もう1人がせっせとリンゴの皮を剥き始め、もう1人は全員のコップに沸かしたコーヒーを注いでくれた。
カッコウの鳴き声やカエルや虫の声。
森の朝は案外賑やか。
昨日知り合ったばかりの面々は、特に会話もないまま、けれども険悪な雰囲気とは程遠い穏やかさで出来上がった朝飯をそれぞれ食べ始めた。
僕はこんな朝もいいなと感じた。
食べ終わると小人達は仕事があるからと、笑顔で立ち去って行った。
僕ともふは彼らの姿が見えなくなるまで、手を振って見送った。
「さて、片付けよっか!」
僕ともふは出した道具類を丁寧にリュックと大きなバッグに詰め込むと、ゆっくりと森の奥へ歩き出した。
もふはもう僕と一緒に行くと決めているらしく、重たいバッグを肩からかけて持ってくれた。
そんな優しさが妙に嬉しかった。
「あ、そうそう、あの小人さん達、あんなもんで喜んでくれていかったね。」
もふも僕と同じ気持ちのようだ。
「あんなもん」とは、人魚の鱗のこと。
昨晩の食事が終わった後、ふとビニール袋に入れっぱなしだった濡れたTシャツを乾かそうと取り出した時、それにくっついていたキラキラ光る虹色の鱗を見た彼らが欲しがったのであげた。
「そ、それは…。」
「ああ、これですか?昼間、人魚さんに貸してあげてたTシャツなんですけど…濡れちゃってるもんだから重たくて重たくて…それにこのままだと色々アレな感じになっちゃうでしょ?臭くなったり…だから、折角の火で乾かさない手はないかなあと思って…。」
僕がそこまで話すも、彼らの興味の「それ」はTシャツではなく、Tシャツにくっついていた人魚の鱗のことだった。
「いやいや、これじゃよ!これのことじゃ!」
長老が指で指し示した先に鱗。
僕は最初それに全く気づいていなかった。
「あ、これ?あれ、いつの間についちゃったんだろ?」
そう言いながら鱗を取って長老に渡すと、「これ、もらってもいいのかな?」と聞かれた。
「ああ、いいですよ!いいですよ!」
「そうかい、ありがとう、ありがとう若いの…この人魚の鱗は、それはそれは凄い代物じゃてなあ…。」
僕にはその価値がわからなかったが、彼らにとってはかなりのものらしい。
もしかして何か魔法とか使える様になったり、僕の想像もつかない程の何かしらの力があるとかなのかなあ?
僕の中に一瞬いやらしい「欲」が芽生えた。
そうなると易々と手放すのが惜しいと思った。
「あ、あの…それって、あの、どういう…感じの…凄さなんでしょうか?」
恐る恐る長老に尋ねると、「ああ、これかね、これは…。」
ここまで言うと長老は「ため」に入った。
僕は唾をゴクンと飲み込んだ。
「これは…。」
そう言うと長老はギターの様な楽器を手にし、人魚の鱗で弦をポロンと鳴らした。
「こう使うんじゃよ。」
それなら僕も十分知っている。
なんだ、ピックってこと?
僕の脳内に激しいガッカリ感が広がった。
「え…あの、あの…これ…これだけですか?」
「ん?」
「いや、だから、そういう使い方だけってことですか?その、なんだ、魔法とか…上手く言えないけど…なんつうか、そういう感じのアイテム的な…。」
長老はポカンとした表情のまま、ギター風の楽器を人魚の鱗でポロンとした。
「あ…そ、そうなんすねえ…そっかあ…そういう風に使うのが正解ってことなんですねえ…はあ、わっかりました。はい。あの、どうぞ、どうぞ、僕、持ってても仕方ないんで。良かったら、あの、どうぞ。」
「そうかね。」と言わんばかりに、長老は引き続きポカンとした表情のまま、ギター風の楽器を人魚の鱗でポロンと鳴らした。
僕は自分の欲深さがなんだか恥ずかしかった。
その恥ずかしさは、思わず胸と股間を手で隠しながら「こっち、見ないで〜!」と叫びたい様なものだった。
森を奥へ奥へと歩いていくと、水の音が大きくなってきた。
もふと共に音のする方へ向かうと、そこに滝があった。
2人で滝の上を見上げたり、滝壺の辺りの様子を伺ったり。
よくよく見ると、滝壺の近い場所に平な大きい岩が見えた。
「もふ、あそこに行ってみよっか。」
僕ともふは斜面を慎重に降りると、大きな岩のところに着いた。
滝の音でよほどの大声を出さないと話なんて出来やしなかった。
2人で休憩のおやつタイム中、滝の向こう岸から何か動く物体が見えた。
モグモグとおやつのどら焼きを口いっぱいに入れていたので、その物体の全貌がわかった時、僕は喉詰まりをしてしまった。
「ん、ぐぐっ…。」
心配したもふがコップの水を差し出し、「大丈夫?」と言わんばかりに背中を優しくトントンと叩いてくれた。
僕がそんな状態になるほどびっくりするのも無理がなかった。
だって、目の前にまたしても伝説っぽい馬が現れたから。
真っ白いその馬は、ユニコーンの様な角もあるけど、ペガサスの様な翼も生えていた。
僕らに気づいたその馬が、ふわっと飛んでこちらに舞い降りた。
こんな近くに来られてしまい、僕ともふは驚いてのけぞった。
あまりに美しいその馬から目を離せず、僕らはただただまだ口の中に残るどら焼きをモグモグさせながらのけぞり、じっと馬の様子を伺うのが精一杯。
「こんにちは!」
馬が喋った。
馬が喋ったよ。
まさかの事態に、僕は言葉が出てこなかった。
「まあ、あなた、お口が聞けないのかしら?」
僕は慌てて声を出した。
「ああ、すみません、ちゃんと、ちゃんと喋れますから…あの、びっくりしちゃって…それにどら焼きが喉に詰まっちゃってたし、まだ、口に残ってたから…。」
僕はなんで馬に言い訳をしているんだろう?
どこか冷静な部分がそう思っていた。
「そう、それじゃ仕方ないわね。」
馬はなんだか上品な印象。
「あなた、この辺の人じゃないわね。」
こくんと頷くと、馬は更に続けた。
「名前は?」
「あ、僕は山谷ケンジと言います。こっちは…。」
僕はもふをチラリと見た。
「こっちの子は本当はなんて名前かわからないんですけど…僕が勝手にもふって呼んでて…この子もそれが気に入ってくれてるみたいで…あの、あ、あなたはなんてお名前なんですか?」
馬はハッとした様子で慌てて答えた。
「ああ、ごめんなさいね、自分から名乗りもせずにいきなり名前を聞いちゃったりして…私はペガコーン。」
へ?
ペガコーン?
ペガサスとユニコーンが混じって、ペガコーン?
あれ、なんだろ?
なんかとうもろこしを使ったスナック菓子の様な…。
意外な名前に僕はニヤニヤしてしまった。
「どうされました?」
ペガコーンはいきなりニヤニヤ笑い出した僕が気になった模様。
「あ、いや、あの…ペガコーンさん…なんですね。あの、どうも、初めまして。」
「初めまして。」
急な挨拶が妙な空気感を生み出していた。
何を話したのかよくわからないけれど、ペガコーンと仲良くなれたのは「食べませんか?」と差し出したどら焼きが良かったんだと思う。
「梅屋」の梅どら焼きは、ペガコーンやもふの口にも合う様だ。
「これ、美味しい!」
「でしょ!ここの梅どら焼きは中に甘く煮た梅の身が入ってるんです。それがこし餡と皮と絶妙にマッチして、大人気なんですよ!お昼前に売り切れちゃうこともあるから、買いたい時は朝早くから行かないといけないんです。」
「へ〜え、そうなのねえ。」
話しながら僕は、目の前のペガコーンやもふが、「人の暮らし」や「街の様子」を知っているのか不安になったが、彼らはそんなことを気にする様子もなく、ニコニコと嬉しそうにしているのだった。
そんな柔らかい雰囲気が、僕にはとても心地よかった。
甘いものを食べたらしょっぱい物も食べたくなるので、僕はリュックから筒箱のポテトチップスコンソメ味も出した。
ペガコーンももふも、ポテトチップスの美味しさに感動している様だった。
美味しそうに口をモグモグさせている姿を見ると、僕も何となくいい気分でいられた。
「ああ、美味しかった、ご馳走様でした。本当にどうもありがとう、ケンジ、もふ。あなた達に何かお礼をして差し上げたいわ。」
「えっ?」
僕は心でまたかと思った。
戸惑っている僕を見たペガコーンは、「良かったら、二人共私の背中に乗りませんか?」と提案してくれた。
「え?ええ?いいんですか?でも、僕ら二人も乗れます?大丈夫ですか?」
どう見ても二人乗れる程の大きさじゃない。
僕だけならかろうじて乗れるかもしれないけれど、こんな大きいもふはどうかな?
僕の不安をよそに、「では、どうぞ!乗ってみて下さい。」とペガコーンが前足を折り曲げるとみるみるうちに体が膨らみ始めた。
さっきまでの通常サイズの馬ではなく、その倍もあるぐらい大きなサイズになった。
例えるならそう、路線バスぐらいもあるだろうか。
「これじゃ、乗りづらいかしら?」
そう言うなりペガコーンの体は更に変化した。
背中の部分が浴槽の様に凹み、中にベンチの様な出っ張りも出来ていた。
「ささ、どうぞ。」
もふの手を借り、僕はペガコーンの背中の席に腰掛けた。
まるで遊園地にある乗り物の様な快適さ。
そこに感動している間も無く、ペガコーンの体がふわりと上に上がっていく。
隣にいるもふも、嬉しさで興奮しているのがわかる。
僕も子供に戻った様な気分。
「さて、どこへ行きましょうか?」
ペガコーンに聞かれても、「あの、どこでもいいです…なんなら、ぐるっとこの辺りを一周りしてもらえるだけでも…。」と答えるしか出来なかった。
だって、この辺りは初めて来た土地だから。
上空から見下ろすと、今までいた場所がジオラマみたいに小さくなった。
ひんやりした風を体中に受けて、僕達は空の散歩を楽しんだ。
途中、渡鳥と同じ高さで飛んでることに気づくと、テンションが更に上がった。
「ひゃっほ〜!」
自分でもびっくりしちゃう声も出た。
昨日に引き続き、今日も快晴。
そんなのもテンションを上げる材料となった。
地球の形がわかる程の高さまで来ると、流石に寒くて僕はもふと抱き合ってしまった。
「そろそろ戻ってみる?それとも雲の王国に行ってみる?」
雲の王国?
初めて聞いた場所に、僕の興味は集中した。
と同時に「ソロキャンプ…。」と原点に帰った。
こんなチャンスは2度とないだろう。
そう考えると、僕の気持ちは固まった。
空の散歩を堪能し、少しばかり似た様な景色に飽き始めた頃、大きな入道雲が徐々に視界いっぱいに広がってきた。
「柔らかそう。」
僕の予想通り、入道雲の塊に突っ込むとなんとも形容し難い嬉しい柔らかさ。
石鹸の泡の様な中をどんどんと進んで行くと、急に目の前が開けた。
黄色みがかった眩しさに一瞬目が開けられなかった。
目が明るさに慣れてきたので、僕はそうっと下を見てみた。
そこにオレンジ色の屋根に真っ白い壁の可愛らしい建物が連なる街。
黄緑色が美しい森や丘。
キラキラと水面が光る青い湖らしい大きすぎる水溜り。
そこを起点とした細い川が数本。
様々な種類の鳥達や色違いのペガコーン達も飛んでいるのが見える。
僕の想像を超えた夢の様な世界。
目からどんどんと飛び込んでくる素晴らしさに、僕は自分でも把握しきれないパニックを何度も何度も寄せては返す波の様に繰り返していた。
「あ〜!ペガコーン!」
雲の王国を飛び進んでいると、どこからともなくペガコーンそっくりの馬が近寄って来ると、そのまま並行して飛び進んだ。
「ああ、ユニサス!」
へ?
乗せてもらっている間、ペガコーンから双子の兄がいると聞いていたが、それがこの馬なのだと知った僕。
ユニコーンのユニとペガサスのサスでユニサスって…ははは、なんだか、どっかの企業名みたいだなあ。
企業の名前とスナック菓子の名前みたいな双子の飛ぶ馬。
僕は愉快な気持ちでいっぱいになった。
2頭の馬がふわりと降り立った所は、「王宮」と手書きで書かれた看板が掲げられている、普通の、よくある民家だった。
築年数結構いってそう。
新しい家と言うよりも、友達の家の様な佇まい。
2階建てのそこは、「王宮」と言うにはあまりにもあまりにも。
それでも、嫌な気はしなかった。
「こんにちは〜!」
ペガコーンの背中から降りると、僕もペガコーン達と揃えて挨拶と頭を下げた。
「は〜い!いらっしゃ〜い!どうぞ〜!」
「王宮」の中から声がしたので、僕らはそれに従った。
ガラガラガラガラ。
よくある引き戸を開けると、これまたよくある玄関の形。
そこに立っているのは、一応王冠らしき金色のを被った優しそうなおじさん。
「ああ、遠くから来たのかい?疲れたしょ。まあまあ、とにかく入んなさい。」
おじさんに促され、僕らは部屋に通された。
長方形の座卓を囲むと、奥の台所からおばさんがお盆を持って笑顔で出てきた。
「あらあら〜、いらっしゃい。下から来たんでしょ?ここまで来るの遠かったでしょ〜、ゆっくりお茶でも飲んで。ほら、足崩して。遠慮なんかしなくていいからねえ。あ、そうそう、これ、良かったらどうぞ、食べてみて。美味しいんだから。」
お茶と一緒に差し出された醤油煎餅をいただくと、僕はホッとした気持ちになった。
正座から足を崩してあぐらに移った時、僕は履いている靴下の汚さに気づき、慌てて正座に戻した。
ペガコーンもユニサスももふも、すっかりリラックスしている様子。
それとは正反対に初めて伺ったお宅に緊張している僕。
なんでこいつらこんなにゆったりできるんだろ?
僕は不思議でしょうがなかった。
「王様」と「王妃」の話は、驚きと楽しさでいっぱい。
「や〜、さ、昔は俺らも下に住んでたんだけどもねえ…。」
そう言うと王様はすかさず片手で床を指さした。
「え〜!そうなんですか?」
「そだよ。したけど、いつだったか、竜巻に巻き込まれちまってさ、そんで気がついたらここよ。初めはびっくりして、どうにかして下さ降りねばって思ってたんだども、ここさ住んでる人らがさ、まあ、親切であれこれ世話焼いてけれてなあ。そのうち、いつの間にか俺らば王様って…最初は戸惑ったよ。戸惑って断ったんだどもなあ…。」
そこまで言うと、王様は顔を曇らせた。
すると、隣の王妃様が話を続けた。
「なんがねえ。んだけど、うちの父さんが謎解きやってみたのがきっかけっつうかねえ…つっても、なになにとかけましてまでしか言えないんだけどもね、その後のなんと解くとその心はが大事なんだどもねえ…できないくせに言いたがるから…そしたら、なんか知らないけど、ここの人にウケちゃって…そんで、まあ、こんな感じなのよね…。」
こんなにびっくりするほど、僕には全くわからない話だった。
「え〜!王様、王妃様、楽しいですよ!」
お茶をゴクリと飲んだペガコーンが話だした。
「え〜と、じゃあ、王様とかけまして、@:%*と解きます。」
すると、ユニサスがすかさず「その心は」と間に入った。
「#&)+。あははははははははははは。」
「何?それ〜!ギャハハハハハハハハ。」
ペガコーンとユニサスがいきなり爆笑。
僕と王様と王妃、それにもふは一瞬ポカンと彼らを見つめてから、合わせる形で無理に笑って見せた。
あれ?どうしよう?
全然わかんない。
何?ペガコーン達にはすげえ面白いの?
王様達が困惑した理由がはっきりとわかった瞬間だった。
「あんた、ケンジ君だっけか?あんた、泊まってくでしょ?2階さ布団敷いといたから、そっちのもふちゃんのも、そだ、あんた達、ご飯の前に風呂さ入っておいで。家の風呂でっかいからみんな一緒に入れっから。ほら、父さん、ケンちゃん達さ連れてってあげて。」
いつの間にか、僕は「ケンちゃん」と呼ばれている。
子供の頃を思い出す呼ばれ方。
なんだかくすぐったい様な感覚。
それが嬉しくて照れた。
あの「王宮」の玄関から真っ直ぐの廊下の先の扉から、地下に続く螺旋階段があった。
えっ?こんな感じ?
普通の民家の地下とは思えない、まさしく「王宮」っぽい雰囲気。
「階段滑るから、気をつけて。」
王様に言われるまま、僕は薄暗い階段を手すりを頼りにゆっくりと降りていった。
「ソロキャンプ」をするつもりだったので、特にお風呂の道具は用意していなかった。
持って来たのは、せいぜいタオルの大小と万が一の着替えと手洗いのハンドソープ。
それを伝えたら、「ああ、大丈夫、大丈夫!うちのやつ、使って!そだ、ケンちゃんはブラシかい?こういうタオルかい?」なんて、地下を降りる前、王様から体を洗う用のタオルをいただいた。
階段を降り切ると、広い脱衣所があり脱いだ服などは入浴中にすっかり洗って乾かしてくれるとのこと。
「え〜!いいんですか?」
「あ、うん、したって、ここの雲、それ用のやつだから。」
えっ?
雲の王国のここの雲は、洗濯用だと。
風呂の洗い場には髪を洗うシャンプーの雲と、体を洗う石鹸の雲があると。
「たまに、間違って逆をやっちゃうんだよなあ。ケンちゃんも気をつけなよ〜!石鹸の雲で頭さ洗ったら、後で髪の毛キシキシ大変だから。逆にシャンプーで体洗えば、なんだか流した後ぬるぬるってのか、なんか塩梅悪いんだよなあ。はははは。」
あ〜、わかる。
僕もたまにそういう間違いやっちゃう。
王様の「親戚のおじさん感」が、いいなあと感じる。
もふはそもそもお風呂に入るのが生まれて初めてらしく、僕と王様で手伝う形となった。
聞いていたとおり、お風呂は大浴場だった。
昨日入らなかっただけだけど、僕はお風呂がこんなにもいいもんだと改めて知った。
僕ともふと王様の他に、ペガコーンとユニサスも一緒に入った。
彼らは雲のふわふわした泡に飛び込む形で、上手に体を隅々まで洗っていたのに感心してしまった。
でも、どうしても痒い部分は、僕か王様に「かいて!」と頼んできた。
そういうのもまた「おつ」だなあと感じた。
大浴場でゆったりとお湯に浸かると、僕は自分の体が冷え切っていたんだと実感。
やっぱりずっと外にいたからなあ。
風呂から上がると、脱衣所のマッサージチェアを使わせてもらった。
それと冷たい瓶のコーヒー牛乳をご馳走になった。
こんなのは久しぶりだった。
晩御飯はよくある「お母さん飯」
油揚げと大根の味噌汁、肉じゃが、刺身の盛り合わせ、ほうれん草のおひたし、みかんの缶詰入りのポテトサラダ、筑前煮、きゅうりとわかめの酢の物など。
美味しい家庭の味が、妙に沁みた。
と、同時に、ここ、雲の上だけど、この食材とかどうしているのかものすごく気になった。
「あの〜…。」
「ん?おかわり?」
「あ、はい。」
僕はお茶碗とお椀を手渡した。
「すいませ〜ん。」
「なんも、遠慮しない。ねっ!そら、もふちゃんもおかわりかい?ペガちゃんとユニちゃんは?いいの?」
僕は口の中に何もなくなったのを見計らって、王様に聞いてみた。
「あの〜…この食材とかって…どうなさってんですか?」
「ああ、これかい?これは…あれ、母さん、どこで買ってんだっけか?」
「ん〜?何?」
「ケンちゃんがこれらどこで買ってんの?って…。」
「ああ、小人んとこの移動スーパーよ。」
「えっ?」
「小人の…ケンちゃん、知らないか…あんね、ここに下から小人の移動スーパー来んのよ…そっから買ってるってのか、ここの雲と交換なんだけどもね…。」
「小人って、小人って…ぼ、僕、昨日の夜、会いました!会いました!」
「そう。」
「ええ、そんで、僕ともふと焚き火でバーベキューしてたら、勝手に入って来て…でも、一緒に色々食べたり、歌とか踊りとか楽しくって…。」
頭が混乱して興奮状態の僕は、こんなにも説明が下手なんだと思い知った。
「あの人らがね、こういうの全部工場で作ってんの。自社製品っての?ものすごいこだわりでね。材料から作り方まで一生懸命やってんだよねえ。」
「へ〜、そうなんだあ。」
僕は小人達の「仕事」が何かわかって、驚くやら感心するやら。
「あれ、確か明日来る日でなかったべか?移動スーパーっつっても、下にある本格的な大きいスーパー程の広さだから、なんでもあんのよ。食品からトイレの尻拭き紙だの、洋服だのこういう家具だの。」
王妃様は身振り手振りでエキサイティングに教えてくれた。
王妃様が身につけている真っ白くてきちんとのりがきいた割烹着も、そこのものなのだと。
体も綺麗に洗って、お腹も膨れた僕ともふは、並んで敷いてある2階のお客さん用のフカフカの布団に入ると、すぐに眠った。
僕の連休最終日、朝早く目が覚めた。
午前中は王様と王妃様の家事の手伝いをさせてもらい、お昼頃、ペガ達の背中に乗せてもらいみんなで移動スーパーへ。
話に聞いていた通り、移動スーパーというには随分立派な建物。
へ〜えと僕はキョロキョロしてしまった。
店内であれこれ買い物に付き合うと、あの小人達にまた巡り会えた。
王宮に戻り、お昼のそうめんをいただくと、僕は帰ると伝えた。
「あら〜、そうかい…また、おいでえ。父さんとペガちゃん達と待ってるから。」
「あ、はい、ありがとうございます。」
そう言いながらも、心でどうやってまたここに来ればなんてことを考えていた。
「父さん。」
「おお、そうだ、そうだ!ケンちゃん、これさ使え。」
王様から手渡されたのは小さな家用っぽい鍵。
「?これは?」
「ああ、これは鍵だんだども…って見ればわかっか…ははは。」
王妃様が王様の肘を小突いた。
「ああ、すまん、すまん。これはな、ただの鍵ではないんだ。」
「えっ?なんです?」
「ああ、その、なんてのか、行きたい場所さ頭で思い浮かべるべ、すたらよ、こう、ドアの鍵穴さ差し込むみていな仕草さすれば、あっという間にそこさ行けんのさ。」
「ええ〜っ!」
僕が声に出せたのは、それだけ。
後は脳内が勝手に喋った。
嘘だろ〜!え〜っ!マジか?今度こそ、本当のマジックアイテムってか?え〜っ!こんな夢の様な道具、嬉しい〜!マジで嬉しい〜!そして、便利〜!
「あ、ありがとうございます。大事に使わせていただきます。」
「あ、そうそう、それ、何回でも使えっから、ここさも、いつでも来い!なっ!待ってるから。」
王様の温かい言葉に、僕は涙が止まらなかった。
「ありがとうございました。また、また必ず来ますから!今度は、お土産持って来ますから。」
「なんも、そんなのいいって。ケンちゃんが来てけれればいいんだ。なあ。」
そこにいた王妃もペガコーンもユニサスも、そして、そのままここに残ることになったもふもみんな、笑顔で頷いた。
「ふ〜。」
僕は大きく深呼吸をすると、頭の中で自分の部屋を思い浮かべた。
目を閉じたまま、もらった鍵を回す仕草をする。
何か移動している感覚など、何もなかった。
鍵を回す前と全く同じ感覚。
疑い深く僕はそっと目を開けた。
すると、そこは見慣れた僕のアパートの玄関。
「帰って来たんだ…そっか、そっか…。」
つい今しがたまでの出来事が、たった2泊3日の出来事がなんだか妙に懐かしくて、遠い昔の様に感じられた。
それから僕は普段の生活に戻った。
だが、やっぱりあの2泊3日が忘れられず。
給料日になると、僕はあの鍵を回した。
あの川の人魚には天ぷら粉と唐揚げ粉などを。
雲の王国のみんなにも、大したもんじゃないけれど下界で見つけた美味しいものなどを土産にした。
そのうち、僕は自分のアパートの物を少しづつ減らしていった。
そして、ついにはアパートを引き払った。
仕事を終えると、あの鍵を回した。
天涯孤独の僕に、雲の王国という「実家」ができた。
「ただいま〜!今日のご飯、何〜?」
最後までお読み下さり、本当に本当にありがとうございました。
拙く読みにくい文章も多々あると思いまずが、一生懸命書きました。
久しぶりの作品ですが、私なりに頑張りました。
他の作品もどうぞよろしくお願いいたします。
本当にありがとうございました。