喰われロ
「きみ、これ落としたよ」
この時東武東上線の新宿駅に勤めている新井信二は、新宿駅構内の見回り中だった。東武東上線のホームを歩いているときだった。一八時四三分高崎行の電車からホームへ降りてくる学生まじりの集団の中で、背中をぶつけた拍子に少年のポケットから何かが落ちてくるのが見えたので、拾って渡そうとしたのだ。
「ああ、拾ったんですね。それを」
少年はなんてことないようにそれを受け取った。
(なんだこれは?)
新井はさっきまで自分の手にあったものに初めて違和感を持った。少年が「それ」と言ったものは、なんなのだろうか。少年はそれをジャンパーのポケットに入れた。
「うるさい!今それどころじゃないだろうが!」
少年はいきなり大声で自分の左肩に向かって叫んだ。
(うわぁ、よく見るなこういう奴)
新井はJRの職員になってからこういう人間に絡まれることが多かった。新井にとって電車は憧れだった。幼い頃から親戚の間で「しんじくんはでんしゃがすきなのね」と評判で、小学校の頃は夏休みに電車を乗り継いで一人、出身地である北海道の全路線に乗って地元の新聞で取り上げられたこともある。そんな自他ともに認める鉄オタだったので東京に出てくるときには、とにかく電車と毎日のように接することができる職業に就職できて幸せだった。だが待っていた東京での仕事は苦痛だった。駅員の仕事の大半が乗客同士のトラブルの仲裁だったからだ。このあいだなどは、大のおとな二人がいきなり駅室に入ってきて、話を聞いたら満員電車の中で押し合いになり、「こいつが押してきた」と双方が言い張って最終的に「駅員にどっちが押したか聞こうじゃないか」ということになったのだそうだ。
もうさんざんだ。新井はどこかでそう思い始めていた。たしかに幼い頃に見た駅員は頼りがいのある姿に感動し、「僕も大きくなったら駅員さんになろう」と心に決めた。だが実際はどうだ。この職についてやりがいを感じなかったことはない。お客様を毎日こうして時刻通りに運ぶことは、このJRにいる全員が存在しなければ成しえない仕事なのだ。だがどうだ。この仕事についてからの自分は。本当にこんなことをしなければならないのかを考える日々じゃないか。
新井は少年に向い直した。あの時、自分が憧れた駅員さんのように頼りがいのある大人にならなくてはならないと思いなおしたからだ。この少年もきっとなにか聞いてほしいのかもしれない。
「どうしたんだい?なにかあったのかい?」
新井が優しく声をかけると、少年はハッとこちらを振り向いた。
「見えるの?」
少年はこちらを見た。おかしい。なにかがおかしい。そうだ。目がおかしいんだ。さっきからこちらを見てくる目は、人間の目じゃない。
「見えるの?」
再度聞いてくる。周りの喧騒が遠くのほうで聞こえる。少年の目から視線を逸らすことができない。さっきまで響いていたアナウンスが聞こえなくなっている。
「嘘つき」
少年の声色が急に変わった。なぜだ?どうしてだれもこの異常に気が付かないんだ?さっきまで少年だったのに。今はまるで…
「うそつきは、喰われロ!!」