プロローグ
恐らくは……搭乗していた飛行機が落ちたのだろう。
潮騒の音を聞きながら、俺はゆっくりと目を開けた。
うつ伏せの姿勢で、砂浜に倒れている。
スーツは海水でびしょびしょ。
いつから倒れていたのか、むき出しの手の甲や首筋は、陽の光に焼かれてヒリヒリと痛む。
「ぬう……ぐぐむむむ」
我ながら形容しがたい声を出しながら、体を起こした。
びしゃびしゃと、水が零れ落ちる。
膝から下はまだ海の中。
良い感じにふやけてしまっていた。
革靴は……あー、これはいかんな。もうご臨終だ。
いや、乾かせば使えるか?
立ち上がる。
痛いところ、動かなくなっているところをチェック。
うむ、問題なし。
奇跡的に、俺は無傷だった。
すぐ横には、海水に塗れた愛用のバッグ。
出向先に提出する書類や、PCが入っていたが、まあお陀仏であろう。
「よし、よしよしよし。命があっただけラッキーだった。ついてる、ついてるぞ、俺は」
ぶつぶつと呟いた。
近年、長時間労働低月給という長年務めた会社を辞し、運よく外資系の会社に転がり込んだ俺である。
いきなり中東支社への出向という条件だが、給料はいいし、住居の近くは塀で覆われていて治安も心配なし。メイドさんまでついて、現地の言葉だって学べると言う条件。
田舎の両親兄弟の他は、疎遠になった友人くらいしかいない。
趣味は屋外でダラダラすること、という俺にとって、転職先が出した条件は実に魅力的だった。
……ということで、勇み、飛行機に乗り込んだのだが……。
「おお……ヤシの木だこれ……。間違いなく南国だわ、ここ」
強い日差しを避けて、手近な木陰に転がり込んだ。
すると、何か硬いものが尻の下にいる。
「なんだ?」
尻の下で何かがモゾモゾと動く。
「うひゃあ!?」
慌てて俺は起き上がった。
そろそろ不惑が見えてきた年齢としては、褒められるくらいの機敏さで木陰から転がりだす。
俺の尻の形に濡れた地面と、その中央で巨大なハサミを掲げて威嚇してくる、ザリガニみたいな生き物。
「うっわ、ヤシガニじゃねえか。生まれて初めて見るわ……」
ヤシガニ氏、俺の尻に敷かれてしまったことを、大変お怒りである。
俺がそろりと木陰に近づくと、『もがーっ』とハサミを振り回して威嚇してくる。
迂回しようとしても、俺の方に向かって駆け寄ると、再び『もがーっ』と威嚇する。
ヤシガニってこんなに俊敏だったっけ……?
仕方なく、俺は木陰に入ることを諦めた。
「いや、待て俺よ。あんなハサミでつままれたら、俺は大変な事になっていたぞ。俺はラッキーだ。ついてる、ついてる……!」
自分に言い聞かせるように呟く。
すると、気持ちが楽になって来た。
前の職場で精神的にやられていた時、ネットで見つけた精神を高揚させる方法だ。
これを繰り返し、大変ハイになったところで、辞表を叩き付けて有休を無理やり消化して辞めた。
効果は折り紙つきなのだ。
「日差しが強いのも考えようだ。服が乾くぞ。風邪を引かなくて済むじゃないか。よし、ついてる、ついてる……!」
ぶつぶつと呟きながら、木陰を求めて砂浜を歩いた。
歩けども、歩けども砂浜。
左手側にふと目をやると、そこは鬱蒼と茂った南国風の森。
「……あそこも木陰は木陰だが……。さっきのようなヤシガニがいないとも限らん」
安全な木陰を求め、俺の移動は続く。
砂浜は緩く円を描いていたようだ。
ヤシガニがいたヤシの木は見えなくなり、新しい砂浜が視界に広がる。
そこに一つ、奇妙なものがあった。
あれは……コンテナ……?
「なんだ、こりゃあ」
砂の上を、ぺったぺったと走って近づいてみる。
それは木製の、それなりに大きなコンテナだった。
書かれている文字が、日本の字じゃないな。
中継の空港で積み込まれたんだろうか。
あそこも南国だったが、聞いた事の無い国だったしな……。
「よし、食料が積まれていれば御の字だな。どれどれ」
俺は木箱をペタペタと叩いて回った。
しっかりと箱には鋲が打たれており、簡単には開きそうに無い。
さて、何かこじ開けるものはあるだろうか……なんて考えて、ぐるりと箱を一周した。
「……穴が空いてるじゃないか」
ちょうど、俺が見た箱の裏面に、結構大きな穴が空いていた。
いや、ちょっと見ただけでは分からない。
何せ、箱の壁を切り抜いて、また嵌めなおしたような状態になっていたからだ。
これ、どういう構造になってるんだろうな。
コンコン、とノックしてみる。
中は中空……。
「~~~~!」
コンコンッ!
うわっ!!
ノックが返って来た!!
俺はまた、不惑間近の男とは思えぬ機敏さで、木箱から飛び退いた。
「何だ……? ど、動物を運んでいた箱……?」
ビックリし過ぎて、動悸が激しい。
深呼吸、深呼吸だ。
「待て、待て待て俺よ。見知らぬ場所で、今俺は一人だ。そして、この中には動物がいるかもしれない。ペットか何かがいた方が、一人よりもよほど心安らぐと思わないか? そうだ、そうだろう? ついてる。俺はついてるぞ……!」
必死に自分を説得する俺である。
だが、コンテナの中にいる何かは、俺の落ち着きを待ってはくれなかった。
「な────!!」
とか掛け声が聞こえたかと思うと、穴を塞いでいた部分が、内側から蹴り破られたのだ。
「うわ────!!」
「ぴゃ────!?」
俺は心臓が止まるような気持ちになって絶叫したら、俺の声にびっくりした向こうも絶叫してきた。
しばらく、うわー! ぴゃー! とか叫んでいる。
やがて叫び疲れて俺が尻餅をつくと、向こうも静かになった。
恐る恐る、と言った様子で、木箱の中から顔を出す。
「……お、女の子……?」
木箱の中に、年端もいかないような女の子がいたのだ。
赤い髪に、褐色の肌。
大きな目をいっぱいに見開いて、こっちを見つめている。
明るいブラウンの瞳が、くりくりと動いた。
そして、彼女は俺に向かって、満面の笑顔を向けるのだった。
かくして、俺と彼女による、この奇妙な島での生活が幕を開けたのだった。