3-1
7月22日朝8時30分。この日テオは少し遅めに起床した。まだ見慣れない天井のある自室のベッドの上で目を覚ますと体を起こし洗面所へと向かう。
冷たい水で顔を洗った後、左手に歯ブラシをとり歯磨きをする。もともと右利きであるテオが左手で歯ブラシを操る理由はその姿を見ればすぐに理解ができる。
首の後ろを通し吊り下げられた白い三角の布、テオの右腕はそこに静かに収納されている。
鏡に映るのはひどい寝癖でまだ眠そうな気だるげな表情を浮かべるテオの姿。多少不慣れさを感じるものの左手で丁寧に歯を磨いている。
シャカシャカと小気味よい音が眠気をより一層かきたてながら、呆然と鏡を眺めていると少し余裕のある右隣に小さな人影が並ぶ。
「おはよう」
赤みがかった茶髪の小柄な少女、名前はミア。先日ゴーレムに襲われていたところを助けてからともに生活している。
「おはよう」
挨拶をするとテオはなんとなく横目にミアの様子を覗いた。
彼女にはテオと同じく不思議な能力がある。『全能の魔女』。彼女は火・水・風・雷・土・光・闇、本来ならば一人につき1属性しか扱うことの出来ない7つの属性を全て扱うことが出来る。
これは彼女の父が研究していた錬金術の1つだという。そしてそれこそが彼女がゴーレムに襲われていた理由である。
テオにとってミアの能力のことは他人事ではない。テオの持つ能力『魔術喰らい(マジックイーター)』もまた錬金術の1つだと言うのである。だからこそミアの父は研究の中でテオのことを知っていて、自分の命の危機を知ると娘を託したのだ。
隣に立ち自分と同じかそれ以上に気だるげでやる気の感じられない表情を浮かべた少女。顔も洗わずに歯を磨き始めた彼女はそんな境遇にありながら何を思い、何を考えているのだろうか?
ミアはどこを見ているわけでもなくぼんやりと鏡の中に視線を投げたまま突然声を発する。
「昨日のあれはどういうことだ?」
「?」
いきなりの問いかけでテオにはミアの質問の意図を理解することが出来なかった。
ミアは隣につっ立ったまま疑問符を浮かべているテオを横目に見る。
テオを目の端で、しかし真っ直ぐと捉える力のこもった視線。質問の意図は理解出来ないままだが1つ、テオに理解できたことがある。
「もしかして怒ってるのか?」
テオの発言にミアは歯ブラシを咥えたまま手を止め眉間にしわを寄せる。
口にしてから『しまった』と思った。ミアのことを感情表現が薄いと思っていたからつい口にして確認してしまった。
しかし、ミアが怒っていることがわかってもどうして怒っているのかはテオにはわからなかった。状況からして怒りの矛先はテオに向いているのだろうがその原因がわからない。
昨日といえば朝食にミアお手製のチキンカレーを食べ、黒猫7匹の面倒を見、ゴーレムの2度目の襲撃を受けた。
結果を言えばテオもミアも無事、襲撃犯はまたしても姿を見せず。戦い自体はテオにとって大きな経験値ともなったが非常に苦いものだった。『オレが守る』そう誓った手前テオ一人で何とかするつもりだった。なのにミアに命を救われた。
ミアがもし襲撃を受けた件で怒っているとすれば自分が頼りなかったことだとテオはそう思った。
ミアの目を真っ直ぐに見るには勇気が足りず鏡越しにミアの喉元を見て言葉を零す。
「その、昨日は助けてもらって悪かった。オレが何とかするって言ったくせに頼りにならなくて・・・」
自分で口にするとさらに情けなくなってくる。どう振り返っても自分が悪い。考えが足りてなかった、見通しが甘かった、認識が甘かった、何もかも知らなさ過ぎた。きっとレオナもこうなることを心配していたのだろう。
格好つけた相手に対して自分の力のなさを謝罪したことは心に深く傷をつけ今後の行動に枷をつける。自分を思って言ってくれた母の言葉の真意を知ると負った傷が深く心にまで傷をつける。
自身の情けなさにテオの顔は自然と俯き心は落ち込んでいく。
「ぶぉんばぼぼぉぶぃっぶぇぶぶんばぶぁひ!」
「はい?」
突然叫んだミアにテオは驚き顔上げる。歯磨きの最中に叫んだミアは口周りをべたべたにしていたが目は真剣そのものだった。
「とりあえず口をゆすいで周りを拭いてから喋れ」
ミアの真剣なまなざしに少し気圧されながらもテオは水の入ったコップを手渡しうがいをさせた。
ミアは口周りを片付け洗面台に飛び散った歯磨き粉と唾液を拭きながら、もう一度今度は静かに言いなおす。
「そんなことを言っているんじゃない」
静かででも周りの空気を制するような力のこもった声。またテオの抱いていたミアのイメージとは異なる姿。新しく知る彼女の姿にテオは息を呑む。
「私はあなたが一人で戦っていたことを怒っていたのだ」
また違う声音と表情のミアを見せられる。心配した時のレオナが見せたような温もりと後悔とが込められた表情。今のミアの表情を見ているとテオの心は強く締め付けられた。
「いや、でもあれはオレがミアを守るって約束したからだし・・・ミアだって『わかった』って言っただろうが」
心を締め付けられるのが落ち着かなくて早口になる。悪いことをしたわけではない、なのにまるで言い訳でもしているような気持ちにさせられる。
それでもミアはテオを責めるように言葉を強め、自分を責めるように顔を苦しそうにゆがめて言う。
「私は本当に腹ごなしに行くのだと思っていたのだ。ちゃんと言わねば伝わらないことは多く存在しているのだぞ。それに、私はあなたに『助けてくれ』とは言ったが『守ってくれ』とは言っていない!」
締め付けられた心が大きく弾んだ。
『オレは悔しい思いをしてる誰かのために戦う』戦いを繰り返すテオに対し心配するレオナに対してテオが話した戦う理由。だが、この理由もテオのエゴで自己満足なのだと頭を強く叩かれ思い知らされた気がした。
『なら、自分は何のために戦っているのか?』
誰かに感謝されたかったわけではない。誰しも上から押さえつけてくる大きな手を払いのけたいと思っているに決まっていると、その力の代わりをしてやろうと本気でそう思っていたわけではない。全てはテオのエゴで自己満足だった。
テオは思いたかったのだ。ゴミ溜めに座り込む彼らとは違う。高位の者の好きにされる彼女らとは違う。力ある者に怯えて暮らす人々とは違うのだと。
リアムとして生まれながら『魔術喰らい(マジックイーター)』という特別な能力を持った自分は特別なのだと思いたかった。
ただそのためだけに誰かを助けていたのだとしたら、自分が助けたと思っていた誰もが望んでいなかったとしたら、『魔術喰らい(マジックイーター)』に意味などなく自分が生きる特別な意味などないとしたら。
目に映る景色は色を失い心は暗く深い闇へと落ちていく。
洗面台に手を突き俯くテオの隣でミアがぽつりと話す。
「私だって自分の生まれた意味、自分が生きている意味を知らずに死んでいくのはごめんだ。」
ゆっくりとテオは俯いた顔をミアの声へと向ける。
そこには変わらず真剣なまなざしを正面に向けたミアが居た。ただその瞳は強さだけでなく不安や恐怖も孕んでいる。
「だけど誰かに全てを任せて甘えたまま運命から逃げるのはもっとごめんだ。私の運命のために誰かが傷つくことを私は許せない。それがあなたならば尚更だ」
そう言うとミアの視線はテオの体中に残る傷へと向けられる。
過食した魔力のおかげでゴーレムから受けた傷は一晩のうちにほとんど完治した。しかし、魔力の過食自体が原因の右腕と内臓は回復に時間がかかっている。魔力エネルギーが上手く作用しないのだ。
「その傷も私が初めからともに戦っていれば負わずに済んだかもしれないのだろう?」
ミアはひどく辛く申し訳ないさそうな表情を見せた。
その姿を見てテオは自分の思いあがりが招いたことで悩ませることを申し訳なく思った。
重たい空気が二人の間を流れ気まずさだけが時間を進める。
だがそんな思い空気も長くは続かなかった。
「なあ、どうすればこの傷は早く治る!?」
俯いていた顔を勢いよく振り上げながらミアはテオに質問をぶつける。その目は研究者の娘らしく好奇心に輝いている。
あまりの切り替えの早さにテオはあっという間に置き去りにされた。
テオはミアの勢いに呑まれながら過食が原因で出来る傷について知っていることを話した。
「・・・なるほど、つまり普通の傷と大差はないのだな」
「そういうこと、違いは魔力による治癒が効きにくいことだけ。基本は栄養と休息。今は魔力も治癒に使い切ってるみたいだから、出来ることなら少し喰らいたいとこではあるかな」
淡々と自分の体のことを説明するテオに対しミアはフムフムと相槌を入れながら真剣な表情で聞いていた。
「次はいつ襲われるかもわからないからな・・・」
思わず深刻な顔になった。ミアを狙うまだ姿も見ないゴーレム使い、その3度目の襲撃に向けた発言だった。
テオがしまったと思いミアの方を向くとミアは頬を膨らませこちらを睨んでいる。
「わかってるよ。今度は一人で戦わねえって」
『ならよし』とミアは満足げな表情を浮かべた。
「ならまずは栄養だな!」
ミアはフンと気合の鼻息を鳴らし髪を後ろで束ねた。
その気合の入れ方にテオは何か嫌な予感を感じていた。




