第一五話 月下
俺は何となくクローゼットからコートを取り出し外へ歩み出た。
千夜は俺が部屋から出るのを呆然と見ていたが少し遅れてパジャマで家から出てきた。
外はやはり肌寒く、綺麗だった。ぽつぽつと立つ街灯の淡い光のさらに向こうに遠い所から運ばれてきた輝きが無数にある。
動き出した足は止まる事はなく前へ出る。千夜も俺に寄り添うように歩く。
今、俺が向かっている場所は公園だろう。
大切な繋がりを築き上げてきた場所はあの家ともう1つあり、それが公園だ。その思い出の場所へ向かういう事が意味するのは1つ、千夜との関係を新しく築き上げるためだろう。いや、正確に言うなら築き上げる決意をする、だ。
今までの兄妹の関係よりも劣等感に埋め尽くされた関係ではなくそんなものに埋め尽くされない兄妹として。守られるだけではなく守る、護りあう関係に。
「千夜や香奈が優しくしてくれるのは嬉しかった。けど心の中で自分が弱いから優しくしてくれるんじゃないかって思った。優しくしてくれるたびにその思いは募りそれは大きな劣等感を生んだ。それなのに俺は抜け出そうとしなかった。その劣等感に甘え利用し何もしなかった。それに気付いた時、俺は・・・・・・苦しかった。俺と千夜や香奈は強いか弱いかの違いしかないと思った。でも違った俺は弱いだけじゃなく卑怯もだった。人の背後に隠れて歩いてただけの・・・・・・。けど、もう決めたんだ。卑怯者はやめる。自分の道は自分で切り開く。そして護られるのも」
「・・・・・・」
「護られるだけじゃなく護るために俺は死地だって向かう。俺の大切なものを壊れさせないために・・・・・・」
物静かな公園の一角にぽつんと寂しそうに置いてある二人用のベンチに座っている俺の隣で千夜は一言も発さなかった。淡い光に照らされた表情は真剣なものだった。
きっと俺の気持ちは千夜には理解できない。その上で俺は敢えて千夜にぶつけた。
「ごめんなさい」
千夜の口から漏れた音は確かにそう聞こえた。
「お兄ちゃんが私に見せる笑顔は本物じゃないものもあったから少し気付いてた。それでもその気持ちの本性が見えなかったから見て見ぬ振りをした」
千夜は俺の気持ちにうっすらと気付いていたがそれがどこから来るものかまでは分からなかった。だからほっといたって言うことか・・・・・・
「お兄ちゃんが傷付いてるって、きづいてたっのに・・・・・・わたしっは何もしなかった! 一番近くにっ居るのにっ寄り添うこともしなかった!」
水滴がぽたぽたと公園の土を濡らしてく。千夜は泣いていた。
「わたしがっわたしがっお兄ちゃんをっ傷付けた!」
そして振り向いた顔には大きな水滴が流れていた。その2つの源流は暗闇の中でも分かるように神秘の湖のように光って揺らいでいた。
「何で、泣いてんだよ・・・・・・」
「だって! だって! お兄ちゃんの傷は私が付けたものだもん! 私のせいでお兄ちゃんは1人で苦しんでっ苦しんでっそれなのに私をせめなくてまもろうとっしてるのが!」
そうか千夜は俺が苦しんだ大きな理由は自分にあると思っているんだ。
「千夜、そうかもしれない。お前の強さが俺を傷つけた・・・・・・」
千夜は今優しい言葉をかけられるより自分の過ちを認められる言葉がほしいんだ・・・・・・
「でもな、俺はお前を憎んでないし恨んでもない。それはなお前がいるから自分の弱さに気付き立ち向かう覚悟を決めれた。お前がいなければ俺はずっと人の優しさにつけこみ弱さから逃げていた。それを千夜が救ってくれた。千夜のおかげだ」
俺はそこでベンチを立ち、コートを千夜にかけ公園の外に設置されている自動販売機に向かう。
まだ外は肌寒い、春用のパジャマで外を出ればなおさらだ。
俺が缶のホットコーヒーとペットボトルのホットティーを持ってベンチに帰ってくると俺のコートを羽織った千夜は下を見ていたが泣き止んでいた。
俺はそっとに隣に座りペットボトルを渡す。千夜は受け取り胸の前に持っていき両手で包むように持っている。温もりを確かめるように。
「落ち着いたか?」
「うん・・・・・・」
俺は缶の蓋を開け口に運ぶ。ほろ苦い味と温もりが口いっぱいに広がる。
「そうか・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
静かな夜をさらに静かにする静寂は肌寒い夜を温めてくれるようだった。
コーヒーより黒い空を見上げると家の中からでは見えなかった物が見えた。それは星のように、香奈のように眩し過ぎない光を放っている。
優しい光・・・・・・それは俺のもっとも近い所で温めてくれていたのかもしれないな。
「ねぇ、お兄ちゃん・・・・・・」
千夜はペットボトルを見つめたまま俺を呼ぶ。
「ん」
「お姉さ、ううん、枝木澤さんのこと・・・・・・どうおもってる」
「答えないといけないのか?」
「できるだけ・・・・・・」
「はぁ」
香奈のことを『好き』だと言えばどんなに楽だろうか。俺は自分の本当の気持ちをその2文字で誤魔化し押し殺していた。
「好き、だと思っていた。心から香奈を求めていた。香奈が隣を歩いてくれるのが心地良かった・・・・・・けど違った。その気持ちは憧れ嫉妬、そして甘えだと気付いた。俺が求めていたのは香奈のような強さ、心地良かったのは香奈が守ってくれているという安心感から」
俺は自分の気持ちを勘違いしていた、自分の気持ちに嘘をついていた。
「俺に香奈に対しての好意なんて全然無かった」
「そう、なんだ」
それでも香奈を守りたいと思うのは理不尽だ。分かってる。俺の言ってる事がおかしい事は分かってる。
「俺はそれでも香奈を守りたい・・・・・・やっぱりおかしいよな」
「ううん、誰かを守るのに理由なんていらないと思う。必要なのは理由じゃなくて護りたいと思うことだと思う。だからお兄ちゃんはおかしくない」
千夜が最後に顔を上げて俺の瞳を見つめる。
千夜のその言葉で少し救われた気がした。俺の最後の小さな迷いを取り払ってくれた気がした。
「そうか・・・・・・何か、安心した」
これで決心がついた。
――俺が間違えたらそれを間違えと言ってくれる。
――俺が迷ったら導いてくれる。
――俺が倒れそうな時は支えてくれる。
千夜の瞳はそう告げてきた。
――千夜が間違えたらそれを間違えと言ってやる。
――千夜が迷ったら導いてやる。
――千夜が倒れそうな時は支えてやる。
これが俺の今の思いだ。いや、誓だ。
「俺は護る。香奈や家族、友達、そして・・・・・・千夜を。この身を傷付けても」
「ダメッ!! お兄ちゃんが傷つくなら私が護る!! お兄ちゃんが傷付いてるのにそれを黙って傍観したくない‼︎」
「ッ!! ああ、そうだな・・・・・・。兄妹は護り護られる、護りあう。それでこそ兄妹だ」
俺たちは兄妹。
そこに強さも弱さも無い。
そこにあるのは血の関係。
誰よりも濃い関係。
誰よりも太い関係。
誰よりも厚い関係。
誰よりも熱い関係。
だからこそ護りあう。
だからこそ支えあう。
それが兄妹のあり方だ・・・・・・
物静かな公園が光を帯びていく。
(はは、やっと思い出した)
見えるものは何も無くただ音が聞こえる。
兄を呼ぶ幼げな女の子な声とそれを少し面倒くさそうに感じている男の子の声が耳に脳に聞こえる。
地面を踏み擦れあう砂の音、風に揺らされ擦れあう木の葉の音が聞こえる。
『おにいちゃんまって!』
『ちよはとろすぎなんだよ』
『アッ‼︎』
『だいじょうぶか? だいじょうぶだいじょうぶ、ちはでてない。これぐらいでなくなよ』
『ちよ、なかないもん!』
『そうか、エライエライ』
そこには兄妹という繋がりが確かにあった。妹がこけたのを心配してくれる兄。妹の頭を優しく撫でる兄。
俺は気づかないうちに捨てていた、妹への心の底からの優しさを、記憶を。
俺は次第に前を走る千夜が怖くて、強くて捨てていたんだ、大事なものを。
目の奥が熱くなる。でもそれだけだ。涙は流さない。それが兄として威厳だ。妹に泣く姿など見せられる訳が無い。
公園はまた物静かな姿を取り戻した。
千夜は空を見上げていた。月光に照らされた横顔には涙の跡が残っていた。それなのに表情はさっきまで泣いていた事を否定するものだった。
家へ向かう途中俺と千夜は一言も発しなかった。
足首にまとわりつく風が「ねえねえ、何で喋らないの?」と質問をしてきてるようだった。
夜道に響く足音は時計の秒針が音を立てるように一定のリズムだった。