第6話 シャルムの労わり
塔の五階層の半分を埋めた居住区には、シャルムがルークに不自由をさせないよう、生活に必要な設備が一通りそろっていた。
竜人は種によって、主食が大きく異なる。シャルムは野菜や果物、木の実を好んで食べるが、ルークは肉料理を好んだ。
ウル家の屋敷では、シャルムは家の主人の娘ということで料理をすることはほとんど無かったが、時々晩餐会などで人手が必要になると、彼女も自分から手伝った。その料理の腕はウル家どころか、他の家にまで伝わるほどで、ルークも姉が料理をする機会を待ち望むほどだった。
「ルー君、お肉もいいけど野菜もしっかり食べるのよ。そうしたらきっと、すくすく大きくなるわ」
「はい、姉上」
言い方が子ども扱いで恥ずかしい、とはルークは言わなかった。それだけ、姉が料理をしてくれたことが嬉しく、かまどを使って焼き上げたグリルステーキの匂いに心を奪われていた。
サラはリザードマンたちに食事の指示を出したあと、従者として別室で食事を取ろうとしていたが、シャルムの願いを聞き入れて、ルークたちと同じ食卓を囲むことになった。彼女は感激で目を潤ませていて、シャルムは気恥ずかしそうにしている。
「豊穣たる大地の恵みをいただき糧とすることを、われらの祖である神竜帝に感謝します」
食事の前の儀礼として、ウル家では六竜帝国の開祖である初代神竜帝に祈りを捧げる。
「では、いただきます」
「あ、あの……姉上、どうして席を立たれて……」
シャルムは答えずに、ルークの隣の席に移る。そして、ステーキの肉汁を防ぐための布を彼の首にかけて、きゅっと結んだ。
そしてステーキをナイフで切り、肉汁と果汁を合わせて作ったソースをつけると、手を添えてルークの口へと運ぶ。
「はい、あーん」
「じ、自分で……っ、はむっ。んぐっ……お、美味しいですけど、姉上っ……」
「ルー君は塔を守る役目を果たしてくれたから、お姉ちゃんはそんなルー君をいたわる役目を果たしているのよ」
優しい目で見つめられながら言われると、ルークは何も言えなくなる。
シャルムは領内の産業の責任者でもあり、農業や牧畜の発展に力を注いでいた。ウル家に納入される食材は他の選帝侯家と比べても遥かに上質であったが、それはシャルムに感謝した農業従事者たちが、彼女に喜ばれようと時節ごとに献上品を送ってきていたからだ。
そうやって納入されたものの一部が、今夜出されたステーキの材料、赤ウル牛の肉である。竜人は歯ごたえのある肉を好むが、シャルムの調理法で柔らかくなり、ルークは口の中でとろける至福を味わっていた。
「ふふっ……ルー君、うれしそう。お姉ちゃんのとっておきのお肉、美味しい?」
「美味しいです。でも、こんな贅沢をしてもいいんでしょうか」
「食べ物は、ウル家から運んでもらうしかないのだけど……付近の山や森で狩りをしたりすれば、自給はある程度できると思うわ」
「あ……それなら、手始めに塔の中で生育の早い野菜を育ててみるのはどうでしょう? 供給も安定しますし」
「それはいい考えね。土が痩せないように、肥料を確保できると良いのだけど。かまどで使った薪の灰だけでは足りないわ」
ルークは塔の中に敵を招き入れる以外に、周囲もウル家の領地なのだから、しもべが増えてきたら開発を始めることを考えていた。
(姉上やウル家の力に頼るだけじゃなくて、自立をちゃんと考えないと。食料を運ぶ負担もあるし、自給自足ができれば、塔の周りを発展させやすくなる)
「ルー君も私が仕事をしているときに、もし良かったら見に来てね。相談に乗ってくれると嬉しいわ」
「は、はい! ありがとうございます、姉上!」
ルークは外見の幼さから、十五歳になっても父から仕事を任せられたり、役職につけられるということがなかった。
しかし彼は、いつか実務で力を発揮したいと思い、勉強を重ねてきた。隠棲するつもりだったと言っても、ウル家にただ負担をかけるだけで一生を終わりたくはなかったからだ。
「……ルーク様のお気持ちを、私たち家臣は誰一人お察ししてあげられなかった。本当にふがいなく思います」
「そ、そんなこと……僕はこんなだから、みんなが子供扱いするのも仕方ないと思います。でも、できれば僕はみんなに大人として認められたい。少しずつでもいいから」
「もう、サラはルー君のことを認めているわ。きっとルー君の夢はかなうって、お姉ちゃんは信じてるから……はい、あーん」
ルークはもう一度食べさせられるが、少しソースが口元についてしまった。それを見たサラは席を立つと、彼の口元をハンカチで拭う。
「んっ……あ、ありがとう、サラさん」
「あら……サラもルー君を甘やかしたいの? でもだめよ、それ以上すると罰金っていう約束じゃない」
「も、申し訳ありません。私もルーク様のために、何かできることがあればと……」
(……こんな暮らしをしていたら、僕は駄目になってしまわないかな)
ルークはしばらく大人しく食べさせられていたが、サラも口を拭う機会を待っているのか、じっとそばに控えている。
「あ、姉上。姉上も食べないと痩せてしまいます」
「……ルー君が食べさせてくれるの?」
シャルムは口元に指を当てて言う。ルークはますます顔を赤くするが、姉のことが心配であるのは確かなので、彼女の好きな果実をフォークで刺すと、姉にならって手を添えて差し出した。
「私がするのはいいけど、されるのはちょっと恥ずかしいわね……あ、あーん……」
(姉上が恥ずかしがってる。こういうところを見るのは新鮮だな……)
「んくっ……も、もういいわね。お姉ちゃんは小食だから、少しでいいのよ」
「いえ、もう少しとらないと。姉上は頭を使う仕事をしていますから、栄養を取った方がいいです」
「あぁ……弟に手綱を握られちゃうなんて。ルー君ったら、かわいい顔をして暴君なんだから……」
「シャルム様、そのような仰り方は……べ、別のことを想像してしまいますが……」
(別のこと……ってなんだろう。サラさんももじもじしてるな……食べさせて欲しいのかな?)
シャルムはルークが満足するまでたっぷりと餌付けをされ、サラも勘違いをしたルークによってステーキを口に入れられると、蕩けるような味に恍惚とする。こうして、ルークは塔での生活において、年上の女性二人をさしおいて主導権を握ったのだった。
◆◇◆
姉に翻弄されてばかりだったルークだが、今日一日を通して自信をつけていた。
(……だけど、僕はまだ進化する気配がない。どんどん侵入者を撃退して、捕まえて、竜素を持ってるしもべを集めないとな)
ルークは私室を与えられており、着替えも運び込まれていた。屋敷に居るときは侍女がルークの世話をしており、自分で着替えの準備などすれば逆に怒られるほどだったが、今は自分で支度をする。
ウル家の邸宅では、浴室は一階だけにあった。建物の五階に浴室を作るという前例はなかったのだが、シャルムは技術開発も兼ねて、特に浴室の建築に力を入れていた。
脱衣所で服を脱ぎ、ルークは腰に布を巻いて浴室に続く扉を開けた。子供の頃は侍女が浴室の中まで世話をしてくれたが、十歳の頃にはルークは自分から断っていた。
それから何度か姉が『心配だから』と入ってくることがあったが、最近はルークの心情を慮ってか、そういった機会はなくなっていた。
(姉上はあの頃も、弟の僕でも目のやり場に困るプロポーションだったからな……)
ルークは体の上から洗うようにと姉に教えられてから、それを守り続けている。まず髪を洗うために、ルークは椅子に座って湯をかぶった。
しかしその直後――浴室の扉の方から、物音が立つ。
「……気のせいかな?」
「……問題です。私は誰でしょうか?」
「わっ……!?」
後ろから近付いてきた誰かが、ルークに目隠しをする。背中に柔らかく、圧倒的な質感を持つものが押し付けられて、ルークの全神経が接点に集中する。
(お、大きい……柔らかい……布越しだけど、こ、こんなの……っ)
「あと3秒以内に答えないと、私のいうことを聞いてもらうけれど……いいのかしら?」
「あ、姉上っ……姉上ですっ……!」
「うふふ……正解、ルー君のお姉ちゃんでした」
シャルムはルークから身体を離すが、その指先で彼の背中をつつ、となぞる。
「ひゃっ……!」
「そんなかわいい声出さないの。ほら、ここに進化の紋様が出ているわ。ルー君、橙色の竜素を集めたのね……このぶんだと、あと8種類くらいで、次の段階に進化できそうよ」
「あ、あと8種類も……頑張らなきゃ」
「ルー君なら、次々に女の子を捕まえて、竜素を集めてしまうんでしょうね。こんな魔性の男の子になってしまうなんて、私が育て方を間違えたのかしら?」
「そ、そんなことないです。今回も、偶然竜素を持ってる人がいただけで……」
シャルムはまだルークの背中をなぞりつづけていた。その指が離れたあと、彼女は立ち上がると、ルークの濡れた髪を泡立てて洗い始める。
(うわ……す、すごく気持ちいい。人に頭を洗ってもらうのって、久しぶりだ……)
「かゆいところはある?」
「い、いえ……大丈夫です。あ、そこは少し……」
「遠慮せず言っていいのよ。かゆいのはとれた?」
気持ちを際限なく安らげるような声で囁かれながら、ルークは姉に髪を洗われる。
「……本当はね、本邸でもこうしてあげようとずっと思っていたんだけど。ルー君が恥ずかしがるから、お姉ちゃんはね……ずっと、我慢をしていて……」
「僕も、大きくなりましたから。いつも同じことを言ってる気がしますけど……」
ルークの言葉に、シャルムは答えない。髪の泡を落とすと、次は背中を洗い始める。
「はい、腕を上げて……そう……ルー君のお肌、すべすべ……」
「姉上の方が綺麗だと思いますけど……」
「……確かめてくれるの?」
「えっ……そ、その……背中を流すだけなら、変なことじゃないと思うので……」
ルークも姉に感謝の気持ちを伝えたいと思っていた。しかしシャルムの言葉が急に熱を帯び、真に迫ったように感じて、急速に緊張が高まっていく。
「……逆鱗には、触っちゃだめよ。触ったら、ルー君でも噛んじゃうかもしれないわ」
シャルムはそう警告する。上位の竜種が持つ『逆鱗』は、竜の弱点であり、感情を高ぶらせる部位でもある。
シャルムはルークの隣で椅子に座ると、彼に背中を向けた。身体を包んでいたタオルを外し、背中にかかる長い髪を、かき上げて前に送る。
ルークはシャルムの逆鱗を、腰の上あたりに認めた。鱗といっても、人間の姿では模様が浮かび上がっているように見えるだけだ。
そこを避けて、ルークは姉の背中を洗い始める。シャルムはその間に、髪を持ってきた布で縛る――両腕を上げた拍子に見えてはいけない部分が見えそうになり、ルークはそこを注視してしまう自分を律した。
(何を考えてるんだ……姉上をそんな気持ちで見たら、嫌われてもおかしくないのに)
しかしシャルムの白い背中が、泡をまとって艶めく素肌が、ルークの胸をどうしようもなく高鳴らせる。
「……ルー君、さっき言ってくれたこと……」
「は、はい……」
「確かめてくれるって……お姉ちゃんを見ていて、どう思う……?」
「……すごく綺麗です。やっぱり、姉上は僕が触れていいような存在じゃ……」
「そんなことないわ。私こそ……ルー君を抱きしめるとき、いつもいっぱい緊張して……」
シャルムの声がかすかに震えている。彼女は、ルークに触れるときに緊張していると言う――あれほど大胆に、何度も抱きしめては、満足そうに微笑んでいたのに。
(姉上も、勇気が必要だったんだ。僕が弟だから、姉上より小さいままだから、可愛がってくれてるだけだと思ってた……それこそ、僕が子供だから)
同じ家に生まれても、竜としての種が違えば、生物としての意識は他人となる。
シャルムを異性として意識することを、ルークは決してしてはいけないことだと思っていた。
しかしシャルムの態度がそれを否定する。彼女がここにやってきた理由は、ルークを労わるため。その気持ちをルークが返そうとしたとき、シャルムは冷静でいられなくなっていた。
「……ルー君、お風呂に入るときは、隠さずに入らないといけないんだけど……それは、お風呂の作法だから。お姉ちゃんは、変なことを言っているわけじゃないのよ」
後ろにいるルークを恥ずかしそうに窺いながら、シャルムが言う。それは、同じ湯船に浸かりたいという誘いだった。
それが、嬉しくないわけもない。ルークは姉の提案に、一も二もなく笑顔で答えた。
「一緒にお風呂入るの、久しぶりだね。お姉ちゃん」
「っ……」
シャルムは何も答えなかった。しかし、ルークには分かった――彼女が泣いていることが。
自分などのためにそこまで想ってくれることが、ルークはただ嬉しかった。しかしシャルムは、やはりルークにとって一筋縄ではいかない姉だった。
「……お風呂に入るときは、お姉ちゃんのひざの上に乗らないといけないのよ。それは、知ってた?」
「そ、それは……しないですよ?」
「するの。丁寧語になってもだめよ、お姉ちゃんに恥ずかしい思いをさせた責任は、取ってもらわないと」
調子を取り戻したシャルムと湯船に浸かりながら、ルークは正面で向き合うように言われたが、とても水面の下には視線を向けられなかった。
シャルムは満足そうに、弟にちゃぷんと水をかける。ルークも子供心を思い出して、姉の攻撃に応戦するのだった。