第5話 塔の中の花畑
――竜素は、臣従を誓った者が主である竜に奉仕することで受け渡される。
ルークはマリナから竜素を受け取ると、体の中に取り入れ、その充足感に感動を覚えていた。
(この竜素は……橙色。マリナの中にある、温かさを象徴するみたいな竜素だ)
なぜ、『竜が進化するための要素』でありながら、他の生物の体内に存在するのか。それは、竜が他の生命の持つ要素を取り入れることで進化する生き物だからである。竜人たちが竜素と呼んでいるだけで、人にとってはそれぞれの生物としての形質を示す要素であるのだ。
マリナは竜素をルークに転写したところで、その時の感覚があまりに鮮烈すぎたのか、意識を失ってしまった。ルークは彼女のはだけた包帯を、顔を赤くしながら結びなおし、毛布をかける。
「すぅ……すぅ……」
今は穏やかに眠っているマリナだが、竜素の転写を終えるまではルークを圧倒するほど情熱的だった。
そして恐ろしいことに、竜素の転写を終えた相手は、どうやらルークの言うことには絶対服従となるらしい。
シャルムの場合、生まれながらに最終進化を迎えるだけの竜素を体内に内包していた。ユスティリニアもファーヴニルとして生まれているので、最初から最終進化を終えている。そのため、ルークのような経験をすることは無かったのだろう。
(僕はどうやら、一つだけじゃ竜素が足りないみたいだ。ブラウンドラゴンが進化できない理由が、竜素がいっぱい必要だからだとしたら……)
竜素転写でしもべを増やすことが、ルークには恐ろしいほど膨大な可能性を持っていると気が付いた。
必要な分の竜素しか転写できないので、ルークが必要とする数が多ければ多いほど、その分だけ忠実なしもべが増えるということになる。
「ん……ルーク様、そこは……」
マリナの悩ましい寝言が聞こえて、ルークは思わず心臓を跳ねさせる。
先ほどまでは夢中だったが、竜素を転写する間のことを思い出すと、姉と顔を合わせたときにどんな顔をすればいいのかが分からなくなる。
強くなるために必要なこと。その説明で姉が許してくれることに一縷の望みを託して、ルークは牢を出て姉の待つ最上階に向かった。
◆誘いの塔 5F◆
最上階に上がると、ルークは流れてくる風が清浄なものに変わったように感じた。
それもそのはずだ、目の前には花畑が広がっている。塔の最上階に土を敷き詰め、窓から光を入れて、シャルムが花を育てていたのだ。
(姉上らしいな……花がすごく好きだからな。でもこれなら、土の養分や水分の管理さえできれば、天候に関係なく花を育てられるな)
花畑は五階層の面積の4分の1ほどを埋めて作られている。階層の中央が壁で仕切られ、居住区に続いているらしい扉があった。
その扉が開いて、姉が出てくる。料理をしていたらしく、ふわりと空腹を誘う肉料理の匂いがした。
「ルー君、ごはんができてるけどどうする? それとも先にお風呂? そ・れ・と・も……お姉ちゃん? ふふふ、甘えん坊なんだから」
「あ、姉上……僕、まだ何も言ってないです」
「またつれないこと言って……お姉ちゃんは空気を読んで席を外してあげたのに。どんな気持ちで待ってたと思ってるの?」
叱るというよりは、少し弱気にも見える口調だった。
ルークはそこで気が付く――姉が拗ねているのだと。
「……姉上は、僕が竜素を手に入れたこと、気づいてたんですね」
「そ、それは……その、覗いたとか、そういうわけじゃないのよ。サラがお鍋を見ててくれるっていうから、少し様子を見に行っただけなのよ」
何とか弁解しようとするシャルム。ルークは姉に見られていたと思うと、恥ずかしさで見る間に顔を赤くする。
「あ、姉上……僕は、強くなるために、必要で……お、女の人に興味はあるけど、そういうことだけしたいわけじゃなくてっ……」
「……えっ? 彼女の包帯がほどけていたけど、ルー君……あんな格好の女の人に迫られても、理性を失ったりしなかったの?」
「そ、そんなことありません。ちょっと触らせてもらいましたけど、いやらしいことはしてないです。本当です」
そう――ルークはマリナに迫られ、しどけない姿の彼女にひとしきり愛でられ、身体に触れるようにとも言われたが、それだけで踏みとどまった。
マリナからは竜素を受け取ることができたので、ルークは彼女を村に帰してやるつもりだった。山賊たちが奪った物資にも手をつけず、返還しようと考えていたのだ。
それを姉に説明すると、シャルムは次第に落ち着いてきたかに見えた――しかし、また白い肌が紅潮し、耳まで赤くなる。
「私ったら……ルー君のことを信じなきゃいけないのに、てっきりルー君が私を差し置いて大人になってしまったとばかり……ルー君は、そんなに立派なことを考えて、私以外の女の人に手を出したりしないで戻ってきたのに……」
「え、えっと……手を出してないわけじゃなくて、触ったりはしました」
「……感想は?」
「柔らかくて、温かかったです……それに、いい匂いも……あっ……ご、ごめんなさい! もうしませんから!」
答えをはぐらかせば怒られると思い、ルークは正直に言ってしまったが、それも姉を不機嫌にさせると遅れて気が付く。もはや、どこに進んでも地雷という状態だった。
しかしシャルムはルークに微笑みかけると、いつものように腕の中に抱きすくめ、弟の顔を胸の谷間で受け止める。
「ふむっ……あ、姉上……っ」
「……どっちの方が、いい匂いがする? なんて、聞くのは意地悪ね。ごめんなさいね、焼きもちやきのお姉ちゃんで」
「…………」
シャルムからは、まるで甘い蜜のような匂いがする。花が好きな彼女らしく、ルークをどこまでも安心させ――そして、違う感情を呼び起こさせる。
――ルークが求めているものは、この姉の中にも感じ取れる。
それを手に入れられないのは、シャルムとルークの関係が、『姉と弟』であるからだ。そう、ルークの竜の本能が理解していた。
「……ルー君、今日は大人しいのね。いつもはすぐ逃げちゃうのに」
「本当は……すごく居心地がいいけど、甘えちゃいけないと思って……」
「いいのよ、時々は思い切り甘えても。でも、大人になりたいルー君は、そんなこと言われても困ってしまうかしら」
そんなことはない。姉が許してくれるのならば、このままずっとこうしていたい。
それでもルークは離れがたい温もりから、自ら離れる。このままそうしていたら、ユスティリニアと命を賭けて戦う意志が揺らいでしまう気がした。
「……こほん。お二人とも、お取り込み中に大変恐縮なのですが、お夕飯の支度ができております」
「ありがとう、サラ。ごめんなさいね、途中から任せちゃって」
「い、いえ……それが私の務めですので……」
サラがちら、とルークに視線を送る。いつもならば姉の従者というだけで、事務的な態度しかとらなかった彼女が、確かに頬を赤らめていた。
空送竜の体表の色である、水色に近い髪色。サラはその髪を戦士として戦う際に動きやすいようにとショートカットにしており、いつも女性らしい装いを意識している様子はなく、ルークのことも仕える家の子息という距離のある見方しかしていなかった。
しかし今初めて、ルークはサラから異性として意識されていると感じ取った。理由に思い当たるところはないが――と考えて。
(……僕にこれまで、心から従ってくれる部下はいなかった。サラさんもそうだ。でも、もし僕が戦ったことで、認めてもらえたんだとしたら……)
「ふふっ……ルー君って、本当に真面目なのね。今までずっと気づかないなんて」
「えっ……?」
「ウル家の女の人たちは、みんなルー君を可愛がっているのよ。サラだって、もちろん例外じゃないわ」
「っ……そ、そのようなことは……私はただ、ルーク様もウル家の公子としてのご活躍を、喜ばしいことと思っていただけです。食事の支度の続きがありますので、失礼いたします」
サラはそう言って、くるりと踵を返して歩いていく。シャルムは服の袖で口元を隠しながら、微笑んでそれを見送る。
「褒められちゃったわね、ルー君。サラが男の子を褒めるなんて、今まで見たことがないわ」
「僕、もっと頑張ります。みんなに認めてもらえるように……そして、誰より姉上に認めてもらいたいです」
ルークの言葉に、シャルムはすぐには答えなかった。ただ弟の手を取って歩き始めて、そして小さな声でつぶやく。
「……認める、っていうのは……私が、意味を決めてもいいの?」
「……姉上?」
「いえ。何でもないのよ、ルー君。そうだ、後で耳かきしてあげましょうか。しばらくさせてくれなかったでしょう」
姉がわざと誤魔化していることに気づきつつも、ルークはどうしてか、その時は追及する気になれなかった。
「今日は、僕が姉上にしてあげます。それとも、恥ずかしいですか?」
「それは……嬉しいけれどね、お姉ちゃんは大丈夫。自分でできるから」
シャルムと手を繋いで歩くなど、それこそ数年ぶりのことだった。それでもルークは、今は恥ずかしいよりも嬉しいと感じて、自分からしっかりと握り直した。