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ウィトゲンシュタイン それはもしかしたら 禅語録?なのかもしれない?

作者: 舜風人

ウイトゲンシュタインは、いらだっていた?

というのは今までの「哲学」なるものに対して、

ある種の失望感しかなかったからだ。

あいまいであるところの

日常言語をそのまま無批判に哲学言語として使用して

ある種文学的に?思想を述べるという従来のスタイルに我慢ならなかったからだ、

ある種文学的に

「神は存在するのか?」とか

「死後の救いはあるのか?」とか

「物自体は存在するか?」とか

そういう形而上学とか

神学論争?にほとほと、嫌気がさしていたからだ。

そもそもこういう「物言い」は言語の誤使用なのではないだろうか?

まず初めに、

「言語の意味と無意味を峻別すべし。


ウイトゲンシュタインはそこから出発する。

例えば、

「神」という言葉にそもそも意味は付与されうるのだろうか?

「神」という言葉はそもそも「無意味言語?」なのではないだろうか?

いわゆる形而上学的な言語というのは、

ほとんどすべてがこのような「無意味言語」なのではないだろうか?

「神」「死後の救済」「物自体」

こういう無意味言語を捨象すべし。

そうして論理と科学で有意味な言語だけで世界を規定すべし。

すなわち、我々がまずなすべきは、

まずなすべきは言語の規定だろう。

哲学で使用するべきは

「科学的な言語」と、

「論理的な言語」のみであるべきだ。

まず彼は哲学するための言語を規定するというところから出発する、

なぜならそれまでの哲学言語はあいまいである種の「文学的な」ものだったからだ、

彼はその主著、論理哲学論考」で

こう述べている、

「科学的論理的に明晰に語りうべきことだけだけを語るべし」と。

そうして「そのように語れない事象については沈黙すべし」と。

こうして彼の思想は今までの哲学命題の洗い直し?

という様相を帯びてくるのである。

語れることだけをかたること、

語れないことには沈黙すること、

こうして彼は形而上学を否定し去るのですね。


「神は存在するのでしょうか?」


「私は救われますか?」


「人生に価値はありますか?」


ウイトゲンシュタインはこう答える。


「あなたのその質問は無意味な言語使用です。つまり非科学的な

非論理的な、、誤った言語使用なのです。つまり答えられない質問をあなたはしているのです。

そのような語りえない質問には沈黙するしかないのです」と。




「論理哲学論考」という書物は

いわば「命題集」です、

ざっくり?言うならば、

哲学的な命題をただいくつも、アフォリズム的に?羅列しただけです。

そこに文学的は面白さ?は皆無です。



例えば、、こんな感じです。


1.

* 世界とは、起きている事全てのことである。(物ではなく、事実の総体であるとする)


2.

* 起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである。(事態+成立=>事実)


3.

* 事実の論理上の像が、思想(思惟されているもの、思考対象、思想内容)である。(事実/思想がパラレル。事態と思想ではない)


4.

* 思想は、意義を持つ命題である。


5.

* 命題は要素命題の真理関数である。(要素は、自分自身の真理関数である。)


6.

* 真理関数一般は、[\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)]と書ける。これは命題の一般形式である。


7.

* 語りえないことについては、沈黙するほかない。


(以上wikipediaより引用。一部文字化けあり。ご容赦を。)







じつは、こういう哲学の展開法?というのは別にウイトゲンシュタインが初めてではないのです。

古くは、プロクロスの「神学綱要」(エレメントオブテオロジー)がその嚆矢?と言われています。

その手法とは、まず検討すべき命題をあげる。


例えば


命題1 多はすべて何らかな仕方で、1を分有する。


証明  もし多がどんな仕方でも、1を分有しないとすれば、多の全体が、1ではなく、無限に

    進行するからである。


というような感じ?ですね。こんな感じが、、命題211まで延々と続きます。

相当、、、正直なところ、

読むと、飽きます?


こういうやり方はやがてスコラ哲学に継承されて

いわゆる結論ありき?のそれこそが無意味の極みの「神学論争」へとなりますね。


さて時代は近代へ、こうしたやり方に活を❓入れてよみがえらせてのが。

スピノザです、


彼の主著「エティカ」はまさに命題集ですね。


延々と命題が続くばかりです。



さて、、、再び、、ウイトゲンシュタインに戻りますが、


「論理哲学論考」には命題の陳列が主であって

その証明が抜けていますよね。


ただ断言するだけ、

言い切るだけです。若干証明めいた?箇所もありますが。

多くは断言してるだけです。「これが正しんだから、あとはただ信じろよ?」

みたいな傲岸❓さでしょうか。





それを虚心に?読み進めると


アーラ、不思議?


私には

それがなんと禅の語録に思えてくる瞬間があるんですよ。



ほんと不思議?


例えば5-621 の命題は、


「世界と生は一つである」


うーんなんだかどっかの禅語録で聞いたようなお言葉?でしょね。


私はこの言葉から直ちに「煩悩即菩提」「生死一如」を連想しましたよ。


極めつけは


「語りえないことについては、沈黙するほかない。」


これなどまさに


「拈華微笑」「教外別伝」の禅の世界ですよね。


まあ、


というわけで、、

文学的にしか?


哲学を語れない私なのでした。


私はどっちかといえば


やっぱり、ニーチェとか

キルケゴールとか


そう言ういわゆる「詩人哲学者」のほうが好きですね。






キルケゴールの言葉


「人間が真実のために打ち殺されてもよいのだろうか?」





ニーチェの言葉



「どんな人生もそれを全面的に引き受けて全肯定して、永劫に回帰すべきものとして


「それを私が欲したのだ」と宣言して生きるべし」





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