ある日の光景 - 前夜 (葉月Ver.) -
Need of Your Heart's Blood 1 第一話、『ある日の光景』前夜のお話。
診療台のシーツを新しいものに替え、今日予約の入っている“患者”分のカルテを書類棚から机の棚に持ってきておく。
診療スペースと待合室の掃除を簡単に済ませてから、葉月は壁にかかった時計を見上げた。
「まだ、少し時間がありますね……」
午後六時を少し過ぎたところだ。
「さて、夕飯をどうしましょうか」
料理を得意とする主は、いつになくそわそわと落ち着かない様子でつい先程、ようやくあちらへ帰ったばかりだ。
「くれぐれも、よろしく頼む」
と、何度も何度も、しつこい程に念を押して。
「あれから、もう十四年、ですか……」
次元の狭間で見つけた子ども。
彼女を施設に預けるよう彼を説得したのは、他でもない、自分だ。
――その判断が間違っていたとは、思わない。
彼女にとっての最善ではなかったのは間違いない。彼女にとっての最善が、朔海の傍に在る事だと葉月には分かっていた。
けれど、朔海は葉月にとってかけがえのない、唯一無二の大事な主だ。
その主に、万が一の事態を招きかねない存在を近づけたくなかった。
だから、葉月はあの日、朔海と別れ一人人間界へと戻った後、明け方近くなるのを待ってから、施設の前に彼女を置き、彼女が無事施設の人間に発見されるのを見届け、その場を去った。
主に意見した通り、ここには身寄りのない子供たちが沢山居る。
彼女が一人立ちできる年齢に達するまで、最低限の面倒は見てくれるはず。
もう、彼女と関わることはないだろうと、そう思っていたのに。
彼からその話を切り出されたのは半年程前の事だった。
「葉月、頼みがあるんだ」
いつになく真剣な顔でそんな事を言い出すものだから、一体何事かと思った。
かつて、魔界の王城から次元の狭間に居を移す際に協力して欲しいと、そう請われた時をふと思い出してしまうくらい、彼は思い詰めた様子だった。
「……彼女を、預かって欲しい」
突然そう切り出された葉月は、まずその彼女とやらが誰なのか、さっぱり見当もつかなかった。
葉月の知る限り、彼とまともに付き合いのある女性は、魔女のファティマーと、豊生神宮の関係者たちくらいのものだ。
しかし、彼は思わぬ名を口にした。
「咲月を、この家で保護して欲しい」
一瞬、葉月は頭の中の人物名鑑に手を伸ばそうとして、ふと思い出した。
そう、彼が見つけ、彼があの子どもに与えた名だ。
「僕にはもう、これ以上黙って見ているなんて、できない……!」
聞けば、あれから度々、こっそり彼女の様子を見に行っていたのだという。
確かに最近、以前にも増してちょくちょくこちらへ来るようになったとは思っていたが……そういえば改めて思い返してみればちょうどあの頃からだった気がする。
吸血鬼の自分に育てられるより、人間に育てられる方が彼女にとって幸せなはずだと、そう思ったから手放したのに、現状、彼女は幸せとは縁遠い環境に身を置いているのだという。
だが、葉月は最初はこの申し出を断るつもりだった。
理由は明白。最初のそれと変わらない。
ただでさえ、もうここまで肩入れしてしまっているのだ、もうこれ以上彼にその娘を近づける訳にいかない。
けれど、その彼女の現状をどうにかしない限り、彼は彼女を気にし続けるだろう。
そう思って、葉月は改めてあの時の子どもの事情を調べ、そして朔海があれほど必死だった訳を悟った。――まるで、あの王城で初めて会った頃の彼を見ているようだった。
朔海自身、そう感じたからこそ、葉月にこの話を持ってきたのだろう。
「……分かりました。お引き受けしましょう。ただし、条件があります」
決して自らの正体を彼女に明かさない事――これは朔海自身、彼女に知られたくないようだったからいいとして……心配なのは、期限の方だ。
提示した条件に、朔海は頷いていたけれど……。
「やっぱり少し、心配ですね……」
実際、全ての手続きを済ませ、確実に彼女をこの家で引き取る手筈が整ったと分かったあたりから、彼の辞書からから落ち着きという言葉が消え失せていた。
まるで、初めて彼女を自宅に招いた中学生の様な……。
「まあ、今が思春期真っ盛りなのは確かなんですが」
いかに三百年もの年月を生きていようと、彼は吸血鬼。半分しか吸血鬼の血を引いていない葉月でさえ、初めて恋というものを知ったのは、今の朔海と同じくらいの歳の頃だった。
「だからこそ、余計に心配なんですが……」
間違っても、かつての自分と同じ轍だけは踏ませてはいけない。
「朔海様のためにも、彼女にはなるべく早く、確実に幸せになっていただかねばなりませんね」
――ほんの数ヶ月で、その意見を翻す事になろうとは、全く思いもせず。
葉月は、一人でカップラーメンを啜る。ずぞぞぞぞ、と、広い部屋に虚しく響く音。
隠し部屋に降りれば、狛が居る。喚べば青彦や紅姫も居る。
しかし、青彦たちは食事を必要としないし、狛は人の食事をあまり好まない。
朔海が居ない時の食事風景は、いつでもこんな風だ。
「ああ、でも……。明日の夜は、賑やかになるかもしれませんね」
年頃の少女と同居など、そういえば長い生の記憶をさらってみても、経験がない。
かつての双葉とすら……。
葉月は、はたと固まった。
「ん、あれ? もしかすてあんまり朔海様をからかってばかりもいられなかったり――」
いやいや、これでも一応七百年もの歳月を生きているのだ。相応の人生経験だって積んだ。
だから、大丈夫なはず――。
「いやでも、下手に年寄りじみた事をして吸血鬼だなどとバレても困りますね……」
と、答えの返るはずのない虚空に呟いてから、慌てて口を塞いだ。同族であり、御年300歳の朔海にすら「まどろっこしい」と称されるこの口調。
「そうです、この言葉遣いから改めるべきですね……?」
その晩、葉月は患者相手に“今風の喋り方”を必死に練習していた……らしい。
- END -