ある日の光景 - 前夜 (朔海Ver.)
Need of Your Heart's Blood 1 第一話、『ある日の光景』前夜のお話。
すーっ、はーっ、すーっ、はーっ。
大きく深呼吸をする。
心臓が、うるさく暴れるのを、少しでも宥めようと、朔海はベッドの上でごろごろ右へ左へと寝返りを打ちつつ、時折深呼吸してみる、が……。
「うぅ、落ち着かない……」
時計を見る。
人間界の、日本の標準時刻に合わせたそれの針は、先程見た状態から殆ど動いていなかった。
人間界にある葉月の家を出る時に確認した時刻が五時少し前だった。
次元の狭間にあるこの自宅へ帰ってきて確認した時刻は、五時半前だった。
そして、今見る限り、時計は七時を指している。
今頃葉月は医院を開け、仕事に励んでいる事だろう。
「咲月は……どうしているだろうな」
人間ではなく吸血鬼、それも一族の者たちに疎まれている自分では、彼女を幸せにすることはできない。葉月の意見は最もだ。
……そう、思っていた。
だから、一度は彼女を手放すことを決めた。……それでも、僅かな未練を振り切れず、朔海は度々人間界の彼女の元へ訪れていた。
もちろん、本人の前に姿を現すことはしない。影からそっと彼女の様子を伺い見るだけだ。
それでも、彼女が楽しそうに笑っている様さえ見れたらそれで満足できた。
あの日、自分に伸ばされた手にすがっているのはむしろ、自分の方なのだろう。
彼女が、自分の与えた名の通り、自分とは違う、幸せな人生を歩んで欲しいと願い、それを見届けたかっただけだったのに。
……彼女が、施設から人の良さそうな夫婦に引き取られたまでは良かった。
朔海の望んだ通りの人生を歩んでいけるだろうと、ホッとしていたのに――。
不幸な事故の後、咲月を待っていた境遇は――朔海が一番望まない、まるでかつての自分を見ているような……幸せとは縁遠い生活だった。
見る見る間に彼女の笑顔は失せ、心身の傷は増える一方。
……だが、吸血鬼の自分では、咲月を直接救う事は出来ない。
咲月を虐めた子どもを、後から叱りつける事はできても、いじめの現場に直接出て行って彼女を庇う事は出来なかった。
――怖かったのだ。いつ何時、ひょんなことから自分の正体が彼女に知られてしまうのが。
彼女に拒絶される、それを受け止める自信がなかったのだ。
しかし、傷つき続ける彼女をこれ以上黙って見ていることもできず、結局朔海は他力本願にも葉月に協力を要請した。
彼は渋りながらも、条件付きで引き受けてくれた。
――そしていよいよ、明日、彼女が葉月の家にやって来る。
そう思ったらもう、眠るどころではなかった。
何故だろう、すごくドキドキする。……なんだか、落ち着かない。そわそわする。早く、会いたい。彼女と、話してみたい。
いつも、影から見ているだけだった彼女の前に立つことが、とても楽しみで。
――何を話そう? 僕は、彼女に何をしてあげられる?
自分に出来ることなら、何でもいい、何か、彼女にしてあげたくてたまらない。
こんなにも待ち遠しくてたまらない“明日”など、これまでにあっただろうか?
「……ああ、まだ七時半なのか」
朔海は、だんだんベッドに転がっている事が苦痛に思えてきて、とうとう跳ね起きた。
「明日、何を着ていこう?」
まるで明日のデートを楽しみにする女子の様な事を考え、朔海はクローゼットを開けた。
普段、それほど着る物にこだわりはなく、そもそも自らの装いを人に見せる機会などせいぜいファティマーの店へ買い物に行った時か、葉月の家へ遊びに行った時くらいのものだ。
さして見栄えを気にするような相手でもなく、最低限人として恥ずかしくないようにという以上の事を考えることはまずない。
「ううん、いきなりスーツなんて着てったらどう考えてもおかしいよな……。けど、だからってTシャツにジーンズってのもちょっとラフすぎるよな……」
もちろん、ジャージだのスラックスだのなんてのはありえない。
白いジャケットに紺のアンダーシャツ、黒のスラックス、コートにマフラー。ようやくその装いに落ち着いたのは……明け方近くなってからだった。
「ああ、やっと六時になった……。よし、さあ、行くぞ!」
朔海は意気揚々と出かけ、葉月の家のチャイムを鳴らした。
――夜間診療の仕事を終え、眠そうな顔で対応に出た葉月に、夕飯時にもう一度出直して来いと追い出され、それでもやっぱり待ちきれず、彼の気配を追ってやって来たスーパーで、彼の運転する車に同乗した咲月を見つけたとき――。
ドクンと、一際高く心臓が鼓動を響かせた。
「……葉月。すき焼きに麩を入れるのは邪道だといつも言っているだろう」
車の屋根を軽く叩き、葉月の台詞を遮った。
「あれ? ……朔海君、何でこんな所に?」
葉月が白々しく尋ねるのを右から左へ聞き流してしまいそうになりながら、すぐそばにある彼女の姿に興奮が抑えられない。
――彼女に、自分の力の及ぶ限りの幸せを。心の中で、改めて強く誓いながら、朔海は今日から始まる一時の幸せを噛み締めていた。
すぐそこまで、運命の落とし穴が迫っていると気づきもせず。
彼女に、自分のコートとマフラーを着せたのと同じように、ただ、彼女を庇護していればいいと。
傍に居て、優しくしてあげられたら、それでいいのだと――。
朔海はただ、単純に、そう思っていた。
- END -