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龍の顎門  作者: 智郷樹華
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 今宵は雨がたくさん降って、わたしの中に眠る何かが、声を上げる。

 絶え間なく、忙しなく、語りかけてくる。

 それが無性に心地良くて、わたしはゆっくりとヒトの瞼を閉じていく。


***


 それは、雨が降らなくなって久しい或る夜のことだった。

「クミ。御免ね、クミ――…」

 何度目かわからない母親の言葉に、娘――クミは困ったように笑って見せる。

 その言葉もまた、何度となく繰り返してきた言葉だ。

「大丈夫よ、母さん。母さんこそ大丈夫? そんなに泣いてばかり居たら、目玉が融けてしまうわよ」

「…クミ…」

「いつものように笑って、母さん。優しい母さんの目を私が忘れてしまわないように。ね、お願いよ」

「クミ――…」

「あぁもうまた……」

 自分の言葉に涙を溢れさせる母親に、クミは呆れた笑みを浮かべて濡れる頬に触れた。

 指先にヒヤリとした雫が触れて、乾いた肌に溶け込む。その様子に、自分の指がざらついていることを知り、クミは手を離して母の温かい胸の中にそっと顔を埋めた。

 髪に挿したかんざしが小さく鳴って、首に下げた鈴が哀しげに音を立てる。

 とくん、とくん…と聞こえる心音は、地面を打つ雨音に似ていて安心を呼ぶ。ずっと聞いていたいと思うが、それが無理であることもクミは知っている。これから自分は、この音から離れるのだ。永遠に。

 涙は、出なかった。

「――さぁ時間だわ。娘の門出かどでよ、母さん。笑顔で送ってちょうだい」

 クミは家の外から聞こえる男衆の声に顔を上げて、紅を差した口端をきゅっと上げた。

 前を見据えて、やさしい母の腕からすり抜けて一歩踏み出す。

 戸口を空ける音と自分を呼ぶ声が重なり、クミは静かに家を後にした。



 外は風も無く篭もった熱気が漂い、微かな異臭が鼻を衝く。

――また一人、旅立たれたのか。

 それが屍臭であることに気付き、クミは目を伏せて心の中で手を合わせる。言葉は何も浮かばないけれど、それでも手を合わせずには居られなかったのだ。

 この村に雨が降らなった日から始まった負の連鎖は、速度を上げて続いている。

 作物が枯れ、食料が失われていく。それと同時に、飲み水も減っていった。次第に村人の心も不安定になり、神事を司る宮司と村長、そして巫女のもとに【雨乞い】の依頼が届いた。しかし雨は降らなかった。村人がこの地を離れ始めるのに、そう時間は掛からなかったが、略奪者が出なかったのは幸いだとクミは思う。

 いくら今後雨が降ろうとも、人の心に巣食った闇はそう簡単に拭えるものではない。隣人を疑いながら暮らさなければならない村に、天が恵みを与えてくれるとは思えなかったからだ。


「みんなの心が、平穏な内に役目を果たせるのなら、本望だわ」


 クミはそう言って、【雨乞いの巫女】の鈴を受け取った。

 足首に付ける鈴飾りの意味を知らない訳ではない。この村の住人なら誰でも知っている、特殊な巫女の証。全てに別れを告げる代わりに、心を慰めてくれる特別な鈴。それを鳴らすために歩く・・というのは少し皮肉な気もするが、クミはそれを「歩けば皆と一緒に居られる」と笑った。

 それは巫女として山間の谷に身を捧げる、離別の重職を受け入れた瞬間だ。

 一刻も早く、この連鎖を止めたい。

 その願いを胸に、クミは取り乱すこともなく当日を迎えた。

 五日前から身を清めて籠もっていた場所は、村の端に位置する村の巫女が集まる神殿だ。そこから真っ直ぐと前を見据えて足を進めて村の中心に向かって行く。母が自分を抱き締めた地は既に遠い。だが今も両肩をあのやさしい腕に包まれているような気がして、クミの心は凪いでいた。

 神殿と村を繋ぐ道にある門を潜ると、鈴の音を響かせて動く行列の中でクミは実際に手を合わせるようになる。それが儀式の慣わしだ。

 見送るような視線を肌に感じ、横目で薄布の向こうを覗き見ると、知った顔がいくつもある。それは当然と言えば、当然のことだった。

 日々を一緒に過ごした友人達は、この儀式には参列できない代わりに見送ることが許されている。参列できるのは、クミと面識の無い者と神事を司る者だけだ。それというのも、この儀式は通常のものとは異なり、特殊な理由を持ったものだからである。家族でさえ参列はできない。それが決まりだ。

 しかし今回は異例とも言える儀式となる。神事を司る者の中に、クミの姉が居たからだ。二人の、神官の任を持つ姉。その参列は、無くてはならないものだった。

「クミ――…」

 中心部を抜けて、村の外れに造られた簡易な斎場の一角で、クミの到着を認めた姉が駆け寄った。

「姉さん……。私は果報者だわ。最後に姉さん達の舞を見られるんだから」

「クミ…っ」

 二人の姉に一層強く抱き締められて、クミは困ったような笑みを浮かべる。

「もぉ。希代の舞手が、涙で濡れた顔で上がるなんて許されないわよ。姉さん」

 肩口で嗚咽を漏らす二人の背中を軽く叩き、クミは息を吐く。

――こんなところまで、母さんに似なくてもイイのに……。

 先刻まで一緒に居た母の姿を思い出して、クミは心内で呟く。そしてクミの言葉に気を取り戻したのか、二人は顔を上げて涙を拭った。

 この二人の姉は、神事の舞を司る任を担う巫女だ。代々クミの家―嘉生カセ家はそうした舞手を出してきた。母も祖母も曾祖母もまた、舞手として神官の位を持っていた。当然ながらクミも舞手としては申し分無い技量を持っていたが、姉達には及ばず位を持つほどではなかった。

――憧れの舞を目の前で見れるのだから、これも役得って言うのかしらね。

 舞の衣裳に身を包んだ姉達は、身内の欲目を除いても美しい。しかも普段ならば神官と限られた人間しか見られない、その奉納舞を間近で見られるのだ。クミは純粋な気持ちで、それを喜んでいた。

 自分の置かれている現状を理解しているつもりだが、このようなことがなければ自分など一生縁の無い舞台に、胸が躍るのは同じ舞手の血が流れているせいだろう。

 ともあれ、悲観ではない表情が妹の顔に浮かんでいることで、姉たちは涙を止めることができたようだ。

 そして、離れた先から二人が呼ばれ、次いでクミもその声に従い斎場を後にした。

 

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