美洲穂という少女と香介という少年
18階に向かう途中のエレベーターの中は、ひどく静かなものだった。
乗っている人は自分を含めて、パジャマ姿のお爺さんとオバサンがいて、二人とも少しも動こうとはしないで自分の目的の階に到着するのを待っていた。僕もボタンを押してそれにならう。
外来の患者がいなくなったからだろう。途中で止まることなく順調にエレベーターは上昇していき、それに伴って窓越しから見える風景はかなり開けてきた。段々と自分のいる場所の標高は上がり、見えるものは小さくなっていく。人がミニチュアのように見える。ちょこまかと忙しそうに、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。その様子は少し可愛げで、少しぼやけておぼろげだった。僕はそのまま景色をぼんやりと眺める。
何度見ても、このエレベーターから見える風景はどこか寂しげで感傷的だった。それは病院という、生と死が隣り合わせに存在し得る場所が作ったイメージのせいだろうか。普通は印象を貼り付けるなんて事は、人が人相手にするものなのだろうけど、それなのにこうしたイメージが生まれてしまうのは、やはりヒトにとって体と心は特別だからか。どうってことのないビルや人が今にも崩れてしまいそうな感じ。そんなものは幻想に過ぎないし、ありえない。けれど、僕はなかなかこの幻想が好きらしかった。
横断歩道で、一人の会社員が赤信号を無視して走っていった。女の人がたくさんの花を抱えておぼつかない感じで歩いている。学校帰りの学生達が、まとまって駅へ向かっていた。お爺さんが公園の噴水の所に腰をかけて鳩に餌をやっている。白衣を着た人が病院のなかへ・・・みんな目的があろうと、なかろうと動いている。その速度はひどくゆっくりで・・・。
「降りないなら閉めるよ!」
結構大きい声だった。隣にいたお爺さんは驚いたらしく、手に持っていた煙草(病院でも売ってるらしい)を落としてしまった。何だろう、と僕は怒っているオバサンを見た。この年の人は更年期障害とかいうのがあるからその手の類かもしれない。なんて、失礼な考えが浮かんだ。
オバサンは僕が見ていることに気づいて、さらに怒った顔になり、
「あんたここの階のボタン押したんでしょ!早くしてくれない!」と吼えた。
・・・前言撤回。怒って当たり前だった。エレベーターの回数表示は18。彼女のいる階を指している。それなのに、僕がずっと出ようとしなかったから痺れを切らしたのだろう。どうやらぼんやりとしすぎたらしい。僕は小声ですみませんと言った後、(後ろでオバサンの「閉ボタン」連打の音)急いでエレベーターから出た。
見慣れた黒いペンキで書かれた「18F」の文字と、四つのエレベーターのドア。目指す部屋はすぐそこにある。「18F」の上にある針だけの時計が、面会時間が後三十分程で終わると端的に告げていた。けれど、それは面会する為には十分だろう。少なくとも余り時間を掛けない、掛けられない僕にとっては。
いつも通りに、エレベーターフロアから出て左に曲がり、彼女がいる部屋へ向かう。
そしてここも、いつものように18階の廊下には人がいなくて、静寂という言葉がとても良く似合っていた。その廊下を僕の革靴の音だけで満たしていく。コツコツという音だけが静寂を裂いていく。
コツコツコツ・・・1801。ここじゃない。通過。
コツコツコツ・・・1802。そしてここも。通過。
コツコツコツ・・・1803。目的地発見。停止。
1803号室。そこに、「冬峰 美洲穂」と書かれたプレートの付いた白いドアががあった。ドアの前で僕は立ち止まると、そのまま部屋に入らずに少し背伸びをする。どうしても僕は、病室に入る時は緊張してしまう。たとえその中に大切な人がいたとしても、やはり躊躇してしまう。病室は否応無く自分を厳しい現実と向き合わさせるから。
それを打破するために、儀式というか、しきたりというか、そんな感じの意味をこめた深呼吸をする。緊張を解くために。ドアを開けたときに彼女が元気でいるように。そして、彼女が日常へと戻れるようにと願いを込めて、深く、大きく・・・・。
スー・・・ハーー・・・・・。息を軽く吸って深く吐く。
スー・・・ハーー・・・・・。ゆっくりと慌てずに空気を取り替える。
勿論、こんなおまじないをしただけでは彼女が治らない事くらい、十何年しか生きてないガキな僕にだって分かる。それでも、意味の無いことだって分かっていても、こんな事をするのは僕がそこまで参っているからなんだろうか。そうは思いたくないのだけど。
深呼吸を終えてある程度リラックスしてきた僕は、一応ノックを二回した後、思い切って部屋に入った。瞬間、部屋の生ぬるい空気がふわっと僕の横を通り抜ける。
少しくすんだ白い壁と、清潔そうなベッド。ベッドの横にはタオルや食器などが入った棚があって、その上に花瓶があって花があって・・・。一昨日見た時と、病室は相変わらず代わり映えしていなかった。その空間の中には・・・
そう。そして、彼女がいた。
白い清潔そうなベッドの上で美洲穂は、「冬峰 美洲穂」は静かに寝息を立てていた。僕は、病室にあった見舞い客用の椅子を彼女の横に置いて座った。せっかく見舞いに来たのだからと、何かしようとして、自分には何もする事が無いのに気づく。看護士さんの仕事がいいのだろう。部屋は完全に整っていて、言ってしまえば彼女も完全に「整っていた」。
僕は手持ち無沙汰に彼女の寝ている姿を見る。ここ一ヶ月でだいぶ髪が伸びたような気がする。入院する前は、肩くらいだったはずなのに、いまでは肩を通り越して上胸あたりにまで伸びてしまっていた。それは入院の長さと比例して伸びていく。どこまで伸びれば彼女は目覚めるだろうかと、ふとそんなことを思った。
彼女が眠っている・・・。吐息が漏れる・・・。髪が揺れる・・・。それをただ見つめる・・・。そんな時間がゆっくりと続いていく。そんな時間の中で思い出すのは、彼女との他愛ない会話。あれは確か、彼女の髪が茶髪になったのに気が付いたときの話だった。
ホームルーム前の少しのんびりとした時間、僕は冬峰の変化に気づいた。話し掛ける。
「髪、染めたんだ?」
「ああ、うん。中3時から茶髪だったんだけど、ここ面接あるでしょ?茶髪のせいで落ちたらヤダから、わざわざ黒にしちゃってさ。」
本当はそんなの必要無かったのにね、と彼女は笑った。
そう、彼女がいざ面接を受けてみたら、周りは茶髪だらけで黒髪のほうが異質なほどだった。
それを思い出したのか、彼女は一人はにかみながら、
「あれは気まずかったなぁ。自分が真面目ぶってるみたいで恥ずかしくてさ〜。わざわざ染めちゃった事を面接を待ってる間、ずっと悔しがってた。」
「あ〜、なんかその光景が間単に目に浮かんできた。悔しがる冬峰。怪しがる受験生。困惑する試験管。そして警官隊出動!」
アホ、と冬峰に叱られた。僕はそれに苦笑で返した。和やかな雰囲気、落ち着いた空気。
「それにしても冬峰も茶髪にしちゃったんだ〜。さらに黒髪の割合が減るな・・・。」
その言葉に冬峰が驚いた顔をした。
「え?もしかして鈴木って黒髪派なの?」
「ああ、なんていうか茶髪よりは黒髪って感じ。やっぱ黒の方が自然でいい気がする。」
「でも、黒ってなんか重くない?じゃあ、もしかして鈴木はこのまま染めないままなの?」
「そうだと・・・思う。」
それを聞いて冬峰は、
「う〜ん、別にいいけど茶髪もいいと思うよ〜。」
「あ〜・・・考えてみる。」
・・・禿げるからいやだなんて言えないよなぁ。
それで彼女との話は途切れた。勿論、こんな会話があったからといって、次の日彼女は黒く染めてました。なんて事は無かった。そんな事、期待してはいなかったけど、彼女と好みが違う事がなんとなく距離を感じさせた。そんなあの日。ありきたりだったけど、それでもあの日常が大好きだった。決して近づく事は無くても、傍にいて、彼女の元気な顔を見ていられるだけで満ち足りていた。なのに・・・。
眠っている彼女は辛そうではなかったけれど、それでもあの時の面影が見当たらないくらいには雰囲気が変わってしまっていた。それを責めることはできないし、彼女はなりたくてこうなった訳じゃない。責めたとしても相手が違う。勿論、責める相手と言うのは静香の事でもない。彼女は彼女で僕を思ってくれた。ただそれだけ。第一、彼女は目を覚まさなくなったのは突然だったのだ。
こうして彼女を見つめているだけでも時間は経つ。もう少しで面会時間終了というところまで来ていた。
誰が開けたのだろう。それとも自然に開いたのか。窓が少しだけ開いていて、そこから冷たい風が、少しずつ、すーっと入ってくる。
ここにいるのは僕と彼女の二人だけ。
本当だったら決して訪れる事の無かった部屋。
本当なら決して近づく事の無かった二人。
どこで変わったのか。そんな事をぼんやりと考える僕の眼に写った彼女の黒髪は、深い闇を彷彿させた。そういえば何故、彼女はまた髪を染めたのだろう?それは対抗意識か。それとも気まぐれか。そして、最後に言った台詞は「本物」か。
分からない。何もかもが分からない。何があって。何が消えて。どうしてこうなったかも勿論分からなくて。分かっているのは、彼女が目を覚ましていないという事だけだった・・・。