開幕:彼らの話
ささいなきっかけで悲しくなることがある。
ささいなきっかけで幸せになることがある。
人はそういう出来事と感情を溜めていっては忘れていく。どんなに抗っても少しずつ消えていってしまう様は、言ってしまえばある形での記憶と言うものの「死」に他ならない。
けれど僕達が最期まで覚えていたもの、「感情」や「出来事」といったモノは旋律となって曲を作り出し、寂しい僕らへの子守唄になる。悲しい気持ちで逝かないために。出来れば最期は笑っていたいから。
いつから僕達にはこんな仕組みがついていたかは分かっていない。知る必要も無いし、少なくとも人類はいままでそうやって死を受け入れてきたという事は確からしい。その時代に悲劇はほとんど無かったから。誰もが死など受け入れて当然と思っていたから。そしてこれからも僕らは恐怖を乗り越えられるはずだった。
けれどその仕組みに歪みが生まれ、子守唄は完全ではなくなった。
世の中に悲しい死が訪れ、絶望が充満した。人々の心はだんだんと恐怖と苦痛の間で壊れていった。
誰もが子守唄の再来を求めた。得体の知れない恐怖から逃げる方法を求めた。
けれど、子守唄が戻ってくるような事は無かった。暗い時代が続いた。そして、だんだんと子守唄の無い世界が受けいられていくようになっても、世界は暗いままで今もその状態は続いている。
そんなある日、とうとう世界に安息をもたらす人々が現れた。彼らは僕らの子守唄の歪みを直すことが出来た。
子守唄の復活に気付いた一部の人々は、すぐにその人たちを保護したり研究したりする機関を作リはじめた。
機関の人間は、子守唄をもたらす人たちのことを「シキシャ」と言った。
今も機関と「シキシャ」はどこかで死と対面している。
きっと、彼らの時間というものに安らぎは無い。人々の笑顔の裏にはいつも絶望が付きまとい、涙は尽きず、旋律は切ない。感動というものとは程遠く、いつまでも終わる事の無い道化が繰り返されていく。その姿は無様で滑稽だ。
けれど、それでも挫けず安らぎを求める「シキシャ」と歪んだ子守唄の人々は、綺麗な何かを必ず持っている。
だから、これは決して悲しい話ではない。奇妙に美しく、単純に儚いだけの話だ。
それでは始めよう。前奏など無い、成り行きまかせなレクイエムを。