婚約破棄ならどうぞご自由に。契約発動で公爵家へ格上げです
数ある中からこのお話を選んで下さりありがとうございます。
「ユリウス・グレイバーンはエリシア・ヴァルトラインとの婚約を、ここに破棄する!」
学園カフェテリアに響く高圧的な声。その視線の先には──本を抱えた“地味令嬢”がいた。
先程まで学園の図書館で、ようやく返却された本を手にしてホクホク顔だった私。
ようやく落ち着いた気持ちが掘り返される⋯⋯貴方に振り回されてばっかりだった。
地味で清楚で控えめな子が好きだって、ユリウスが言ったから。
だから私は、あの人の好みに合わせて“こういう私”を続けてきた。お気に入りだった華やかなリボンも、可愛い髪飾りも、全部やめた。
それなのに、他の令嬢たちは──
「ほんと地味よね、ヴァルトライン嬢って」
「清楚ぶってるけど、存在感ゼロじゃない?」
「ユリウス様の隣に立つには、ちょっとね」
私の耳には、いつもそのヒソヒソ声が届いていた。
それでも私は、聞こえないふりをして、笑って、本を読んで、やり過ごしてきた。
なのに今日、この仕打ち。
久しぶりにユリウスに呼ばれやってきたのはカフェテリア。
ちらりと周りを見てみると、お昼の時間なので多くの生徒が騒いでいる。
ユリウスの高らかな一声に「またか⋯⋯」「今度は誰だ?」と抑えた声がカフェテリア中で上がる。
呆れた反応を貼り付けて、剥き出しの好奇と悪意の目がこちらに向く。
そんなことを心に抱いていると、ユリウスが畳み掛けた。
「返す言葉もないのか。エリシアという透き通った清純な名前を持っているのに、なんて不相応なんだ。君みたいな本の虫で話も合わない地味令嬢とは共に歩む未来はない」
貴方が望んだ姿ではなくて?
肺が軋む。怒りのこもった目を一瞬だが、ユリウスに向けてしまう。
ユリウスの言葉に周りの令嬢たちが私の存在に気がついた。
「あのエリシア嬢が捨てられるなんて当然よね」
「まぁ、図書館にしかいないんだもの」
ヒソヒソではない。私の耳にしっかりと聞こえてきた。
それを気にも留めず、私は首を傾げて頬に手を添えた。その手は少し震えている。
私は気にしていないって、ちゃんと見せなきゃ。貴方には微塵の興味もないって。
私は感情の無い目でユリウスと視線を交える。
「かしこまりました。正式な婚約破棄としてお受け取りいたします」
「⋯⋯」
泣き崩れて『婚約破棄しないで』と懇願する私に、渋々条件をつけるような修羅場を想像していたようね。
絶対、ユリウスには良い気にさせない。
これが⋯⋯最後だもの。
さすがのユリウスも面食らった顔になった。
「エリシアが泣いて頼むなら、こちらも譲歩するけど──」
「本日のことはすぐに父へ連絡しますので、細かい調整は後日お願いします」
冬の湖の底に沈んだような静けさのカフェテリア。ユリウスも周りの令嬢もただ私をポカンと見つめていた。
胸を張る毅然とした態度。唇を噛みながら震える足で一歩、踏み出す。
そこに一定の間隔で鳴り響く私の靴の音がカフェテリアを出るまで続いた。
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目の前には肖像画からそのまま出てきたような整った顔に格式張った姿の父。
私は帰宅後すぐに父の執事にお昼の出来事を伝えると、夕食後に話し合いの場を設けてもらった。
「お父様、すみませんが本日ユリウス様から正式に婚約破棄をするとお話を受けました。300年に渡るグレイバーン伯爵家との関係を絶ってしまい申し訳ありません」
私は平然とした顔を作り、机の下に隠した手を強く、強く握りしめて耐えた。そして重く沈んだ心を引き上げるように深く、長く深呼吸をした。
ここで泣いてはダメ。部屋に帰ったら思いっきり泣けばいいわ。
穏やかで真面目な父はそれを聞くと頭を下げて左右に振った。
「いつも言っているだろう、嫌なものはちゃんと言ってほしい、と。だからエリシアの気にすることではないよ。ユリウス殿の人柄にあまりいい噂はなかったからね。向こうから婚約破棄にしてもらえて良かった」
そこへ慈悲に溢れる母が心配そうに私を覗き込んだ。
「辛かったでしょ? ユリウス様のことじゃないわ、エリシアが“自分を偽っていた”ことが⋯⋯辛かったのよね」
私は母の優しさが心にじわっと沁みた。
「お父様、お母様、ありがとうございます。正直、ユリウス様には恋心を微塵も感じておりませんでした。今は喉元のつかえが取れたようですわ」
本心をありのまま話す私。数々のユリウスから言われた心ない言葉たちに苦虫を噛み潰したようだったが、心に乱暴にしまい込む。
2人は私の態度を見てふっと力を抜き笑顔になった。
「そうしたら“あれ”に基づいてグレイバーン伯爵家へ書面の準備をしないといけないな」
父はそう言いながら、母に目配せをしている。それを見て母も頷いているようだ。
“あれ”って?
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数日後、グレイバーン伯爵家を訪れた私たち。
応接室に通される。
漆黒で艶のあるタキシードの父。
落ち着きのある深い紫色の上品なドレスの母。
流行のレースとシルクを取り入れつつも落ち着いた印象のドレスの私。
対して、目の前にいるのは──。
黄緑色の混じる奇抜な色のタキシードの伯爵。
若い令嬢に人気の私の物と造形の似ている乾いた血の色のドレスの伯爵夫人。
若い男性貴族が仲間内の時にする着崩したタキシード姿のユリウス。
挨拶が終わると、全く悪びれた様子のない伯爵から婚約破棄の書面を受け取る。
「うちのユリウスがご面倒をおかけしました。これにて正式な婚約破棄と致します」
ユリウスに似た高圧的な態度の伯爵。
ユリウスは父親似だったのかと大いに納得する。
父はその書面を大事そうに両手で受け取ると、重大事項のように上から下までじっくりと目を通した。
ふうと一息。父はその紙を執事に保管するよう言いつけた。そして執事から分厚い書類を受け取ると伯爵へ渡した。
「お互いの繋がりが無くなる時に有効となる契約書になります」
締結は300年前。
我がヴァルトライン伯爵家からの恩返しで結ばれた契約。それはグレイバーン伯爵家からの繋がりの終了により有効となる。
両家の繋がりは婚約だけではない。共同事業をしたり、お互いが助け合ったりすることも含まれる。
今回は──お互いの協議のもと行われた訳では無い、一方的な婚約破棄。
十分、契約発動の条件となる。
グレイバーン伯爵は眉間に皺を寄せ、初めて見るもののように訝しげに書類をめくり始めた。伯爵夫人も初めて見るようで脇から覗き込んでいる。
そこへ執事が言葉を添える。
「では、契約に従い、グレイバーン伯爵家の土地・領民・鉱山・商業権益の譲渡契約の破棄・ヴァルトライン伯爵家への返還をいたします」
書類をめくる度に引いていく伯爵の血の気。隣で見ている伯爵夫人も仲良く顔色を揃える。
顔面蒼白なまま、抑えきれない気持ちとともに驚きの声が漏れる。
「は? 8割?」
「領地の半分以上?」
「は? 商業都市ごと?」
「うち、何も残らないんだけど???」
1人事情の飲み込めないユリウスは慌てて伯爵と父を交互に見ている。
私は下を向いて喉の奥がきゅっと締まるのに耐えた。
伯爵の書類を乱暴にめくる手は止まらない。伯爵夫人は前のめりになって書類の文字を追っている。
最後の書類をめくり終わると、へつらい顔で父を見てくる伯爵。面白くもないのにとびっきりの笑顔を張り付けている。
父は事務的に付け加える。
「ご存知かと思いますが、こちらの契約書は300年前に締結済みです。変更は出来ません」
そこへ執事が父の方へ屈んで皆に聞こえるように伝えた。
「王室への届け出はすでに受理、また本日付で全資産返還手続き済みです」
そして国王サイン付き公文書を執事が出すと、グレイバーン伯爵は大きく頭を垂れてソファに根を張ったように動かなくなった。
両家の話は貴族の間で瞬く間に広がり混乱と驚きに周りが騒がしくなった。
元々グレイバーン伯爵家のおよそ8割が実質ヴァルトライン伯爵家の物だった。
歴代のグレイバーン伯爵家の当主は、ヴァルトライン伯爵家との繋がりをなんとしてでも絶たないようにしてきた。
グレイバーン伯爵の役目はヴァルトライン伯爵家と良好な関係を築くことだけ、と言われた時代もあったほど。
事の重大さにようやく気がついた伯爵やユリウスが詫びても誠意を見せても全く意味のないものだった。
あの日以来、グレイバーン伯爵家は何やら騒がしいようだ。
報われた─その言葉で胸が溢れた。
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ヴァルトライン伯爵家に王室から使者がやってきた。
それはなんと王様の側近─フレデリック・ヴァン=ローゼン。
王室の本気度が窺える。
爽やかで、深みのある相好を崩した顔は長年の旧友にでも会ったような親しみがにじみ出ている。
「これでようやく、我が国の正式な公爵家にお願いできますね」
グレイバーン伯爵家との繋がりから断固として遠慮してきた。
グレイバーン伯爵家にあった8割が戻って来たことで、本来ある公爵家に匹敵するほどの力と影響力に戻ったのだ。
その王室とヴァルトライン伯爵家の戦いはいつも水面下で行われていた、がついに勝敗は王室へと傾いた。
その長きに渡る戦いから解放され肩の荷が下りたように、肩の力を抜いてみせるフレデリックから極めつけの一言。
「国王陛下直々の要請でございます」
穏やかな顔をして見ていた父はそれを聞いて、静かに微笑んだ。
「我が家は伯爵家としての矜持がありましたが⋯⋯これも時代の流れですかね」
「はい、正式な公爵家となった暁には盛大なセレモニーパーティーを予定しております」
王室の本気度が窺える。
これには父も目を丸くした。
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そして迎えたセレモニーパーティー。
父にはこれまでにないほどの貴族に入れ替わり立ち代わり輪を作られている。
その隣では母がサポートをしている。
あれはなかなか終わらないだろう。
私はパーティー会場を歩き始めた。
ダンスホールの端には壁の花がぽつぽつと咲いている、と見つけたのはユリウス。
いつもの調子に見えるユリウスは「俺なら逆転できる」と息巻いていると噂で聞いたがその通りのようだ。
ユリウスに婚約破棄を告げに行ったとき、彼の父親は根拠もなく、やたらとユリウスを持ち上げていた。その姿を見て、ふと胸の奥で思った。──ああ、こういう過剰な甘やかしが、彼のあの傲慢さを育ててしまったのかもしれない、と。
いつもの高圧的な調子で手当たり次第、令嬢にアプローチをかけている。
1人、2人、3人⋯⋯。
誰も誘いに乗ってくれなかったようだ。
勢いの完全になくなったユリウス。肩身が狭そうに自分の腕を抱きながら壁に張り付き、うなだれている。
その様子を見ながら、よそ見をしている私。
誰かとぶつかってしまった。
黒髪の眼鏡をかけた落ち着いた男性。
彼は私を見ると、背筋をすっと伸ばして貴流の挨拶をした。
そこへ彼は何かに気がついたような顔をして、口元を大きく緩ませた。
その端正な顔にユリの大輪が咲いたような笑顔に私は目が離せなかった。
「もしかして図書館の本の姫ではありませんか?」
図書館の本の姫とは、なんて素敵な名前なんだろう。驚きと嬉しさが押し寄せる。
ユリウスには見向きもされなかった本。
彼の純粋な言葉に呼吸が乱れる。
「はい」
それと共に、私もその“何か”に気がついて喜ぶ。
いつも読みたい本が借りられていた。
その名は─。
「貴方はもしかしてリヴィエール公爵子息でしょうか?」
期待の目は彼の唇に注目する。その唇はゆっくりと横へ伸びて口を開いた。
「はい、私はクロード・リヴィエールです」
クロード・リヴィエール─次期公爵家当主候補。
ずっと気になっていた、私より先に本を借りていく貴方。その静かで落ち着いた瞳に惹き込まれる。
その名前しか知らない貴方に独りよがりに心を寄せていた。
一歩、近づくと、もっと知りたくなる。
「いつも気になっていたのです。司書の方から出るリヴィエール様のお名前。一体どんな方なのだろうと⋯⋯なんのお話を読んで、どんなお話が出来るのだろうか、と」
嬉しさのあまり、私は心の内を正直に話した。
「この後、時間がありましたらバルコニーでお話しませんか?」
クロードはぎこちなくこちらへ手を添える。
その大きな手は私の小さな頼りない手をそっと包みこんだ。
私は興奮のあまり周りを全然気にしていなかった。
その2人の出会いを目の当たりにしたユリウスは絶望したような顔で「⋯⋯嘘だろ⋯⋯」と呟いた。
そのユリウスを含めた3人を見て周りの令嬢は「あのクロード様が令嬢を気にかけるなんてありえないわ」「あそこにいるのユリウス伯爵子息じゃない? 自業自得よね」などとヒソヒソ話している。
クロードのエスコートで夜風の気持ちの良いひらけたバルコニーに出る。
パーティーの喧騒がBGMになる。自分の衣擦れの音さえも聞こえてきそう。
「この前読んでいた本に続編があるのをご存知ですか?」
「えっうそ!」
私は目を輝かせると、クロードにぐっと迫る。
クロードの息づかいを私は頬に感じた。息を飲む私は目が少し潤んでしまう。顔が急に熱くなり、地面に根を張ったように動けなくなった。
やっとのことで視線を逸らす。
「ごっ、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ⋯⋯すみません」
そしてお互い赤面して離れながら、謝る。
クロードは空を見ながら深呼吸をしている。私は下を向いたまま。それでもクロードの靴を見て、そこに彼がいることをしっかりと確認してしまう。
優しく穏やかな声が私に降り注いだ。
「⋯⋯今度、続編をお持ちします。これからは、図書館だけじゃなく、お隣で本を選んでもよろしいですか?」
「はい⋯⋯ぜひ、ご一緒に」
私は思わず頬を押さえた。顔が熱い。心も少しだけ浮き立っていた。
じんわりと相好を崩すクロードを見て、満面の笑みが咲いた。
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それから私たちは学園の図書館で何度も顔を合わせた。
私は返却する本を腕に抱えて。
クロードは私に貸す本を手に持って。
図書館の外のベンチも好きになった。クロードと楽しい話を出来るかけがえのない場所だった。ぎこちなく座る私たちには触れられないほどの隙間が空いている。
クロードは私が知らない本もよく読んでいた。クロードが好きな本を読みたい、そしてお互いの感想を言い合って楽しい時間をもっと過ごしたい。私はクロードのおすすめの本を何冊も借りた。
するとクロードは私が薦めた恋愛小説を読んでくれた。けれど──その感想は、いつもの彼らしからぬそっけなさで。
「⋯⋯ごめんなさい、私、押し付けがましかったかしら」
「ち、違うんです。あの話のヒーローが、君の理想の相手かと思ったら⋯⋯嫉妬してしまったんです」
その耳まで真っ赤になっているクロードに抱きつきたい衝動を抑えて、この先の未来を想像してしまった。
そんな日々はゆっくりと本のページをめくるように過ぎていく。
今日も話に花が咲く。私たちはベンチにピッタリと横にくっついた日、クロードから婚約を申し込まれた。
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クロードとの婚約の顔合わせを終えて帰ってきた私。
先ほどの和やかムードの会食を思い出して口元を緩める。私とクロードがあまりにも本の話に夢中になるので両親は終始見守るような笑顔のままだった。
「これで、あとは前だけ見ればいい」
前を見るといつまでも仲睦まじい父と母の背中。そっと差し出される父の手に、母は近づき腕に手を添える。
あぁなりたいなと感じると、恥ずかしさに頭を左右に振る。
まだ、婚約もしたばかりだと言うのに欲張りなことを考えているわ。
熱くなった顔を落ち着けようと両手で頬を覆う。視線を感じて周りを見ると執事も侍女たちもお祝いムード。
その温かな眼差したちに、むず痒くなる。
鏡に映る自分を見て、私は少し驚いた。昔の“清楚ぶった”自分ではない。
輝きは静かに、けれど確かに──“自分らしさ”として咲いていた。
そうそう、グレイバーン伯爵家は降格になるそうだ。男爵にも値しない、貴族から降格させようかとの話も出たそうだが、泣き落としにかかっているよう。
以前まで彼らに擦り寄っていた令嬢たちは、いまや顔を合わせても軽く頭を下げることさえしない。
今頃、ユリウスは“絶賛花嫁募集中”だろう。
学園の通路脇で、ユリウスを見かけた。
『本の虫』だと嫌味のような口調で言っていたユリウスはかつての威圧感など、すっかりなくなり壁に止まった虫のように縮こまっていた。
私はずっと、ここに抱いていたことがある。それは私の中で『本の虫』は本が大好きな人に向けた尊敬の言葉だった。なのに本当に『虫』のような扱いをして使ってくるなんて気分が悪い。
ふとユリウスが顔を上げたので、私は隠れる暇がなかった。私を見るその目にはなぜか光が宿る。
私は世界で1番嫌いな虫とユリウスの姿を重ねて、この世のものとは思えないほど、それはもう冷たく軽蔑した目を向けた。
せめて私の見えないところで、すべてを受け止めてくれる壁にでも虫みたいに張り付いていればいいのよ。
「──さようなら、元婚約者様。お邪魔虫には、ならないでね」
私はユリウスから視線を外す。
あぁ、こんな悪い顔していたら、クロードさまに嫌われてしまうわ。
頭を左右に振ると気持ちを切り替えて、これから迎える幸せな日々を想って、クロードにしか見せたことのない輝いた顔になる。
これからは心から愛おしいクロードの横で好きなだけ本を読み、好きなだけ笑える。
そんな当たり前が、今はとても嬉しい。
この先もっといろんな貴方が見れるのだろうか。その幸せな未来に一歩、踏み出した。
最後までお読みいただきありがとうございました!
誤字脱字がありましたらご連絡お願いします。
→誤字脱字報告本当にありがとうございます!
[追記]7/5昼
祝・日間総合16位!!(泣)
皆さまありがとうございます!
300年前に何があったのか気になる、とのお声がありましたので、以下に記載します。気になる方はお読みいただければ嬉しいです!
300年間前──。
エリシアの家門・ヴァルトライン伯爵家は王室親和派。
対して、ユリウスの家門・グレイバーン子爵家は王室反対派。
その年の異常気象により、主食であった小麦が大損害に合い、王室は特別徴収を余儀なくされた。そこで各領地へ小麦の徴収を命じた。不幸にもヴァルトライン伯爵家は領地の中でも、その損害が直撃。その年に自身の領地だけでも生活が危ぶまれていた。
そこで王室へ相談。だが、反対派の大領地は損害を免れ恩を着せるように提示された量を遥かに超える規模の小麦を献納した。その大領主から『小麦の免除は不平等だ』と声が上がった。
仕方なく王室は【最低小麦量と差額は家畜等の代替品の献納】、“または”【多額の金銭】か【領地の一部】の献納のどれか、という条件になった。なお、領地の一部は今回徴収分より余剰を貢献した領地に貢献具合で割振るというものだった。
大領主はヴァルトライン伯爵家の領地が狙いだったのだ。
今回の大損害でヴァルトライン伯爵家は多額の金銭で損害を補填。【領地の一部】の献納しか方法がなかった。
隣のグレイバーン伯爵家はその前の年に領主が亡くなり代替わりしていた。
新しい領主は何と20歳の若き青年。
日頃から『領主たる者、何よりもまず、人の心に寄り添いなさい。領地とは、ただの土地ではない。そこに生きる民の想いがあってこそ、初めて息づくものなのだから』と教えられてきた。それは領民だけではない。
派閥が違っても同じ人、だと若き青年は考えた。困っているヴァルトライン伯爵家に自分には何が出来るだろうか──。
そして王室反対派にも関わらず、王室親和派ヴァルトライン伯爵家に小麦を提供すると提案した。
その結果、ヴァルトライン伯爵家はグレイバーン伯爵家からの小麦と残りは家畜で徴収分を献納することができた。
その時、返すことが出来ないほどの恩を感じたという。
これを見て怒った反対派の大領主はグレイバーン伯爵家に攻め入ろうとした。
そこでヴァルトライン伯爵家はグレイバーン伯爵家に親和派になることを勧めて引き入れた。
そして、若き青年に自身の領地の一部を特例譲渡という形で引き渡した。その領地は王室が提示した倍にも上る。
そこで話し合いの結果、出来たのが今回の“契約”だったのです。
歴代の領主たちはこのことを深く胸に刻み、良好な関係を築いていた。
そう、今のグレイバーン伯爵になるまでは──。