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レゼ・ウンバ

 どこまでも広がる青い空、降り注ぐお日様の日差しに照らされて、静かな森がいきいきと輝いている。お天気に恵まれて、体調も良好、不都合なんてあるはずない、絶好のバーベキュー日和が訪れていた。


 立ち上る煙と共に、肉の焼けるとても良い香りが広がっている。その様子を千恵はじっと見つめていた。


 網の上で焼かれている厚みのある肉から肉汁が滴り落ちて、それを受け止めた炭がたちまち燃やし尽くして、その度にじゅっと音を上げる。目の前の光景がとてつもない食欲に変化して、沸き起こる高揚感で、千恵はとっくにやられてしまっていた。欲求のバランスを胃袋に支配されたまま、今か今かと待ちわびていた。


 右手に割り箸、左手にタレの入った皿を持って、網の上で焼かれているちょうど良い頃合いの肉に当たりをつけた。狩りに挑む獣の眼差し。この時をずっと待っていた。いよいよ肉が焼けた、すかさず千恵が動き出す、右手の割り箸で素早く獲物をかっさらって、タレに絡めて、それからふーふー息を吹き掛ける、それからぱくっと口に入れる、その直後、忙しげに「はふはふ」と口の熱を逃がそうとして苦戦した。熱い。しかしそれだけではない、味わいを噛み締めているうちに口いっぱいに広がる至福、たちまち千恵の顔がほころんでいく、目が輝いて、こみ上げる喜びの全てをこの時だとばかりに、惜しみなく発揮する、バーベキュー日和。


「美味しぃーっ!」


 割り箸ごと右手をぐっと握りしめて、全身で気持ちを伝える、口からあふれ出た言葉、今この瞬間の早坂千恵が表現された。


 そんな千恵を祝福するように、魔の森の穏やかな風が髪を揺らしながら吹き抜けていった。幸せが一つの奇跡として表されているようだった。ようやく始まった食の祭典に、腹ぺこで待ちわびていた千恵はご満悦だった。ありがとうこの世界、私は今、とっても幸せです。心のシュプレヒコールが何度も続いていた。


 そんな光景を微笑ましく眺めながら、エリスは気になっていた事を口にした。


「チエは不思議です。とても不思議な力を持っているけど、貴女自身は普通の少女に見える、なのに魔の森のこの場所にいた」


 あらためてかっさらった肉を口にして、嬉しそうにもぐもぐ味わっている千恵は、急に何の話だろうかとエリスを見た。そんな千恵を見つめながらエリスは問いかける。


「良かったら私に、貴女の事情を教えていただけませんか」


 もぐもぐしていた肉をごっくんと飲み込んで、千恵は質問の意味を考えた。色々なものが胃袋の辺りに渦巻いていたので、少々時間が掛かった。エリスが大丈夫かなと心配し始めた頃に、ようやく千恵が質問に答えた。


「私の事情……。あっ、そうだった。私、気づいたらこの場所にいたんです!」


 千恵が興奮気味に言った。


「気づいたら」


 要領を得ない千恵の言葉を反芻して、今度はエリスが考えた。それを見て、さすがに今のじゃ分からないかと思った千恵は、網の上で焼かれているものを箸で取ってから、自分の経緯を最初から語ることにした。


「私はたぶん、この世界とは違う所から来たんだと思います。地球という星の日本という所から」


 ここまで大丈夫かなと目で問いかけると、エリスは理解していると頷いて示した。それに気を良くした千恵は話を続けた。


 自分が就職活動中だったこと。今日の朝、会社の面接に向かうために家を出たこと。そうしたら突然、まばゆい光に包まれて、気づいたらこの場所にいたこと。


 腕時計もスマートフォンも使えない。その代わりに、謎のディスプレイが目の前に現れて、それを色々といじったら今度はマグカップが現れた。それから色々なものを購入して、コーヒーを入れてくつろいでいた。お腹が減ったなと思って、今度はバーベキューセットを購入して、さあこれから組み立てるかと思っていたところに、エリスがやって来た。


 黙って自分の話を聞くエリスに、千恵はこれまでに起こった出来事を説明した。


「腕時計とスマートフォンが使えない」


 千恵の話を聞いて、エリスは気になった点について考えた。それからすぐ千恵に言った。


「とりあえずその二つを、見せていただいて良いですか」

「二つを。あっ、ちょっと待って下さい、スマホはバッグの中だったな。取ってきます、とりあえずこれどうぞ」


 千恵は、手にしていた割り箸と皿をテーブルに置いてから、手首から腕時計を外して渡した。エリスがそれを受け取ると千恵は、今度はあわててバッグの置いてあるところへ向かった。千恵のそんな様子を目で追ったエリスは、とりあえず腕時計に解析魔法を施すことにした。


「おお、魔法だ」


 間もなく、スマホを手にした千恵がそう言いながら駆け寄ってきた。エリスは、解析を終えた腕時計を千恵に返して、今度はスマホを受け取った。期待のこもった目で千恵がその様子を見守る。


「なるほど」

「何か分かりましたか?」


 スマホの解析を終えたエリスが言うと、千恵がさっそく聞いた。あらためて自分の置かれている状況を思い出して、焦りを感じてしまって、それで何でも良いから情報が欲しかった。スマホを千恵に返しながら、エリスが頷いた。


「検証の結果、恐らくこの世界には、チエが持ち込んだ電子機器を機能させる現象が存在しない。なのでそれ等のメカニズムも起こらない。私はそう解析いたしました」

「えっ、存在しない、起こらない、それってどういう事ですか?」

「そのままの意味です。腕時計もスマートフォンも、動力源そのものが機能を失っている、なのでこの世界では動かせません。きっかけそのものが無いので、起こりようがないのです」

「あの、それじゃあ、腕時計とスマホは動かないとして、私はこれからこの世界で、どうしたら良いんですか」


 落ち着いて解説するエリスに、すがるように質問する千恵。自分の知らない世界にいる中で、一番大事なのはそこだった。


「すみませんが、その質問に関しては私にも分かりません」

「……えっ、分からないの」


 エリスが答えると、青ざめた表情で千恵が呟いた。少なからず期待していた希望が失われて、思わずエリスを責める気持ちになった。


 そんな反応を見せた千恵に、エリスは申し訳ないなと思いながら、別の頭で考えた。どうにも腑に落ちないところがある。


 ワイシャツやリクルートスーツを着用しているのに、千恵は問題なく活動できている。地球の物を身に付けているにも関わらず、その機能性は損なわれず、当たり前のように身動きが取れている。そして、時計や携帯電話は機能しなくなっている。


 衣服と腕時計とスマートフォン。この世界と地球の法則性とを照らし合わせて、可能な事と不可能な事があるのだろうか。


 そして何より、千恵の不思議な能力。いったい何が起きているのだろう……。


「聞いて下さいチエ。私は旅していて、ちょうどこの森の側を通り掛かっていたのです。そしてこの場所から、とても強い魔力反応を感じたのです。なので原因を確かめに来ました。それから、中心と思われるこの場所で、貴女と出会いました。チエ、辺りを見回してみて下さい」


 さっきまでの喜びの顔から一転、青ざめた表情で呆然と立ち尽くす千恵に、落ち着いた声でエリスは語って、それから辺りを見るように促した。


 少し反応が遅れた千恵が、言われるまま周りに目を向けた。それを見たエリスが話を続ける。


「突然起こった魔力反応を警戒して、森の生き物達は未だに、この場所に近寄らない。だから普通なら聞こえるはずのものが聞こえない、生き物達の鳴き声、さえずる鳥の鳴き声すら響いてこないのです」

「確かに。そう言われてみると静かすぎますね」


 今まではぜんぜん気にならなかったけど、確かにエリスの言う通り、森は静かだった。


「はっきりとしたものではありませんが、実は私には、前世の記憶があります」

「前世の記憶?」


 エリスの話の内容が急に変わって、今度は何だろうと、千恵は思った。


「はい。チエの生まれた地球という星の、日本という国に住んでいた記憶が」

「日本の。じゃあ貴女は日本人だったんですか」

「恐らくは──」


 驚いた千恵に、エリスは自分の知る物語を語り始めた。あくまでも自分の人生において、この世界は、物語の世界であるという風に前置きしてから。


 魔の森も含むこの地をグレース大陸という。そして、ここから東にコースト王国という国がある。エリス・マーガリン・サーズデイは、そのコースト王国の貴族、サーズデイ公爵家の公爵令嬢だった。さらに付け加えると、悪役令嬢という立場でこの世界に存在している人物だった。


 エリスの婚約者である王太子殿下と、その恋人となる聖女の少女、愛し合う二人に嫉妬して、その中を引き裂こうとする悪役令嬢。紆余曲折の末、王立学園の卒業パーティーで殿下から婚約破棄を告げられる。その結果、王子様と庶民である聖女様の恋は結ばれて、幸せになる。悪役令嬢は破滅する。


 とても甘い恋の物語の登場人物だった。


 物心ついた頃から、エリスは、ぼんやりと前世の記憶がある事を自覚していった。何かに集中している時や、逆にくつろいで過ごしている時に不意にやってくる、曖昧な情報が浮かんでくる事があった。


 その度に、ここが物語の世界で、それを知る唯一の存在であるという確信を深めながら育った。自分のフルネームの適当に名付けた感じから察するに、もしかしたらふざけた作風の物語だったのかも知れないと、複雑に思った。


 前世の自分はブラック企業という、商人達の集まる商会で働いていた。そこで営業という役割を任されている、社畜という立場の人物だった。


 エリスは語る。地球で生活していた頃の前世の自分は、ノルマという特殊な誓約に追われるようにして働き、商会の規則に従ってサービス残業を強いられながら、肉体と精神を蝕む辛い労働に耐え続けていた。ぼんやりとした記憶であるにも関わらず、それはまさに地獄のような日々であったと。


 その時の事を話し始めてから、だんだんエリスの目から輝きが失われて、腐臭を放つ腐った底無し沼のように濁っていった。前世の闇をさらけ出した身の上話に、就活生である千恵はやるせない気持ちになっていた。お互いに暗い雰囲気を漂わせながら、エリスの話は続いた。


 前世の自分は、休息の日が訪れると夕方まで泥のように眠って、起きてもまだ疲れの抜けないまま、ぼうっとした状態でインスタントラーメンというものを食べながら、パソコンという魔法のアイテムで、キャンプ動画を視聴するのが唯一の安らぎだったのだと。


 そんな前世の記憶があって、なおかつこの世界が物語だと知ってしまったエリスは、誰にも相談ができない孤独を、幼い頃から感じていた。


 お父様におねだりして公爵家の屋敷に、魔法と錬金術を研究する自分専用の部屋を設けてもらった。エリスはそこで追われるようにして、あらゆる物を作り出してきた。今着ているジャケットとパンツ、履いているブーツも、研究の成果なのだと言う。


「こういう風に言うと、貴女にとっては失礼な話かも知れません。それでも私は、前世では一度も出来なかったキャンプをまさか、生まれ変わったこの世界で、それも日本から来たチエと一緒に出来るだなんて、実はとても感動しているのです。本日はこの私とご一緒していただいて、本当にありがとうございます。心よりお礼いたします」


 真剣な顔でそう言うとエリスは、頭を下げた。好奇心でこの場所に立ち寄っただけの自分は、悲劇に見舞われた目の前の少女に対して、あまりにも不誠実だったと反省していた。その反面、まだ短い間柄なのに、一緒に過ごしていた時間は本当にわくわくして、すでにもう千恵の事が大好きになっていた。だからこそ、こういう形で気持ちを伝えたかった。


 頭を下げるエリスに焦った千恵は、あわてて両手を振りながら答えた。


「あっ、頭を上げてください、お礼を言うのは私の方です。気付いたらいきなりこの世界にいたので、私は一人で寂しかったんです。そこにエリスさんが来てくれて、私は本当に安心して、嬉しかったんです。だからお礼を言うのは私です。本当にありがとうございました」


 そう言うと今度は千恵が、両手を揃えて頭を下げた。エリスに対してさっき、何で八つ当たりのような気持ちを覚えてしまったのだろう、その事を後悔していた。自己嫌悪を感じて罪悪感を覚えた。その反面、この場所に来てくれたのがエリスで本当に良かったと、彼女と出会えたこの奇跡に感謝していた。とっくに大好きになっていた。


 それから、エリスと千恵は同じタイミングで頭を上げて、お互いに顔を見合わせた。そして同時に吹き出した。良く分からないけど、とにかくおかしく感じられてしまって、なぜだか二人してそうなった。


 ──この運命の巡り合わせはいったい何なのだろう。


 お互いに考えていた。


 身の上話の後ということもあって、遠慮がちにしていた二人は、それでも時間が経つとだんだん気が緩んで、生まれた世界も立場も違うはずなのに、まるで気心の知れた友達のように笑い合った。


 その時、森から若い男が現れた。金髪に青い瞳、白い肌に整った顔立ち、特徴的な長い耳、いかにもエルフという格好をしている。音もなく現れた男、最初に気づいたのはエリスだった。


「誰だ!」


 男の存在を確認した瞬間、エリスは楽しげな様子を一変させて、鋭い恫喝と共に身構えた。突然のエリスの変貌に、まだ男の存在に気づいていない千恵が戸惑った。


 エルフの男は、自らの安全を示すように両手を上げ、千恵とエリスに話し掛けた。


「怪しい者ではない。我が名はレゼ・ウンバ、森の奥深くにあるエルフの集落からやって来た。けっして貴女方に危害は加えないと誓う。なので、もしよろしければ胃袋を刺激する香りをさせたその料理を、ご相伴に預からせて頂けないだろうか」


 真剣な眼差しで告げた。ここでようやく男の存在を確認した千恵は、てっきりコスプレだと思った。しかも、かなり気合いの入ったコスプレだと思った。なのでガードが緩んでいた。


 どうやら彼は、自分達のバーベキューに混ぜて欲しいようだ、仲間になりたそうな顔をしている、それに何だか弱々しい感じがする、もしかしたらお腹が空いているのかも知れない。


 日本では見慣れないはずの非日常的な装いが、ある種の見慣れたカルチャーに変換されて、千恵は少し同情した感じで、突然現れたエルフの男を受け入れようとしていた。


 その反面、エリスは冷静だった。レゼ・ウンバに疑いの目を向けたまま、収納魔法を行使した。


 エリスが起こした収納魔法を見て、レゼ・ウンバはうろたえた。やはり警戒させてしまった、こんな森の中で女性二人という状況なのだから当然の事だ、自分はもっと上手く、彼女らに心を開いてもらう努力をするべきであった。


 レゼ・ウンバがそこまで思い至ったところで、エリスは収納魔法から腕輪を取り出した。そしてそれをレゼ・ウンバの足元に投げた。エリスは問い掛けた。


「その腕輪は貴方を強制的に無力化する魔法器具です。腕にはめた瞬間から魔法を使えなくなり、私達に危害を加える事も叶わなくなる。そして、その効果は私が解除するまで続きます」


 そこまで説明して、目の前の相手の理解を確認するように反応を見た。レゼ・ウンバが、エリスの言葉に頷いた。それを認めたエリスは改めて語り始めた。


「もしこちらに来る場合は、その腕輪を身に付けて下さい。これは警告です。もしも装着せずに近づいた場合、私は力ずくで貴方を無力化致します」


 レゼ・ウンバを睨み据えて、そう言い放つエリス。再び頷いたレゼ・ウンバ。一触即発の雰囲気に、何事かと慌てる千恵。


 レゼ・ウンバは、エリスと千恵を安心させるように、ゆっくりとした体の動きを心掛けて、足元にある腕輪を拾う。そして、ためらう事なく自らの右腕にはめた。


 それを見て、安堵の息を吐き出してから、エリスがレゼ・ウンバに言う。


「受け入れてくれてありがとうございます」


 冷静に見えるエリスだが、レゼ・ウンバが現れてからずっと恐怖を感じていた。力量を計れなかった、気づいたらそこにいた、どれ程の存在なのか分からなかった、エリスは震える程の恐怖を感じていた。体を無理矢理動かして対応しながら、頼むから従ってくれと、祈るような気持ちでいた。レゼ・ウンバが腕輪をはめた瞬間、一番安心していたのはエリスだった。


「いきなり現れた見知らぬ者を疑うのは、当然の事。申し訳なかった。そして、こちらこそお礼を言いたい、受け入れて貰えて感謝する」


 油断したら腰を抜かしそうなエリスに、レゼ・ウンバが答える。その間、二人のやり取りを聞いていた千恵は、今度は何だと思っていた。話しにまったくついていけてなかった。


 のんきな千恵の様子を横目で確認したエリスは、心底羨ましいと、少し気の抜けた感じで思っていた。


 森のエルフがやって来た。

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