早坂千恵
良く晴れた青空の下で、ぼんやりと、穏やかな風が吹き抜けていくのを感じている。草木の香りが運ばれてきて、それが清々しくて心地良いと思う。
降り注ぐ日差しに照らされて葉を輝かせている木々、それが周囲を囲むように立ち並んでいる景色、そういう森の中に剥き出しの土の地面が広がっていて、不自然に丸く開かれた広場のようになっている場所。
自分が突然、前触れもなく現れてしまったのはそういうところだった。早坂千恵はそういう現実を見つめていた。
22歳、彼氏なし、現在就職活動中、きちんと整えた黒髪のショートカット、化粧はしているもののまだ幼く見える可愛らしい顔立ち、ワイシャツにリクルートスーツのジャケットとスカートという格好、キャンプ用品の椅子に腰掛けながら、ただ目の前の光景に視線を合わせている。
おもむろに、手にしていた金属製のマグカップを持ち上げて、コーヒーの香りを感じながら、誰に気兼ねする事なくそれをすする。苦味と酸味と慣れ親しんだ味が口に広がって、全身の力が抜けていくのが感じられた。
足元の地面に、アウトドア用品のローテーブルが置かれていて、その上にミネラルウォーターのペットボトル、スティックタイプのインスタントコーヒーの箱、スプーンと小型ナイフが乗っている。
ローテーブルの側に、火の点いたコンパクトバーナーが置かれていて、バーナーの上でケトルがお湯を沸かしている。注ぎ口から蒸気の湯気を上げている。
傍目に見たら、森に囲まれた自然の中でのんびりとキャンプをしている若い女。リクルートスーツという格好を別にしたら、そういう趣味を満喫しているふうに見える。でもそれは本人が望んだものではなかった。さっきからずっとぐるぐる、何でこうなったのかと思い返していた。
「これからどうしよう」
キャンプ用のローチェアにだらしなく腰掛けて、千恵はぽつりと呟いた。ここにいる理由も、ここがどこなのかも、そもそもこれからどうすれば良いのかも分からない。それで途方にくれていた。朝起きて、家を出るまではいつも通りだった。
就職活動中の千恵は、今日も元気に会社の面接に向かおうと、意気揚々と自宅を出た。でも玄関から外へ出た瞬間、まばゆい光に包まれて、そして気が付けばこの場所にいた。訳が分からなかった。
家から出たぐらいで光に包み込まれるのがまず分からなかった、気がつけばこの場所にいたというのがもっと分からない、目の前に広がる大自然も訳が分からない。まるで夢を見ているような気持ちで、起こった出来事に取り残されていた。
「……えぇ。何ここ?」
そのアクシデントが起こった時、千恵は混乱しながら、かすれた声で呟いた。それから、人さらい、超常現象、動画配信のどっきり、それともまさか宇宙人、でもそれらしい存在はいっこうに現れない、なんだか置いてきぼりにされているような気がする。フル回転の頭で色々と考えた。そして考えても分からない状況に、やり場のない気持ちで呆然と立ち尽くしていた。
それからしばらくして、こうしていても仕方ない、とりあえず時間を確認しようと思って腕時計を見た。就職活動に合わせて買った、まだ付け慣れていない新品のもの。千恵は自分の目を疑った。
「えっ!」
時計の針は、家を出た時刻を指していて、さらに秒針が動いていない。
「何で動いてないの、買ったばっかだよ?」
取り乱した千恵はあわてて左腕を振った、それからあらためて文字盤を睨み付けた。時計の針は止まったままだった。嫌な予感が膨らんでいくのを感じた。
就職活動に合わせてスーツなんかと一緒に買った新品のはずの腕時計、何でそれが止まっているのか。予想のつかない出来事が続いて苛立ちを覚えていた。
「あーっ。もうとりあえず電話しなきゃ」
こうしている訳にはいかない、これからどうするかはともかく、面接先に遅れるという報告だけでも伝えなければいけない、そう思った。
果たしてこんな場所にいて、向かう事が出来るのかとも思ったけど、そういう冷静な考えにあえて蓋をして、千恵は「ホウレンソウ、ホウレンソウ」と呟きながら、左肩に掛けたバッグのファスナーを開けてスマートフォンを取り出した。
何て説明したら良いのかと考えながら、さっそく電源を押してスマホを起動させた、そのつもりだった。いつもならぱっと点くはずの初期画面が浮かび上がらない。
「えっ、何で?」
おかしい、そんなはずはないとうろたえながら、もしかしたら電源を切っていたのかも知れないと千恵は考えた。
「ああ。面接だったから緊張してて間違えちゃったのかも、たぶんそんな感じだ」
苦笑いを浮かべながら、よくある失敗だと気を取り直した。それから電源ボタンを長押ししてみた。
「あれ?」
スマホはまったく反応しなかった。画面には千恵の引きつった顔が反射して映っているだけだった。あせりと不安と動悸が激しくなったのを感じた。これだって新しく買ったばかりの最新のスマホだ、壊れているはずがない。もう一度電源を長押ししながら考えた。この時、もしかしたらという不安が千恵の頭に浮かんだ。
「これって本当にやばいのかも」
すでにもう、色々と手遅れなのかも知れない。現代人にとって必要不可欠な通信機器が働かない、ここがどこかも分からない、助けを呼べない、助けがあるのかも分からない。
「これってもしかしたら終わってる?」
ここまで、なんだかんだいってけっこう何とかなるんじゃないかと、今回の事もきっとそうだと、千恵は気楽に考えていた。でもやればやるほど上手くいかない。いよいよ体に冷や汗を感じるようになってきた。頭の方もだんだん、考えがまとまらなくなってきた。こんな訳の分からない森でいったい、一人でどうしたら良いのだろう。
「もうお願い、誰か助けて……」
取り繕う余裕がない中で、半分泣きながら祈った。どうしよう、どうにもならんのか、そうなのかと思っていたら突然、千恵の目の前にタブレットのディスプレイのようなものが浮かび上がった。
「ふぉっ!」
驚いた千恵は思わず飛び退いた、それから辺りを見回す。特に変わった様子はない、むしろ変化があって欲しいのに何もない、変わったのは目の前に突然現れた謎のディスプレイだけだった。
「どうなってるの?」
これは何だ、どうやって映し出されているんだ、向こうの景色が透けて見えるぞ、現れるまで本当に分からなかったぞ、まるで空中に生まれたようだったぞ、ここに来てからもう何度目かも分からない驚きを、千恵はあらためて感じていた。はっきりいって怖かった。
でもそうもいってられない、他に何もないんだから、とりあえず確認してみるしかない。そう覚悟を決めた千恵が近づいて、恐る恐る眺め回していくと、青みがかった不思議な輝きを放っているこれは、どうやらネットショッピングのサイトに繋がっているようだった。
「情報化社会かよ……」
こっちは本来の社会から離れてしまったというのに、それが悔しかった千恵は思わずぼやいた。それでも意外と見やすい内容が表示されていて、どうやらキャンプ用品を専門に扱っているらしい。
やさぐれている千恵が、とりあえず「売れ筋商品」と紹介されている所に、指で触れてみた。画面が切り替わって、多くのアイテムが文字と商品画像で紹介されていた。普通の販売サイトのようだった。とりあえずその中から、目についたマグカップを選んで、試しに購入ボタンをタップした。すると、何もないところから突然、金属製のマグカップが現れて地面に落ちた。
「うわ!」
凄くびっくりした。すでに被害妄想でいっぱいの千恵は、私を驚かすためだけにここまでするのかと思った。思わず、どこかで撮影でもしているんじゃないかと、辺りを見回した。しかしそれらしきものは見つからない。
それから地面に落ちたマグカップを見てみる。取っ手のところに、ループロックでとめられたタグが付いているの分かった。どうやらこれは本当に商品として売られていた物のようだ。
次に拾って確かめてみた。角度を変えたりしながら確認してみると、金属の手触り、表面に書かれたブランドの名前、タグに書かれている商品名や注意書き、一通り見てアウトドア用品の普通のマグカップだと分かった。空中から突然現れたのを別にしたら、何もおかしくない。
「いやいやいや……」
千恵は首を振ってそれを否定した、こんなものが何もないところから現れる時点ですでにおかしい、今度は何が起こったのだろう。原因として考えられるのは、相変わらず目の前にあるディスプレイのようなものだけ。千恵は再びそれを確認してみることにした。
「怪しいけど気になるもんね」
今の自分に出来る事は他にない。そう考えた千恵は、とりあえず色々と確かめてみる事にした。
「えーと。注文履歴、マイアカウント、ヘルプ、お客様サポート?」
ディスプレイをいじり回してみると、ネットショッピングにありきたりな項目をいくつか見つけた。試しに注文履歴をタップしてみると、さっき買ったマグカップが表示されている。
「なるほど。じゃあこれは」
千恵はマイアカウントをタップしてみた。
「意外と普通だな。というか何で私の事が書いてあるの?」
あらためて選択項目にある注文履歴、そして商品の追跡確認、あなたにお勧めのアイテムといった項目と一緒に、なぜか自分のプロフィールが表示された。
「本当にどうなってるの。あれ、これってもしかして……」
プロフィールにある所有ポイントの項目には、とんでもない数字が並んでいる。興味が湧いた千恵はもしかして、これだけ使っても良いって事なのかなと考えた。そして、これだけあるのだからもう少しくらい使っても良いよねとも考えた。ここに来てようやく、余裕の顔になっていた。
温かい飲み物でも飲んで落ち着きたかった千恵は、お勧めアイテムの項目から色々と選んで、購入していった。その度に空中から商品が現れていって地面に落ちた。何度か繰り返す内にとりあえずこういうものなんだと、難しく考えるのをやめて、目的のものを次々と購入していった。
そして今にいたる。
千恵が座っている椅子の近くに、商品の空き箱や使用説明書、梱包していたビニール類、そして肩に掛けていたバッグが投げやりに放り出されている。
「これからどうしよう……」
目の前の謎のディスプレイを眺めながら考えた。そういえば、ミネラルウォーターやコーヒーを買う時に、食材も取り扱っているのを見つけていた。
「そろそろお腹がすいてきたな」
朝ごはんはちゃんと食べたけど、それからけっこう時間が経っていた。ぼんやりと過ごしている内に、急にお腹がすいているのを感じた。目の前の不思議な現象はアウトドア用品を専門に扱っているらしい、千恵は、それならバーベキューでもしようかと考えた。
さっそく椅子から立ち上がって、手にしたままのマグカップをローテーブルに置いてから、バーナーを操作して火を止める。やりたい事が見つかって少しうきうきしながら、目の前のディスプレイをいじくり始めた。
「ポイントが凄いたくさんあるし、せっかくだからばーんと使っちゃうか」
バーベキューセットという項目があったから、それを選択して、紹介されているものをどんどん注文していった。その度にどさどさと商品が地面に落ちる。あまり考えないで商品を購入していく作業は、ストレス解消にちょうど良かった。
「たぶんこれで、一通り揃ったかな。でもこれどうしよう」
地面に積み上がった商品の数々を前にして、ここで千恵は今さらながら、キャンプとかアウトドアとかやった事ないんだよなと気がついた。でもやってみたら分かるだろうか。試しにやってみよう、そう思ってとりあえず箱の表面に、バーベキューコンロが描かれているものから開けてみようと考えた。
アウトドア用品との闘いに向けて、さあこれからだと、千恵が気合いをいれたその時に、森の方から草むらを揺らす音がした。それに気づいた千恵が何だろうかと見る。すると、こちらの様子をうかがう若い女性が森から出てくるところだった。
長いピンクブロンドの髪、白い肌をした整った顔立ち、濃い緑色のアウトドアジャケットとパンツ、そして野外活動に向いた黒いブーツを履いている。その人物を見た千恵は、外国の人だと思った。
それから、はっと気付いた。もしかしたらこの場所は、あの人が所有している土地なのかも知れない、だとしたら私は不法侵入者だ、このままでは警察を呼ばれてしまう。それであわてた千恵は身振り手振りを交えながら、大声で説明した。
「あの、すみません、信じてもらえるか分かりませんが、私は気付いたらこの場所にいたんです、けっして悪い考えで立ち入った訳ではないんです」
あきらかに怪しい女が言い訳をしてるようにしか思えない。頭の片隅で、自分でも何を言ってるんだろうなと思いながら、それでも千恵は必死に話した。こんな形で警察のお世話になるのは嫌だった。とはいえ事故だと証明する事も出来そうにないし、今日はなんて運の悪い日だと思っていた。
千恵の言い分を聞いていた女性は、少し難しい顔で考える素振りを見せた。それから彼女は言った。
「魔の森に入ったぐらいで貴女を責めるような者は、存在しないと思いますよ」
落ち着いた声、しかも日本語、それを聞いて千恵は話が通じる相手だと思って安心した。しかし疑問も覚えた。自分を責める者がいないというのは安心出来るけど、なんだか妙な名前の森だなと思った。魔の森だなんて。不思議そうな顔をした千恵の様子を見て、女性が再び説明を始めた。
「この森は、この辺りでは魔の森と呼ばれている所です。ユーノス王国の東に存在する森林地帯で、狂暴な獣や多くのモンスターが生息しているので、立ち入る者はあまりいません」
千恵は驚いた。魔の森、ユーノス王国、さらには狂暴な獣や多くのモンスターが生息している、いったいそれは何なのだろう。それにもしかしたらこの場所は、熊や猪のような危険な生き物でも出るのだろうか。
「それじゃここは危険な場所なんですか?」
「危険といえば確かにそうですね。ええと、それでは寄せ付けないために、そこら辺の木の枝に魔法器具をかけておきましょう」
千恵の質問にそう答えると、彼女は手の平を目の前に向けた。するとそこに真っ暗な丸いものが浮かび上がった。まるで、暗闇によって景色が切り取られているように見えた。
「えっ?」
突然の出来事に千恵は驚いた。
「ああ。これは収納魔法といいます、色々な物を恐らく、無限に入れられるので、なかなか便利なんですよ」
女性は何でもない事のように説明した。
「収納魔法」
そんなものが存在するのか。真っ暗な収納魔法とやらに腕を突っ込んで、彼女が何かを取り出そうとしている様子を見ながら、千恵は呆気にとられて言葉が出てこなかった。今度は手品か? 今日はいったいどれだけ驚けば良いのだろう。そう考えている間に、その女性は収納魔法の中から、吊り下げ式の虫除けのようなものを取り出した。
「これは、狂暴な獣やモンスターをこの場所に立ち入らせないようにするための、強力な付与が施された魔法器具です。あと虫除けの効果もあります」
吊り下げ式の虫除けだった。見たことのあるようなものが、とんでもない所から出てきて、千恵は改めて言葉を失った。呆然と立ち尽くす千恵を気にした様子もなく、彼女はさっそくあちこちの木の枝に虫除けを吊り下げていった。
「これで大丈夫でしょう」
「あっ、すみません。お手伝いもせずに」
「いえいえ。こういうのは慣れているのでお気になさらずに」
辺りを一通り回っていってどうやら満足したらしい。千恵が恐縮しながら謝ると、朗らかに笑ってそう言った。それからあらためて千恵を見た。
「今さらですが私は、エリス・マーガリン・サーズデイと申します」
エリス・マーガリン・サーズデイ、どうやらそういう名前の人物のようだ。そして今のは自己紹介をしたのだろう。そこまで理解した千恵はあわてて、自分もしなきゃと思った。
「あっ、あの。私の名前は早坂千恵です。よろしくお願いします」
緊張しながら、どうにかそれだけ言った。そんな千恵の様子を見たエリスの顔に好意的な表情が浮かんだ。千恵の事を、問題のなさそうな人物だと判断したらしい。エリスはそれから千恵に、さっきから気になっていた事を聞いた。
「ところで、そちらのものは何でしょうか……」
エリスの視線の先にあるのは、積み上げられたバーベキュー用品の数々だった。千恵は戸惑った。
「あー。えーと。あれはですねぇ……」
説明するのは簡単だけど、でもそれが何でここにあるのか、そもそもどう言ったら分かってもらえるのかと悩んだ。興味津々のエリスを相手に、千恵の頭は再びフル回転を始めた。