メィヴェル
ぐずぐずに形を失う魔獣から飛び散った火花が、花畑の湿った土の上で燻り、ぶすぶすと黒い煙を上げた。
虚ろだった娘が、はっと目を瞬いて飛び上がる。
花に火が移るのを恐れて、懸命に火種を潰そうと土を叩く姿が、断崖からもよく見えた。
娘がぱたぱたと手を動かすたびに、ふわりとした袖が風を孕んで膨らむ。そのさまは、さながら蝶が舞うようだ。
「フィロス」
竜はこくりと頷くと谷川に滑空し、大きな口に水を含んで、娘のもとへと飛んだ。
フィロスが水を矢のようにして口から撒くと、燻っていた火種は息を潜め、やがて沈黙した。
娘はフィロスに礼を言うように頭を下げ、境の石積みまでやってくる。
ヴェルミリオの足も、自然とそちらへ向かった。
今日は娘から口を開いた。
「ありがとう」
渇いた土に水が浸み込むように、耳に馴染みやすい澄んだ声だ。
「花が燃えなくてよかった」
助けてもらったと感じているのは、どうやら自分のことではないらしい。
ヴェルミリオはがっかりこそしなかったが、呆れるような思いで苦笑を返す。
「昨日はごめんなさい。わたしに話しかける人なんていないから、とても驚いて……どうしたらいいのか分からなかったの」
娘はそれだけ言うと、自らをメィヴェルと名乗り、もといた場所へ戻ってしまった。
入れ替わりにフィロスが帰ってくる。
ヴェルミリオとフィロスが見守る前で、メィヴェルという娘は、魔獣の残骸を集め始めた。
普通の娘――いや、誰であろうと触れるのを嫌がるおぞましさであるというのに、メィヴェルに迷いはない。
仰天のあまり、ヴェルミリオは思わず声を掛けずにいられなかった。
「何をしておるのだ」
「お弔いを。土に還してあげるの」
「忌まわしい獣に、そこまでする必要があるか?」
メィヴェルは手を動かしたまま、優しくも寂しい声音で答える。
「忌まわしいかどうかは、人が決めたことよ。この子たちはただ、魔獣という名前を与えられただけ。人も獣も草も花も……始まりと終わりは、みんな等しく変わらない、たったひとつの命でしょう?」
ね――、と遠くから微笑みかけられて、ヴェルミリオはひどく心を動かされた。
御子でも王子でもない、あるがままの存在を受け止めてくれるユグナーの姿とメィヴェルが重なり、わずかに残った警戒心さえほどけていく。
すると妙に胸が熱くなり、澱となっていた感情が異色の双眸から零れ落ちた。温かな雫が、国境の石積みを点々と濡らす。
ヴェルミリオは咄嗟に背を向けることで、どうにかこうにか矜持だけは保った。
そうして気持ちを落ち着けている間も、背後では土を搔く音が続く。
遺骸を納めるだけの満足な穴を掘るには、娘の手は小さく弱々しかった。
見かねたヴェルミリオは、フィロスの自由な身を遣いにやって、魔獣を運ばせた。
「それはこちらで生まれたものだ。こちらで引き受けよう」
運ばれた遺骸を埋め終わる頃、メィヴェルが再び石積みのそばにやってきた。手折った花を差し出して、彼女は小首を傾げる。
「よかったら――。余計なお世話かしら」
「いいや、荒ぶる心も慰められよう」
柔らかく落ち着いた色合いの小さな花束に、自らが心を落ち着けながら、ヴェルミリオは塚に花を供えた。
メィヴェルは静かに祈りを捧げる。
爪の中まで泥に汚れているというのに、亜麻色の髪も、翻る生成色の衣も――陽の光に清らに映え、その姿はまるで神に仕える巫女のようだ。
顔を上げたところで、ヴェルミリオは改めて問いかける。
「そなたは、ここで何をしているのだ?」
メィヴェルは言葉を探して視線を落とし、ややあってから答えた。
「何も。誰かのために何かをするには、わたしはあまりに非力で、できることが何もないから、ただここにいるだけなの」
要領を得ない答えに戸惑いながらも、ユグナー以外の人間と言葉を交わせることが、少なからずヴェルミリオの口を滑らかにした。
「住まいは近いのか? そなたのような娘が花と戯れるには、いささか障りがある場所だと思うが」
ひとのことを言えた口ではないが、要らぬ疑いもかけられるだろうと、言外に含める。
するとメィヴェルはまた、昨日と同じように視線を逸らし、黙ってしまった。
「すまない。答えにくいのならば、この話はもうよそう」
メィヴェルは静かに首を振る。
柔らかな仕草に、対話を拒む意志は感じられなくなっていた。
もう少し話していたいと思ったヴェルミリオだが、フィロスと感覚を共有した耳が、遠くに馬蹄の荒ぶる音を捉えた。
暴竜の出現以来、国境から足が遠のいたというシルミランの警備兵も、たまには勇気を振り絞るらしい。
それこそ要らぬ火を熾すこともないと、ヴェルミリオはフィロスと共にその場から離れることにした。
去り際に、メィヴェルに告げる。
「いつも高みから眺めているだけだったが、間近で目にする花も、ひとつひとつ違って見えて、いいものだな。今日は終いにするが、たまにこうして竜を連れて花畑に降りてもいいだろうか」
メィヴェルは首を傾げる。花畑の主人かのように訊かれたのが、不思議そうな様子だ。
だが褐色の瞳を穏やかに細めて頷き返した。
「自由に生きる花たちをどう愛でるかは、あなたの自由だと思うわ」
「ならば、またここに来よう」
「ええ。その時はまた、わたしとお話してくれる?」
「ああ、喜んで……そうだ、俺はヴェルミリオという。こっちはフィロスだ」
名を名乗るなど、思えば初めてのことだった。
むず痒いような、浮き立つような気分で、ヴェルミリオは国境線を後にした。