つまらぬ娘
その日は、昼から雨が降り出した。
横殴りに叩きつける雨風は、このところのうららかな陽気に慣れた体に、冬の寒さを蘇らせた。
炎と風を混ぜ合わせ、暖気を洞窟に満たすことで、ヴェルミリオは快適な昼下がりを過ごしていた。
しかしふと、外の様子が気になって、雨除けを引っかぶり表に出た。
岩肌を滑り降りる雨水は、水嵩を増した谷川に飲み込まれていく。まだしばらくはやみそうにない。
「まさか、こんな空の下にはおるまいが……」
フィロスの背を借り、崖の上に出てみて、ヴェルミリオはそのまさかに目を瞠った。
降りしきる雨の中、娘はやはりそこにいた。
いつも通り、何をするでもない。雨を忌避することもなく、ただ花を見つめている。
「……狂っているとしか思えん」
取るに足らない村娘。隣国の民であるなら尚更、捨て置くに越したことはない。
しかし……。
ヴェルミリオは早くも、表に出たことを後悔し始めていた。
目の届くところに、雨に打たれる娘がいるというのは何とも気分が悪い。
たとえ住処に戻って雨音に耳を塞いだとしても、目を背けられやしないのだろうと、苦虫を噛み潰した。
娘のためにしてやれることはないかと逡巡している間にも、雨は横殴りに花々を叩きつける。
「いたしかたあるまい……」
フィロスは友の意を介して、背中を差し出した。
空は国の垣根に縛られない、手練れの魔法使いと翼のあるものにだけ与えられた自由な場所だ。
まして国を持たぬ竜が、シルミランの上を散歩していても咎められることはない。
「空を飛ぶ魔導具などというものが開発され、誰もが飛べる時代が来れば、国境線は空にも引かれるのだろうが……。果たしてそれまで、大地は人を許しておくだろうか」
今はまだ豊かな花畑を見下ろして、ヴェルミリオは憂いを深める。
フィロスが気遣わしげな細い声で鳴いた。
「すまない、言っても仕方のないことだ。アイオラの子もおるのだ。俺が心配することでもないな。
さあ、うまく飛べよ。花を散らさぬようにな」
曇天の空に紅蓮の巨躯を翻し、フィロスは娘のいる花畑の一角へゆっくりと降下する。
もちろん地上へは降りずに、娘の頭上で翼を広げて停空した。
フィロス自身がひさしとなって、娘を雨から守るようだ。
頭上に、見た目だけなら凄みのある竜が飛来したというのに、娘はぴくりともしない。
フィロスの柔らかく羽ばたく翼から送られる風に、亜麻色の髪から雨粒が弾け飛び、濡れそぼった衣服を揺らしても、寒がる様子さえなく、じっとその場に座ったままだ。
「おい、娘。このような空の下、かような場所で何をしている」
竜の背からヴェルミリオが声を掛けて初めて、娘は驚いた様子で顔を上げた。
雨水の滑る透けるような白肌が、ただの村娘にしては眩しい……十六、七の娘だ。
小ぶりな輪郭から、褐色の瞳を零れ落としそうなほど見開かせてはいるものの、怯える素振りは見られない。
娘はただひたすら虚を突かれたといった顔で、フィロスを見上げる。
「いつまでそうしているつもりだ。風邪をひいてしまうぞ」
娘は目をぱちくりとさせるだけで、何も答えない。
「住まいはどこだ」
後ろに見える屋敷か――とは、常日頃見ているのを変に受け取られそうな気がして、口にできなかった。
「それとも、迎えを待っているのか?」
言いながら、ヴェルミリオは娘の出立ちを確かめる。
一介の村娘にしては、指の先までしなやかに品のある容姿ではあるが、身につけた木綿のワンピースと毛織りのベストは、下々を侍らせ迎えを待つものの装いとして相応しくない。
そもそも、そのような身分であるなら、こんな所にいやしないと思い出して、ヴェルミリオは問いを改めた。
「この竜を恐れぬのであれば、そなたの望む場所まで届けてやるが、どうか? 安心しろ。乗り心地は悪くない。思ったほどよりは、な」
竜公爵の名が隣国の娘にまで届いているのかは分からなかったが、できる限り穏やかに語りかけたつもりだった。
ところが娘は一言も返さないばかりか、ふいと視線を逸らして、二度とは顔を上げようともしなくなってしまった。
「耳が聞こえぬのか? それとも口がきけぬのか?」
何を言っても無言で花を見つめ続ける娘に、ヴェルミリオは石像にでも語りかけているような虚しさと、同時に苛立ちも覚え始めた。
「ふん。そんなに花が好きか。ならば、その身が朽ちるまで見ていればよかろう。幸い、手向けの花は余るほど用意されていることだしな。――行くぞ、フィロス」
竜が飛び上がる瞬間の大きな羽ばたきで、娘の体が傾ぐ。
「あっ……」
娘の口から初めて、小さいが、鈴を鳴らすような声が飛び出した。
折れそうに華奢な体を、手に泥を噛ませて支える姿が、ヴェルミリオの胸を刺す。
やはり放ってはおけないと手を差し伸べようとした時、しまい込んでいたアイオラの声が脳裡をかすめた。
――お兄様の心を慰める道具ではありません。
びくりとして、ヴェルミリオは手を引っ込めた。
まだ英雄気取りで、誰かのためになったつもりになって自己満足しているのかと、腫れ物王子が心の淵で足を引っ張る。
娘は初めから返事もしなければ、助けなど求めていないではないか――竜公爵はそう言い聞かせて、無理矢理に己を納得させると、フィロスに乗って塒へと帰った。
その晩は雨音がうるさくて、胸がざわつき、ちっとも眠れやしなかった。
* * *
翌朝、フィロスの唸り声で目覚めたヴェルミリオは、妙な胸騒ぎを覚えて花畑を確かめに向かった。
昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡り、まだ乾ききらない草木を満遍なく光で満たす。
幾万の滴が朝陽を閉じ込めて、花弁は玉を散りばめたようだ。
その中に、娘の骸が転がっているのではないかと、肝を潰す思いで目をやった。
心配していた光景こそなかったが、事態はヴェルミリオに息つく間も与えず深刻であった。
額に一角の角をぎらつかせた獣が、四つ脚で花を踏み躙り、朝露を散らして駆けている。
名ばかりの〈公爵領〉で生まれた魔獣の数匹が、今まさに国境を越えようとする。
その先にいるのは、亜麻色の髪の娘だ。
相も変わらず花ばかり見つめて、己が身に迫る危機には、これっぽっちも関心を持っていない。
ヴェルミリオは咄嗟に、その手に炎を掲げた。
「こちらの魔獣が、シルミランの民を襲ったとあっては、大問題だ。ぬかりなく仕留めなければ」
建前はそうだが、たとえ娘がアクアフレール側にいたとしても、ヴェルミリオは同じ判断をした。それが、ひとの心というものだ。
それなのに、再び蘇ったアイオラの声に、火は先細る。
娘を助けて、その先に何を望んでいるのだ。他人より優位に立ったつもりで満足か、と遠く遠くで声がする――。
そうして迷っている間にも、魔獣たちは娘へと猛進し続けた。
「……どうせ俺は爪弾きの腫れ物、紛い物……嫌われものの竜公爵ではないか」
せめぎ合う思考のなか、娘が魔獣の角に貫かれ、炎よりも紅い雫を散らして地に沈む姿を思うと、ヴェルミリオは胸が悪くなった。
足元から這い上がる嫌悪に、頭に響く声が次第に遠のいていく。
「――ならば」
炎は猛り、生み出されたいくつもの火球が魔獣の尾を追った。
やがてそれらは魔獣の脳天を捉え、彗星のごとく降り注ぐ。
娘の爪先にあと一歩というところで、魔獣は炎に撃ち抜かれ、うちから爆ぜて融解した。
断崖から魔獣の最期を見届けて、ヴェルミリオは誰にともなく告げる。
「……自分本位で大いに結構。俺の心の赴くところに、誰も口を挟むな。いいや、誰にも口は出させない――」