野の花
――竜公爵の住まう谷に近付いてはならない。
暇を持て余した公爵が、男は腕試しに、女は慰みものにして、飽きたら竜の餌にしてしまうから……と、まことしやかに囁かれるようになって、はや十年が経った。
何物にも縛られない名ばかりの公爵は、確かに娯楽に飢えてはいたが、峡谷での暮らしはそれほど退屈でも暇でもなかった。
心地よい居住空間を保つために、日々の天候を見ながら洞の中を調える必要があったし、一人と巨大な一頭分の食糧を確保するのはなかなか骨が折れた。
加えて、魔獣もまだちらほらと生まれては、荒れ地をうろついているので、山野の巡回が欠かせない。
おかげで足腰が萎えることもなく、峡谷に引き篭もっているとの噂に反して、日に焼けた肌は健康的だ。
公爵は断崖に腰掛けて、傍らの竜に語りかける。
親しみを込めて、グレモス・エリミアには新しい名を付けた。
「見よ、友人。馬が駆けてくるぞ。あれは野良か?」
くつくつとヴェルミリオは喉を鳴らす。
栗毛の馬に騎乗した人物は、竜に気付くと断崖を仰いで、ぺこりと頭を下げた。
* * *
「このたびはだいぶ間が空いてしまい、申し訳ございません。お変わりございませんか」
すっかりこめかみに白いものが目立つようになったユグナーは、肩から背嚢を下ろして、切らした息を整えた。
彼は折を見て、ヴェルミリオの様子を伺いにやってきては、衣類などを差し入れてくれる。
誰も進んで竜公爵のもとに通いたがるものはおらず、従者であったユグナーがお目付け役に当てがわれたわけだが、むしろお互いそれで都合がよかった。
誰に気兼ねすることもなく、存分に言葉を交わせるのは、思わぬ儲け物であった。
「都ではとうとう作物が育たなくなりました。……御子のお力により、水は枯れることなく潤っているので、一見すると何も変わりないようですが……。花はこれからが盛りというのに、こちらへ向かう道中、蕾さえ見かけない土地が随分と増えました」
世俗と縁を切ったヴェルミリオではあるが、国の行く末が気にならぬわけではない。物だけでなく、情報をもたらしてくれるユグナーの存在は非常にありがたかった。
「魔力の枯渇は深刻だな」
「それに比べますと、こちらは緑が蘇りつつありますね」
ヴェルミリオが追放された時、岩肌が剥き出しだった荒れ地には柔らかな若芽が萌えている。
「噛まれるのを承知で、竜公爵の地に手をつける怖いもの知らずはおらんからな。……いや、いたな」
小さく笑みを零し、公爵は国境線を指差す。
かつて小さな泉程度だった隣国シルミランの花畑は、石積みを越えてアクアフレール側にもその繁茂を広げていた。
「奴らは密かに、しかし確実に領土を侵している」
「ふふふ。まあ、なんと愛らしい侵略者でしょうか。指揮官はどちらに?」
「そうだな……。あの娘か?」
冗談混じりにヴェルミリオが指差すシルミラン側の花畑に、ユグナーも目を凝らす。
「どこでしょうか?」
「あの、星型の花々が咲き乱れている辺りにおるだろう。亜麻色の髪を垂らした娘が」
竜と暮らすようになってから、ヴェルミリオは時々フィロスの眼を借りている節がある。
遠く離れた岩の間を這う蜘蛛の子まで見つけられるくらいだ。ユグナーには、どう頑張っても石積みの辺りまでしか判然としなかった。
「申し訳ございません。わたしには花の形も見分けられず――どのような娘でございますか?」
「村娘といったていの、これといってぱっとせぬ風貌だ。何をしているのか。このひと月ほど、毎日ああして花の中に佇んでいる」
「ひと月、毎日……。よく、ご観察されていらっしゃるのですね」
ユグナーは含み笑いを隠そうともしない。昔よりずっと気安いところも不快には思わず、ヴェルミリオも冗談で応じた。
「村娘に扮した間諜を監視しているのだ。竜公爵もたまには、お国のために働かねば、わずかばかりの領地を取り上げられてしまうやもしれぬからな」
「そうなれば、宿無し公爵でございますか」
「はっ、言ってくれる!」
笑い声が、峡谷に木霊する。
ユグナーが来た時にだけ味わえる空気の振動に、フィロスは心地よさそうに翼を広げた。
ヴェルミリオは花畑の娘に、改めて目をやる。
断崖で目立つ動きをしていれば当然気付くはずだが、娘は微動だにせず、視線が動く様子さえ見られない。
間諜と疑っているのは冗談にしろ、娘が普段からその調子でぼうっと佇んでいるので、ヴェルミリオは妙に不自然に感じ、眺めてしまうのだった。
次の日も、そのまた次の日も――。
娘は花畑に現れた。
花畑の後ろには木立が並び、その奥にやや大きめの屋敷の屋根が覗く。
娘はそこから通ってくるのか、ヴェルミリオが朝陽を浴びにフィロスと断崖に登る頃には、すでに起き出して花を眺めているのだ。
そうして日がな一日、何をするでもなく花の中で過ごす。
ヴェルミリオも娘に倣い、何もせず断崖に佇むということをしてみたのだが、半日ともたず飽きた。
うたた寝している間に日が暮れて、気付けば娘も姿を消していた。
「おかしな娘だ。それこそ、国境を守っているというのでもなければ、酔狂なものだ」
同じ姿勢でいたために、すっかり凝ってしまった体をほぐしながら、ヴェルミリオは立ち上がる。
「――その酔狂を眺める俺も、似たようなものかもしれんがな」
フィロスは首を傾げた。何でもないと言うように喉元を撫で、ヴェルミリオは峡谷へと戻る。
洞窟の奥で、フィロスにもたれるように転がって、深い闇に包まれる夜を迎えた。
やがて昏い波が引き、汀に光が満ちる頃、花たちは一斉に顔を上げる。
断崖から射す朝陽に顔を向ける花々の中、亜麻色の髪の娘はぽつん――と佇んでいた。