追放と叙爵
荒涼とした岩山は暴竜の出現から魔力の流れが淀んだといわれ、それを示すように草木はしおれ、魔力の澱から生まれた歪な魔獣が辺りをうろついていた。
討伐隊とは名ばかり、ヴェルミリオただ一人が荒地を進み、襲い来る魔獣と対峙する。
魔力を依代にして湧いて出る歪な獣たちに剣は通らず、魔法で蹴散らす他なく、ヴェルミリオの炎は岩を溶かしつくさんばかりに燃え盛った。
果てまでともに行かせてほしいと追い縋るユグナーを、足手纏いだと冷たく引き離して正解だったと、ヴェルミリオは滴る汗を拭った。
やがて国境線を眺望できる断崖へと登り詰めた。僅かばかりの石積みが隣国とを分ける標だ。
シルミラン側には小さな花畑を見晴るかすことができ、自身の置かれた状況に反して長閑な光景に、ヴェルミリオは隣国同士いがみ合っていることさえ愚かしく思えてきた。
驚くほどに凪いだ心で、彼は暴竜の棲む谷底へと飛び降りる。
谷川の冷たい飛沫の中に頭を出した岩場に降り立ち、ヴェルミリオは辺りを伺った。
岩壁に穿たれた巨大な穴の奥から、低い唸り声がする。その声に誘われるように、彼は仄暗い穴を進んだ。
暗さに足元が覚束ず、火球を従えて歩を進めるも、でこぼことした地面が歩みを阻む。
妙に思って足元を照らせば、そこは石塊ではなく無数の骸で出来た道であった。
今にこの中に加わると悟りながらも、ヴェルミリオに迷いはない。
死臭と魔力の澱んだ洞窟の最奥にて、竜はヴェルミリオを待っていた。
赤銅色の鱗に覆われた巨体を震わせ、グレモス・エリミアは咆哮をあげた。
開かれた口に、獰猛で鋭利な歯列が光る。数多の無辜なる命を屠った牙にも関わらず、神々しいまでの煌めきだ。
竜の荘厳たる佇まいと相まって、残酷なまでに美しい。
冴えた美しさを前に、ヴェルミリオは畏れさえ抱いて跪いた。
「暴竜……。いや、その名は相応しくないな。グレモス・エリミアよ。わたしの命、貴殿の口に合うか知れぬが、どうかその身の糧となることを許してほしい」
竜の重たい足音が近くなる。一歩踏み出すたびに、太く鋭利な爪が骸を潰す、渇いた音が響いた。まるで処刑を告げる鐘の音のようだ。
竜の息が、紅の髪を撫でる。
紛い物の神の子は、その時になって初めて、無慈悲な死を実感した。
望みをもって生まれ、疎まれて育ち、何も成せぬまま地の底にて果てる運命を、せめて己だけは嘆いてやりたくて、ヴェルミリオは静かに涙を流した。
するとどうしたことか、唸り声を絞り出していた竜の喉から、仔犬が甘えるような高い音が発せられた。
硬質な頬をヴェルミリオの体に擦り付けるさまは、親愛を示す仕草に他ならない。
かえって不気味さを感じて後ずさるヴェルミリオに、グレモス・エリミアは何かを訴えるように漆黒の瞳を彷徨わせた。
巨体の背後に首を回し、しきりに切ない声をあげる。
「どうした。何か伝えたいことがあるのか?」
ヴェルミリオは恐る恐る、竜が座していた窪みを覗き込む。
一見すると卵のようなーー、だが自然物とは明らかに様子の異なる、不穏な光を放つ水晶玉のようなものが転がっていた。
それは魔道具の一種で、吸い上げた魔力を町々にあるリュージュの泉へ送るため、地中に埋めて使うものだ。
ヴェルミリオは魔道具自体に馴染みはないが、知識として判別することができた。
「なぜ、ここに?」
大地を枯らさぬよう、領地の広さによって使用範囲が定められており、国境付近は魔力争奪を避けるため採集を禁止されているはずだった。
「シルミランが、このような大それた真似をするとも思えない。ガドゥール辺境伯の仕業か? なんと愚かな……」
水晶を数えてみれば、これまでに討伐隊が送られた回数とほぼ等しかった。
暴竜の棲みついた地を検めるもののいようはずもなく、証人の帰らぬことも打算のうちで、討伐隊に運び込ませたのだとしたら、つくづく業が深い。
苦虫を噛み潰したような顔で、ヴェルミリオは改めて赤銅色の竜を眺めた。
水晶が光を放つたびに、漆黒の瞳に濁りが生じ、唸る声に耳をすませばどこか苦しげだ。
グレモス・エリミア自身が魔力を奪われ、理性を欠く瞬間を目の当たりにし、ヴェルミリオはすべてに合点がいった。
暴竜が棲みついたせいで、魔力が澱んだのではない。その逆だ。
人間の身勝手が大地を荒らし、たまたま棲みついた竜に責任をすべて押し付けた。結果、この地は竜をも狂わせる魔境へと成り果ててしまったのだ。
「わたしもそなたも、おかしな星のもとに生まれたらしいな。だが、そなたはもう苦しまずともよい」
水晶に意識を絡め取られ、破壊もできずに苦しんでいた竜に代わって、ヴェルミリオは魔道具に火を放つ。
悪魔の種が二度とこの地に根付くことのないよう、焼きながら剣で砕いた。
跡形もなくなるまで粉砕し、溶かし尽くす頃には、グレモス・エリミアは落ち着きを取り戻していた。
「次に住まう場所は、慎重に選ぶがよいぞ。……長旅は腹が空くだろう。飛び立つ前にわたしを喰らえ、さあ」
ところが竜はすっかり懐いてしまって、ヴェルミリオに体をすり寄せる。
微笑むように細められた眼が再び開かれた時、竜の瞳からは闇が取り払われ、生まれ持った色に煌めいた。
その姿にヴェルミリオは息を飲む。
硬い鱗に囲まれた右目は翡翠、左目は紅玉ーー。
さすがにアクアフレールの紋章までは持っていなかったが、対なる瞳で対峙する一人と一頭は、鏡像さながらだ。
果たしてそれは偶然か。少なくともヴェルミリオには、特別なことに思えた。
「……まことの片割れは、そなたか?」
自嘲するように微笑むと、竜は頷きにも取れるさまで、ヴェルミリオに頬を擦り付けた。
……
…………
アクアフレール側の麓で、こちらもまた王命により、王子の最期を見届けに来ていた辺境伯の一部隊は、荒れ地の風に耳をそば立てていた。
断末魔の声があがるまで、おどろおどろしいこの地から離れられない恐怖に苛まれ、王子の死を悼む心を持ち合わせた者はいない。ーーただ一人、ユグナーを除いて。
いかに冷たくあしらわれようと、ユグナーは主人を独りにできず、後を追う覚悟で兵に紛れ込んできた。
ユグナーの見守るなか、砂塵を巻く風がいっとき凪いで、次の瞬間に激しく吹き荒れた。
天を突く勢いで峡谷から飛び上がった紅い影は、宙でくるりと尾を返し、聳える崖に降り立った。
紅の鱗が陽の光を弾き、炎を灯したように揺らめく。竜は、|荒野の断崖に鎮座せしもの《グレモス・エリミア》の名に相応しい、超然たる佇まいで人々を見下ろした。
兵たちにどよめきが広がる。
紛い物の王子では不服で、食事を続けに来たのだろうと、麓に近いものから震えが広がっていく。
ユグナーは亡きフュージャーに懺悔しながら、ヴェルミリオと一つになる時を待った。
「ーーガドゥール辺境伯はおわすか?」
高みから降ってきた声に、ユグナーがはっとして顔を上げると、竜の背から王子が降りるところだった。
兵の混乱はますます深まる。
王子が暴竜を従えて、報復のために帰ってきたようにしか見えなかったからだ。
無駄と承知で、剣に弓、杖を構えて応戦の意志を示す。
竜よりかはまだ相手になれると思ったのなら、愚かなことだとユグナーは隊列の端でため息をついた。
ヴェルミリオもまた、声音に微かな苛立ちを滲ませた。
「卿はおられぬのかと訊いている」
兵の中から、辺境伯の末子を名乗る男が進み出る。
「わたしが父の目と耳に代わり、お伺いいたします」
「そうか。では、わたしの言葉を一言たりとも違えず伝えよ。
荒れ狂う竜は、このヴェルミリオが掌中に収めた。ガドゥール領の脅威は取り除かれたゆえ、安心せよ。ーーして、此度の討伐の褒賞に、わたしはこの峡谷を所望する。ガドゥール伯はただちに、領地の分割を陛下に願われたし」
魔力の均衡が保たれるまで、魔獣は生み出され、ガドゥール領民は震える日々が続くに違いない。
辺境伯の過ちは許し難くとも、民の憂いはヴェルミリオの望むものではない。
当面の監視と守護を引き受けるつもりで、そうとは悟らせず不遜に告げた。
当然と言えば当然だが、荒れ地とはいえ唐突に領地を譲れという乱暴な申し出に、相続権を持たぬ末子でさえ不快を顔に表す。
「聞けぬならば、わたしが自ら陛下に奏上するがよいか? 谷底で目にした光景も知らせねばならぬしな」
「何をご覧になったと仰るのでーー?」
互いに、腹の底を探るような数拍を置いたのち、ヴェルミリオは白々しく返す。
「はて……何やら、わたしでは理解が及ばぬのでな。城にはちょうど魔法伯が滞在中だ。かのお人ならば、一目で見抜かれることだろう」
ガドゥール領内の魔力の均衡にすらも、と小声で含めると、男の顔面は蒼白となった。
「……父には、殿下の目覚ましいご活躍ぶりとともに、一言一句違えずお伝えいたします」
「賢明な判断だ」
脅しに屈した時点で、領地の譲渡は約束されたも同然だ。
ヴェルミリオは断崖から人々を見下ろし、悪どさを誇張して宣言する。
「これより、この地はわたしと竜の領域。何人たりとも侵すことを許さぬ。我らの平穏を乱すものあれば、暴竜は再び牙を剥き、貴様らを胃の腑に収めると心得よ!」
呼応してグレモス・エリミアが吼えた。
紅蓮の怒りを孕んだ咆哮は大気を震わせ、人々を地に縫いつけるように平伏させた。
逆らう気力さえ恐怖で縛り付け、誰も彼に手を出せない状況を作り上げた。
竜と並んで立つヴェルミリオの凛々しさは、もはや人のそれではない。
これを神の子と呼べない理不尽な運命を、ユグナーは嘆かずにいられなかった。
だが不思議なことに、ヴェルミリオの顔にはどこか吹っ切れた清々しさすら感じられ、もう彼が人の世に帰る意志がないことをユグナーは悟った。
今はそれが王子の救いになるように願い、ユグナーは深くこうべを垂れた。
ふた月ほどして、ヴェルミリオには暴竜を鎮めた栄誉として、ガドゥール領の一部と「竜公爵」の称号が与えられた。
前編 了