託宣との齟齬
落ち着かない様子で、執務室を右往左往しているのは、アクアフレールの王フラー四世である。
頑健な両肩に千万の民の命を背負う王も、今宵ばかりはただの人。初めての我が子の誕生を前に、威厳は玉座に置いてきた。
やがて高貴な老爺が、おとないを告げる声が近衛伝いに届けられる。
もったいつけて現れた大神官を、王は抱き寄せんばかりの勢いで迎えた。
「ご苦労であった、フュージャー。わたしの子は……、神託の御子は無事生まれたのであろうな?」
「はい。それは……尊顔たいへん麗しく、陛下のお子らしい旺然たる鋭気に満ち満ちた健やかぶりでございます」
「その口ぶりは、男の子なのだな? おお、ヴェルミリオ……その名を呼べる日が来たのだな!」
王子のために用意していた名を、嬉々と口にする王の傍らで、フュージャーは苦しげに呻く。
「……ええ。それから……優しげで愛らしい王女様も」
「……何だとっ。それでは神託の加護はどちらに? いや、二人ともに現れたか!」
驚きを露わにしながらも、王の顔にはまだ、歓喜が残されていた。
四十に差し掛かっていながら、子供のように輝く翡翠の瞳を、フュージャーは真正面から捉えることができない。ようやくの思いで、重たい口を開いた。
「陛下、どうかお心を穏やかに、お聞きください。後からお生まれになった姫様には、いずれの加護も確認できませんでした」
「おお……そうであるか」
いくらか肩をすぼませ、フラー四世は先を促す。
「して、ヴェルミリオはいかに?」
「王子の左目には……風の御印を確認できました。しかし──」
大神官の硬い声に、嬉々と耳をそば立てていた王が怪訝に顔を曇らせた。
「しかし……何だ?」
フュージャーは、消えそうに密やかな声で告げる。
「殿下の右目には……────が顕われているのでございます」
「何っ、それはいったいどういうことか!」
驚嘆露わに、王はフュージャーに詰め寄る。生まれる予定になかった王女なら、さして気にも留めないが、期待をかけて迎えた王子となれば話は違うとでも言いたげだ。
「わたくしにも、理解の及ばぬ事態でございます。王妃様も動転して、我が子を抱くより先に伏せってしまわれました。あまりにお心を乱されては、予後にも障りましょう。差し出がましくも……、おそばにてお気持ちに寄り添って差し上げてはいかが──かと」
「承知した。王妃……ウェレネはわたしに任せよ。しかしその前に一度、我が子をこの目で見たい。よいか、フュージャー」
「……もちろんにございます」
フュージャーは、豪奢なしつらえの扉を振り返り、手を打ち鳴らした。
扉には、国が信仰する水と風の神を模した紋章が刻まれている。
古き伝承では、国に暗雲立ち込めし時、神の子もしくは救国の御子とも呼ばれる英雄が現れ、その者はこれらの紋章を瞳に宿す──と云われていた。
ややあって連れてこられた二人の赤子を確かめる前に、王は天に祈りを捧げる。大神官の言が何かの間違いであるとの希望を、まだ捨てられなかった。
なぜなら現王フラー四世は、即位の際に次のように神託を授かったからだ。
『そなたの御代において、風と水の加護を受けた気高き御子が産まれるであろう』と──。
即位から十年、神の子さえいれば永年の憂いも晴らせようと、この日を待ち侘びてきたのだ。
ふと、王は壁の世界地図を振り返り、深く息を吐いた。
王の憂い……この国の暗雲は、地続きの隣国シルミランとの関係にある。
二国は、百余年に渡る冷戦状態にあり、開戦の狼煙がいつ上がろうとも不思議はない緊張状態にあった。
原始は水を争ったものだが、魔導技術が目覚ましい発展を見せる昨今においては、大地を潤す魔力が争いの種である。
両国とも版図を広げたくて、内心ではうずうずしているのだ。
深く、長く……憂いの息をついて、フラー四世はようやくの思いで、我が子の顔を覗き込んだ。
寄り添うように眠る赤子たちの、ほやほやした髪はどちらも金茶色だ。
「ウェレネの青藍色が美しかろうに、そなたらはわたしの髪を選んだか」
穏やかに語りかけ、硬い指先で髪を撫でると、いくらか小さい方の子がびくりとして泣き出した。
その小さな体に宿した水をすべて枯らさんばかりに、翡翠の両目からは滝のように涙が流れる。
しかしフラー四世は、抱き上げてあやすことさえせず、王女のつぶらな眼を食い入るように見つめていた。
「まことに、ただの赤子であるか」
天からの恵みの兆しもない虚ろな瞳孔に、彼は落胆を否めない。
王女は弱々しい声ながらもますます泣き、傍らの兄を眠りから覚まさせた。
一瞬、王子も泣きそうに顔をしかめる。だが、ぷかりと可愛いあくびをひとつ零すと、両の目を開いてフラー四世を見つめた。
「お、おおお……」
まだ目は見えていないはずだが、不思議と焦点が合っているように父王は感じ、恐れるように二歩、三歩と後退る。
左目は翡翠色に輝き、風の紋章を宿している。王の姿は、その神々しさに畏れを抱き、跪いているようにも見えた。
しかしもう片方の目を見れば、彼の震えが別のものであることは明らかだ。
神託の通りならば、青き水の紋章が浮かぶはずの右目は、燃えるような真紅に輝いて、古代文字で記すところの炎の印を刻んでいるのだから──。
フュージャーの見間違いでないことを、自らの目で確認し、王は震え上がる。
「なんということだ。果たしてこれを……神子と呼べるものか?」
愛しく呼びかけるはずだった、ヴェルミリオという名さえ飲み込んで、フラー四世は憂いを深めるのだった。
序章 終