救国の英雄
――アクアフレールは魔導具に頼らずとも、竜公爵さえいれば向かうところ敵なし。
そう示さねばならないとして、援軍は付けられなかった。
事実、防壁に穴を開けるのは話に聞くより容易かった。
核となっている〈真昼の月〉に、燃え盛る炎弾を撃ち込めば、街はたちまち丸裸となる。
飛来する巨竜の姿を見たシルミランの民は、なすすべ無く、たちまち投降した。
敵国といえど無為に命を奪わずに済んだことは、わずかな救いであったが、ヴェルミリオはどうにも居心地の悪さを覚えた。
それは、シルミラン王都へと進路を進めるほどに、強まっていく。
明け渡された街々に、兵卒の姿が一人とていない。いくら防壁に守られているとはいえ、常駐兵が一人もいないというのは明らかにおかしかった。
誘い込まれていると確信しながらも、早く片をつけたい一心で竜は空を飛び続け、とうとう王都の外観をその目に捉えた。
他の街々とは比べ物にならない数の〈月〉が浮かぶ。厚く堅牢な防壁は、まるで水晶で築かれたかのようで、一種の工芸品を思わせる佇まいだ。
「シルミランの民に恨みはない。だが、大地の命を搾取して築いた、その歪んだ美しさは存在してはならない。還させてもらうぞ」
ヴェルミリオが月に狙いを定めた刹那、まだ魔法も発現させていないというのに、防壁はひとりでに消え去った。
困惑してフィロスは咄嗟に旋回する。
そのわずかな隙をつき、城壁からは弩や矢が射掛けられた。
ひらりとかわして撃ち落とせど、別方向からも攻同種の攻撃が飛んでくる。
危ぶんでいた通り、集結した軍勢が四方八方から現れ、魔導具で惜しげもなく仕掛けてきた。力の源は、いずれも真昼の月のようだ。
民をいたずらに傷付けたくはなくても、防戦一方では埒が明かない。多少被害が出たとしても、〈真昼の月〉の破壊を優先すべきだと、改めて照準を定める。
無数の白い球体は、いつしか列を成すようにひとつなぎに並んでいた。
それは一際強い光を放つと、瞬く間に都を抱き込めるほどに巨大な白い竜へと姿を変えた。
対峙すると、フィロスが本当に雛のように小さい。それは膨大に蓄えられた魔力で産み出された、魔導竜だった。
白い竜は、その身に閃く雷を纏い、口に氷の息吹を通わせる。
威嚇の咆哮は大気を震わせ、波紋を描いて衝撃波を放った。
何とか避けられたものの、わずかにかすめた波動の余波でさえ凍てつく痺れを伴い、ヴェルミリオはすぐに反撃へ移れない。
第二波、三波と追撃はやまず、シルミラン兵の士気が高まる声が響く。
喝采の中に聞こえる、膨大な魔力のさざめきは、潮騒だ。広大な海から吸い上げた魔力が立ち塞がり、――喰われる……。ヴェルミリオはそう直感した。
可憐な娘は、無事でいるだろうか――。
最期のときに思い出すものがいるのは幸福であり、残酷でもあるとヴェルミリオは知った。
穏やかな残影を目蓋の裏に焼き付けるほどに、幕引きを拒みたくなる。
白い竜が大口を開いて迫る。
死を覚悟した刹那、ふと鼻先をかすめた香りに、ヴェルミリオは目を見開いた。
凍てついた吐息に、潮の香りだけでは足りず、ふくよかな花の香りが混ざっている。それは鮮やかな情景を描き出し、ヴェルミリオを怒りで震えさせた。
怒りに呼応し体内で膨れ上がる魔力が、白い竜から感じるものと同じだ。
「メィヴェルの花畑を喰ったのか!」
瞬きのあいだもなかった。
怒り昂り、無数に生み出された炎は、暴風とともに渦を巻いて竜へ突き進む。
しかし望外に強大な魔導竜に、その程度の抵抗を払うなど赤子の手を捻るようなものだった。
爪のたったひと薙ぎで、炎の竜巻は霧散されてしまう。
それでも、ヴェルミリオもフィロスも抵抗を続けた。
もはや自身の命は省みず、ただ、あの花々の命を取り戻したいだけだった。
すると、小さな欠片が存在を主張するように、懐がほのかに温かくなった。
メィヴェルに託された乳白色の欠片が、強い光を放つとともに、竜の纏った魔力を吸収し始める。
そしてそれはあの夜と同じように、ヴェルミリオたちに力を分け与えた。
力が満ちるとともに、ヴェルミリオとフィロスは互いの意識の境目が曖昧になっていった。
一人と一頭は肉体まで融けて混ざり合い、鏡に映したように色の異なる瞳が、かちりと重なり合う。
鮮やかな翠と紅に染まった両目に、それぞれ風と炎の印を宿し、ひととも竜とも呼べる優美な生き物へと姿を転じた。
それはヴェルミリオでもあり、フィロスでもある。まさしく、神が創り給うた奇跡であった。
光輪を従えたように纏った炎が燃え盛り、疾風に乗って彗星の如く降り注ぐ。
着弾した炎はその場で爆ぜ、種を蒔くように火の粉を振り撒いた。その小さな火がさらに爆ぜ、シルミランの王都はたちまち炎の中に閉じ込められた。
色を失くすシルミラン軍の目の前で、とうとう白い竜の体を作り上げる〈月〉のひとつに、炎弾が命中した。
鈴なりの核にたちまち誘爆し、竜は形を保てなくなる。それでもう決着はついたようなものだ。
しかし、大切な花畑を戦の道具に利用された竜公爵の逆鱗を撫でた火は消えない。
炎をあげて墜落する〈月〉とともに、焔の竜巻が都を襲う。
神が与えた業火はちょっとやそっとでは消えはせず、逃げ惑う人々の目に、竜公爵の姿は残忍で醜悪な化け物のようにしか映らなかった。
やがて、どこからともなく澄んだ風が吹き込み、その風に内包された水は、都を包む炎をことごとく洗い流した。
高らかに号音を響かせて、アクアフレールの軍旗を翻した一団が彼方から向かってくる。
先導して現れたのは、あろうことか少年王ルモニアだ。
神罰に太刀打ちできるのもまた、神の慈悲とでも言うかのように、彼に宿った力がシルミランの民を救ったのだ。
それこそが、アクアフレールの真の狙いであった。
戦の混乱に乗じて、シルミランを手中に収めようとした極悪非道の竜公爵と……、仇敵と切り捨てず手を差し伸べた新王という構図を、たった一瞬で作り上げてしまった。
ヴェルミリオとフィロスは、このまま世界を灼き尽くしても足りないほどの憎悪を抱く。だが同時に、すべてが虚しく、何もかもが愚かしいとも思えた。
いつのまにか元の姿に戻ったヴェルミリオの手の中には、小さな欠片が残されていて、そこから愛しい声がする。
――もう、いいの。帰ってきて。
それは望んだがゆえに、聞こえただけかもしれなかった。
だが、今の彼にとっては、ただそれだけが救いだった。




