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竜の喰わぬは花ばかり  作者: もちもちしっぽ
後編 一輪の花
11/19

空は自由

 谷川で顔を洗うヴェルミリオが仰いだ陽射しの中を、ひらひらと舞い降りてくるものがいる。


 しなやかなその身に風を纏い、色とりどりの衣を翻して、それはヴェルミリオの肩口を撫でた。

 そっと指先で摘み上げて、彼は微笑みかける。


「やあ、ご機嫌よう、侵略者殿」


 国境を越えた花々は、今日も優雅に、そして着々と――竜公爵の領地を侵している。


 斥候()を送り込んだ指揮官は、花畑の真ん中でうとうとしていた。

 今日は特に陽射しの暖かく、風も穏やかで、居眠りするにはもってこいの陽気だ。


 起こすのが可哀想な気もしたが、こんな日だからこそ、ヴェルミリオはメィヴェルに見せたい景色があった。


「起きよ、メィヴェル」

「うん……あら、ヴェルミリオ? どこ?」


 寝ぼけ眼できょろきょろとしているメィヴェルに、フィロスが風を送る。

 亜麻色の髪を掻き分け、褐色の瞳は宙を舞う紅蓮の竜と、尾を引くようにたなびく紅の髪を捉えた。


「しがらみのない場所へと散歩に行かぬか? いや、無理にとは言わんが……」

「無理……なことなのか、わたしには分からない。だって、ここから出たことがないから」


 少し不安そうに迷いを見せたメィヴェルだが、意を決して立ち上がった顔は思いの外、晴々としていた。


「でも、行ってみたいわ。連れて行って」

「承知した。じっとしていろ」


 フィロスは高く飛び上がったかと思うと、宙がえりして急降下した。花を散らさぬ、ぎりぎりを滑って、ヴェルミリオがすれ違いざまにメィヴェルを引き上げた。


「きゃあっ。びっくりした。公爵様のエスコートは、思ったより荒っぽいのね」


 珍しく声を出して笑った娘の頬に差す桃花色(ももはないろ)が、花々の中で一番美しいと感じ、ヴェルミリオも穏やかに目を細めるのだった。


 * * *


 フィロスは、陸の果てまで飛んだ。

 晴天の空を映した雄大な水鏡を臨み、メィヴェルは歓声を上げる。


「わあ……! これは、もしかして海? 初めて見たわ。とても大きいのね」

「爽快だろう?」

「ええ、とても。海と空の境が無くなって、ひとつに繋がったよう」


 この景色を眺めていると、ヴェルミリオは心が軽くなる。喰らい尽くせないほどの魔力の渦を波の中に感じ、まだ星は生きていると安堵できるのだ。


 メィヴェルなら、どんなふうに海を見つめるのか、ヴェルミリオは知りたかった。

 はしゃぐ声の様子から、きっと笑っているのだろうとメィヴェルに視線を移して、彼ははっと息を飲んだ。


 陶器のようななめらかな頬を、一雫の涙が伝う――メィヴェルは、海と空のあわいを見つめて涙していた。


「どうした」

「……え? あれ?」


 言われて初めて気付いたように、メィヴェルは頬を拭う。


「変ね、どうしてかしら。とても……帰りたいと思ったの」

「どこへ、だ?」

「どこだろう。どこか……失くしてしまったところ? おかしいの、わたしの帰る場所なんてないのに」


 メィヴェルは初めて、自分の口から何かを語ろうとした。だが迷いを露わに「ごめんなさい」と小さく呟いて、それ以上は口にしない。

 ヴェルミリオも突き詰めようとはしなかった。代わりに、小さな肩を引き寄せる。


「風に目が沁みたのだろう。少し目を瞑るといい」

「……ええ。ありがとう」


 メィヴェルはヴェルミリオの胸に頭を預け、そっと目を閉じた。


 悲しませるつもりはなかったのに、結果として泣かせてしまったことをヴェルミリオは悔やんだが、空に(かせ)がないことだけはよかったと思えた。

 寄り添い、涙を拭ってやることはできる。


 メィヴェルの睫毛を濡らした最後の雫を指で掬うと、風が静かに攫っていった。


 * * *


 涙が乾いてからは、初めての空中散歩をメィヴェルは瞳を輝かせて楽しんだ。

 しかし、慣れない揺れには少しばかり弱いのか、顔色があまり良くはない。それでフィロスは、ゆったりと風に乗って、空を優雅に泳いだ。


「このあたりは緑が少ないのね」


 どちらの国も都市部ほど大地は痩せ、栄えた街と裏腹に荒涼とした景観が広がる。


「花が生きられない地へ、人が変えてしまった。そなたの花畑を見れば、人はいま一度立ち止まる機会を得られると思うか?」


 枯れた大地を痛ましく見つめるメィヴェルは、曖昧に首を振る。顔色がさらに悪くなったように、ヴェルミリオには見えた。


「もはや、手遅れだろうか」

「わからないわ。でも、そうじゃなければいいな……と思うの」


 哀しげに微笑んだ後、メィヴェルはふと空の向こうを指差した。


「あれは何かしら?」


 シルミランの雲の中に、一見すると月のような、冴え冴えと白い光を放つ球体が浮かんでいる。

 謎の物体はしばらくその場を浮遊していたが、やがて雲に隠れて見えなくなった。


「新たな魔導具だろうか? とうとう空まで区切る時が来たか?」


 懸念を眉根に寄せるヴェルミリオだが、メィヴェルは首を傾げる。やはり、いまいちぴんと来ていない仕草だ。


「空を仕切られたら、こうして散歩ができなくなる」

「それは困るわ。わたし、もっとこうしていたいもの」


 風も、フィロスの背中も、ヴェルミリオも……すべてが温かくて心地いいと、屈託なく口にして娘は頬を膨らます。

 戦の匂いに染まらない、清らかな純真に胸を掴まれ、淡く青い想いがヴェルミリオの口から溢れそうになった。


 その時だ。


 メィヴェルの体がぐらりと傾いだ。

 ヴェルミリオが咄嗟に引き起こさなければ、危うくフィロスの背から滑り落ちるところだった。


「メィヴェル!?」


 顔色がさっきより格段に悪い。菫のように青ざめた肌を、じっとりとした汗が濡らす。


「ごめんなさい。ここは、空気が合わないみたい……」

「どこか悪いのか」


 ふるふると首を振り、メィヴェルは力なくもたれかかった。


「薬がいるか? 何か俺にできることは」

「……帰りましょう」

「帰る?」

「うん、いつもの花たちのところへ」


 もっと散歩していたいけれど、とメィヴェルは青い顔ではにかむ。


「……そこが、そなたのいま帰るべき場所なのだな?」

「ええ」


 気を失うようにメィヴェルが眠りに落ちたので、帰りのフィロスは、二人を振り落とさないだけの全力で空を駆けた。


 いつもの石積みが見えてきた時、花畑には茜色の光が射していた。

 メィヴェルは眩しさに瞼を叩かれて、目を覚ます。

 花々の香りに満ちた風に安堵するように、深い息を二度、三度と吸っては吐いて、頬に血色を取り戻した。


「もう、大丈夫か?」

「うん……ずっと気分がいい」

「早くに気付けばよかったものを、散々な一日にしてすまなかった」

「どうして謝るの? 行きたいと決めたのは、わたしよ。お散歩はとっても楽しかったし、あんなに綺麗な海も……ヴェルミリオとフィロスがいなかったら一生見られなかったもの」


 また連れて行ってねと微笑み、石積みに降りようとするメィヴェルを、ヴェルミリオは素直に帰す気になれなかった。


 地上に降りた瞬間に、国境に分かたれ触れられなくなる。

 できることなら、このまま連れ帰りたいと願うほどに、別れを惜しんだのは初めてのことだ。


 しかし、竜公爵と恐れられる男のもとで、か弱い娘が幸福になれるとも思えず、できたのはせいぜい、すり抜けていく亜麻色の髪を掬うことだけだった。


「……世界が、空であったなら」


 甘やかな花の香りを指の間に残して、メィヴェルは花畑の奥へ姿を消した。



 数日後、ユグナーから速達便が届いた。

 魔導具を嫌うヴェルミリオに配慮して、普段は使うことのない連絡手段だ。

 よっぽどの報せと覚悟して、ヴェルミリオは封を切る。


 ヴェルミリオには見慣れた、だがいささか慌てていたのだろう。いつもよりも荒っぽい筆使いのユグナーの文字が並んでいる。


 一つは、フラー四世の崩御と、それに即して齢十一の少年王が誕生したことを知らせる内容が記されていた。


 二つ目は、シルミランが空から魔力を採集する、浮遊型の魔導具を開発し、実用に乗り出したという、穏やかでない報せだった。

 そして、これに続く言葉が、ヴェルミリオを震撼させた。


『シルミランは空に境が存在しないことを盾に、我が国の上空を侵し、かの新型魔導具を用いて魔力の略奪を始めました。これを受け、新王ルモニア陛下は制裁的侵攻を宣言し――』


 張り詰めた弓弦の上にあった均衡はとうとう破られ、戦いの火蓋が切られたのである。










ーーーー

 次章では一部だけ残酷な描写含みます。全編に渡るのではなく、ほんの一部です。

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