蛍蛾
事務所の裏を流れる水路からは下水の臭いが漂っている。
群飛するユスリカを眺めながらタバコに火をつけ、酸素不足の汚れた水の中で喘ぐ鯉のように半開きの口で紫煙を呑み込むと、ニコチンのせいか疲労のせいかよくわからない目眩で視界が霞んでいく。
無事に家路へ着くための通過点としてこれから踏破しなければならない、残務という瓦礫が散乱した薄暗い道程が脳裏を過ぎり、俺は指先からタバコが滑り落ちてしまいそうなほどの脱力感を覚えた。この一本を吸い終わったら、俺はまたあの事務所の薄ら寒いLED照明の下に身を投じるとしよう。
水路を挟んだ向かい側の民家に名前の分からない植物の生垣が並んでいる。その葉に白と黒の羽根をした鱗翅目が飛来し、留まるのを、俺は漫然とした視線で眺めていた。
蛍蛾だ。
赤い頭部に黒い羽根、羽根には蛍の放つ輪光を象るような白い半円形の模様。
パーツだけを単体で見れば確かに蛍のように見えなくもない。しかしそれを一つにまとめてしまうと蛍とは似ても似つかないグロテスクな生物にかわる。
あの蛍は、あの光は、紛い物だ。
民家の生垣に次々と集まってくる蛍蛾を見ながら、俺は二本目のタバコに火をつけていた。
夏の夜は生ぬるい。
昼間の熱を蓄えたアスファルトが、目玉焼きを作ったあとの卵がこびり付いたフライパンみたいに、黄色い太陽の面影を残しながら惰性的に熱を放ち続けている。
小学生の僕は父親と一緒に開けた田んぼ道を歩いていた。民家が十数件並ぶ集落の明かりから遠ざかってしまえば、あとは等間隔に並ぶ外灯の明かりしか見えない。小学生の僕には次の外灯までの距離がひどく遠く感じた。暗がりに慣れていない僕にとって、闇はどこまでも拡張し広がっていき、全てを飲み込もうとする巨大な暗幕のように感じられた。
僕は父親の手を強く握った。
「あそこ」父親が指差した「あそこにいる」
僕は父親の指差す方を見た。そこには薄い黄緑の光がふわふわと浮いていた。光は尾を引きながら右から左へ流れ、田んぼの奥の方に遠ざかっていった。
僕は外灯の人工的な明かりに向けていた意識を、田んぼの奥の方へと移す。
田んぼの奥には線路の盛り土があり、影が空の黒よりも濃い黒を生み出している。その濃い黒の中に生じたいくつもの亀裂のように、その黄緑色の光が田んぼの至る所で瞬いていた。
「あっ」
そう一言だけ呟いて、その先の言葉を紡ぐのは忘れていた。
薄い黒の中で白い光が輝き、濃い黒の中で黄緑色の光が輝く。上下に分断された視界に、二つの星空が広がっていた。
黄緑の光が一つ、僕の足元へと近づいてくる。
「ホタル」
手を伸ばそうとした時、田んぼ道の先から2つの目が近づいてくるのを視界の隅でとらえた。
「車が来たぞ」
そう言った父親に手を引かれ道の端による。僕たちの後ろを、乗用車が一台走り抜けて行った。ヘッドライトに照らされて、黄緑色の光が見えなくなる。車が消えた時、蛍は田んぼの奥の方へと消えていた。
カエルが鳴いている。
その鳴き声は一帯を埋め尽くしているはずなのに、意識するまでその存在に気が付かなかった。季節と同じだなと思う。春も、夏も、秋も、冬も、意識した時に初めてそれがやって来ていたことに気付く。
この蛍を見たことで、僕は夏の到来を肌で実感した。
「おい」
虫取り網を手にした父親が僕を呼ぶ。虫取り網の中には黄緑色の光が入り込んでいた。僕は驚き、その網の中を見せてとせがむ。
網の中間を手で絞り逃げ出さないように気をつけながら、網を握った左手の隙間に右手を通し、恐る恐る光に手を伸ばす。
実体のない光の粒のような気がしていたそれは、触ると少し硬く、弱々しい実体を持っていた。光を触れる、その事が感覚的に奇妙な事に思われ、僕は指先で何度もその光を突いた。
「手を広げてみろ」
父親のその声に促され僕は右手を広げる。手のひらに何かが乗った感触があり、僕は慌てて手を軽く握った。
網から取り出した右手をゆっくりと広げる。
指の隙間から黄緑色の光が見えた。
今僕は、光をこの手に掴んでいる。僕の胸は高鳴った。
全てが新鮮で、全てが美しかった。
全てが尊く、繊細で、手で触れ、感じたいと思っていた。
蛍は光を放ちながら、僕の手を離れ、田んぼの奥の方へと消えていった。
三本目のタバコの灰が足元に落ちようとしている。
俺の目の前にあるのは蛍蛾だと、そう思った。
会社での地位、売上、ノルマ、上司からの評価、同僚からの信頼、客からの信用、そんなもの俺は本当に欲しいなんて思っちゃいない。そんなものは蛍に見せかけた、ただのグロテスクな蛍蛾と同じだ。
俺が本当に欲しいのは、あの時の空気であり、あの時手にした蛍の繊細な美しさだ。
そんな事を考えながら、俺は足元に落ちた灰を靴底ですり消した。
ただ、きっと、その美しい一匹の蛍を見るために、俺はこれからも蛍蛾を求め続けなければならないのだろう。
そしてそれは誰もが同じなのだろう。
俺は事務所の扉を潜った。
LEDの白々しい光が眩しい。