兄と僕
兄は美しい女性に似ている。古びた写真で見た、異邦の女性。兄はその容姿を嫌っているようだけど、僕は好ましく思う。何遍も父に聞かされるから、彼女のことは実の母のことよりも、よく知っている気がする。お察しの通り、僕たちは異母兄弟だ。兄は妾の子供で、僕が本妻の子供なのだ。妾……と言っても、もう父は彼女と一切関係を絶っている。彼女が兄を産んだすぐ後に、父が兄を引き取った。そんな兄のことを本妻である母がよく思わないのは当然のことで、よく兄は母に折檻されていた。その様子はとても恐ろしく、兄の身体が痛ましく傷付くのは耐えられなかったけれど、僕はその様子をただ物陰から傍観するしかなかった。僕が母の元に居てあげなければ、母は一人になってしまうから……。なけなしの世間体を気にして、母は兄の身体を服に隠れる部分だけ傷付けた。母がよくやる儀式としては火鉢で熱した炭を兄に押し当てるというものがあった。押し殺された兄の悲鳴が上がり、人間の皮膚の焼ける臭いが漂って、僕は泣きそうになってしまうのだった。父は母によって付けられた兄の傷跡を丁寧に手当した。母が兄を傷付け、父が兄を治療する。これが我が家の暗黙の了解になっていた。父は外科医だ。息子の僕も将来的に医者になるのだろう。本当のところ、兄の方が優秀だから彼が跡を継ぐべきだと思っているのだが。
「……善次郎か」
「兄さん、夕餉だよ」
本来は女中の役目であるが、母の目を盗んで、僕はよく兄の元に食事を運んだ。母屋ではなく離れの座敷で、兄はほぼ時間を過ごしていた。母屋には電気ストーブがあるのに離れには火鉢しかないので、とても寒い。兄は、半纏を羽織っているものの、普通の白いシャツと半ズボン姿だった。しかも靴下も履かずに裸足である。座敷には膨大な数の書物が乱雑に積み上げられていた。いつか火鉢の灰が燃え移るのではないかと心配になる。兄は様々な種類の学問に手を出しており、どれも習得してはまた別の学問に手を付けるという行為を延々と繰り返していた。兄はまともな教育を受けさせられていないから全て独学だ。僕と兄は一つだけ年が離れている。その一年の差をもってしても、兄と僕の出来は大きな隔たりがあると思う。少なくとも、父は僕に何も期待していないだろう。兄は無言で夕餉を口にし始めた。いつも兄の食事風景は淡々としていて孤独だ。だから僕はその様子を見守ることにしている。
「何を、じろじろと」
「……ああ、ごめん……」
不機嫌そうに兄は僕を見やった。しかし、僕たちの仲は決して悪い訳ではない。兄がこのように露骨に感情をあらわにするのは僕の前だけだ。兄は浮世離れした雰囲気を纏っている。感情表現の乏しさが、合いの子特有の美貌を際立たせていた。日がな一日、まともに他人と交友関係も築かずに、ただただ学を貪る様子はさながら仙人だ。そんな彼が食事という人間らしい行為をしているのを見るのは、なんだか兄が僕の近くに居る気がして嬉しくなるのであった。
夕餉の後、僕たちは将棋で一本勝負する。我が家には子供らしい玩具なんてない。僕だって年相応の遊びに興味はあるが、テレビも漫画も「阿呆になる」ので禁止だった。そんな中で遊ぶ将棋は僕たちにとって唯一の娯楽だ。まあ、大概は兄が勝利を収めるのだが。稀に僕が勝ちそうになると、兄は将棋盤をひっくり返してしまう。兄にはそういった幼稚な面がある。
「兄さん、ずるいよ」
「……手が……滑っただけだ」
兄はもごもごと歯切れが悪い返事をよこした。毎度ながら苦しい言い訳である。
「はいはい、もう兄さんの勝ちでいいよ」
「勝ちでいい、とはなんだ」
腹が立たないことはない。だが、兄の小さな子供のように不貞腐れた顔を見ていると、なんだか許せてしまうのだった。とはいえ、常に黒星の刻まれた勝負というのは虚しいものだ。僕はこっそり一人きりで「阿呆な」遊びをすることもあった。例えば、蛙に爆竹を仕掛けて破裂させるだとか、下卑た類の遊びだ。よくないことだとわかっていたけれど、高揚感が湧き、不思議と気分が軽くなるのだった。「善次郎」という僕の名前は父方の祖父母が名付けてくれた。父があまりにも放蕩息子だったので、「次は善い子」に──という願いが込められている。でも、僕はこんなだから、母や祖父母の期待に応えられるとは思っていない。ましてや、兄にだけは絶対に僕が「阿呆」だと知られたくなかった。
「おやおや、二人とも喧嘩かな?」
「……父さん」
気まぐれに、父は兄の元へ顔を出す。僕たちは父のことが大嫌いだった。母を狂わせたのは間違いなくこの人だ。普段から何を考えて生きているのかさっぱりわからない。父の存在を完全に無視して、兄は将棋盤と駒を片付け始めた。陰で兄は父のことを「あの男」と呼んで軽蔑しているのだった。だけど、僕は父の話す恋物語だけは好きだ。一枚の写真に並んで写った、ある男女の恋物語。いかにも気弱そうな眼鏡をかけた野暮ったい青年と長い巻き毛が印象的なドレス姿の艶やかな乙女──つまるところ、父と妾だ。写真の裏には「愛を込めて。あなたのジュリエットより」と書いてあるのだと聞いた。便宜上、彼女については「ジュリエット」と僕も呼ぶことにする。医大生であった父が欧州に留学していた時期、女優であるジュリエットに出会ったそうだ。父曰く、寂れた小劇場の中で、ジュリエットは異彩を放つ存在だったらしい。彼女の歌声は美しくも蠱惑的で「まるでセイレーンのようだった」と父は語った。彼女の歌声の虜となった父は劇場に通いつめ、毎回必ず花束と恋文を贈ったのだという。その甲斐あって、二人は結ばれた……という訳である。誌的な父の語り口のせいなのか、僕にはこの恋物語がとてもロマンティックに思えてしまうのだった。兄はどう思っているのだろう? 父は兄の真っ直ぐな長髪に触れると、床の間に飾られた椿の花を挿した。
「やっぱり、糸鶴は花が似合うなあ」
「……」
「糸鶴」という兄の名前は父が名付けた。父とジュリエットを結ぶ「運命の赤い糸」であるので「糸」という文字に、縁起のよい「鶴」という文字を組み合わせたのが由来だそうだ。父は兄の頭を優しく撫でた。兄の琥珀色をした曇り硝子のように靄がかった瞳を見ても、何を思っているのかはわからなかった。
──気付いたのは半年ほど前のことだったか。話すと長くなるのだが、ご了承いただきたい。僕の趣味の一つに天体観測があった。皆が寝静まった後、僕は星座をノートに記録していた。空は、母屋にある僕の部屋からも見えるのだが、離れにある兄の座敷からの方がよく見える。なので、夜な夜な僕は兄の元へ向かうのだった。
「兄さん、起きてる?」
「ああ」
座敷に入ると、書物の山の中にどうにかして布団が割り込んで敷かれていた。布団の上で、月光を頼りに、兄はなにやら山の中の一冊を読んでいるところだった。冬以外の晴れた夜、障子は開けっ放しである。母屋には蛍光灯があるのに離れには豆電球くらいしかないので、その方が灯りを点けるより明るいくらいだ。僕たちの屋敷は田舎にあるため、星がよく見えた。縁側から、僕はノートに星座を記録する。記録した後も、なんだか名残惜しくて、僕は兄とお喋りしてから帰るのが定番の流れだ。兄と僕は他愛もない話をしたり大人たちに対する愚痴を言い合ったりした。碌に友達もいない僕としては、年頃の近い子供とざっくばらんに話す機会はこれだけだった。おそらく、兄もそうだっただろう。だから、ついつい楽しくなって、毎晩のように兄の元へ通い詰めるのであった。しかし、兄が「今夜は来るな」と言ってくる日があった。そういう日はつまらなかった。天体観測は同じ場所でするからこそ意味があるのに。とうとう、僕はその法則性をどうしても突き止めたくなってしまったのだった。今思えば、止めておけばよかったと思う。そして、僕はある法則に辿り着いた。例の日には、床の間に必ず花が生けてあるのである。だから、なんだ? という話なのだが……。
そして、あれは梅雨の少し前のこと。僕は焦っていた。梅雨になったら天体観測が出来ないのに加えて、例の日まであるからだ。僕はますます力を入れてノートに星座を記録するようになっていた。まだまだ夏の大三角形は見えないが、天頂を見上げるとアークトゥルスがよく見える。
「よくもまあ。飽きもせずに来るな、お前は」
「だって、今までの記録の意味がなくなっちゃうじゃないか」
「お前、星になんて興味ないだろ?」
それはその通りで、天体観測という日課は僕の兄に会いに行く口実であった。実のところ、星座の観察なんてどうでもよかった。子供が夜遅くまで起きていても、褒められる「善い子」の趣味だからというだけのことだ。それを兄に見透かされて僕は恥ずかしくなった。
「……すごいね、兄さんは。なんでもわかっちゃうんだ」
「別に……すごい訳じゃない。お前が嘘を吐くのが下手なんだよ」
「兄さんは、僕のこと嫌じゃない?」
「なんで」
「僕ばっかり贔屓されてさ、しかも僕、何も出来ないんだ」
「……馬鹿なことを」
「だってそうじゃないか、兄さんの方が僕よりずっといい」
みっともないことに、僕はいつの間にか泣き出していた。そんな僕を見て、兄は改まった様子でこう言った。
「……なあ、善次郎。お前はこの家からまだ逃げられるんだよ。お前が望めばどこまでも遠くに行けるんだ」
「じゃあさ、兄さんも一緒に行こうよ」
「……僕はもう駄目だ。多分この家で死ぬ」
「なんで、そんなこと言うんだよ。寂しいじゃないか」
「お前が寂しがってくれるだけで十分だ」
珍しく、兄は笑った。そんな兄に甘えて、僕は本当に卑しい人間だ。
さらに、その翌日のこと。とうとう梅雨入りしたのか雨が降っていた。僕は兄に謝りたかった。何について謝りたいのかは、僕にもよくわかっていなかった。何を謝ればいいのかもわからぬまま、僕は離れの兄の座敷に向かっていた。兄の分の夕餉の盆が妙に重く感じた。廊下で繋がれた離れまでの距離はいつもよりずっとずっと長く感じたのに、とうとう着いてしまった。
「……善次郎です」
「入れ」
震える手で障子を開くと、兄の後ろ姿が目に入った。兄は部屋の隅に縮こまって、両膝を腕で抱え込んで座っている。兄はのっそりと立ち上がると、僕から盆を受け取って、いつも通り食事を始めた。なんだか、僕はほっとした。雨は止む気配がない。これでは天体観測は出来ないだろう。謝るなら今が好期だ。何か言わなくてはいけない気がするのに、何も言えなかった。僕がまごまごしていると、先に口を開いたのは兄の方であった。
「……善次郎」
「はい……」
「もうここには来るな」
「えっ」
「こんなところに来ても、お前の為にならん」
「い、嫌だよ。僕の為ってなんだよ」
「ここに来ているのが母さんに見付かったら、お前もどうなるか」
「そんなの……」
「天体観測は止めろ。将棋にはまた付き合ってやるから」
「……わかった」
僕たちはお互い無言で将棋を指した。集中は出来なかったから、今日も僕の負けだ。結局、僕は兄に謝ることは出来なかった。床の間には紫陽花の花が飾ってあった。
いつもなら天体観測をしている時間、雨がますます激しく降り続けた。僕はまだ起きて机に向かっていた。四月から始めた、天体観測のノートを意味もなく読み返す。兄の書き込みや落書きもあって、泣けてきた。これは星座の記録なんかじゃない。兄と僕の記録だ。兄と僕のこと、父と母のこと、ジュリエットのこと、今まで見て見ぬ振りをしてきたこと。その全てがぐちゃぐちゃに混じって、消えては浮かび消えては浮かびを繰り返す。兄に会いたい。今すぐ。それから、僕たちはこの家から逃げ出すのだ。居ても立っても居られなくなって、僕はふらふらと兄の元へ向かっていた。来るなと言われようが、知ったことではない。僕が兄に会いたいんだ。離れにある兄の座敷に着くと、障子は閉め切られており、灯りも点いていなかった。そっと様子を伺うと、人の気配があった。中から人の声がするが、五月雨の音がざあざあ鳴って、よく聞こえない。よくよく聞くと、それは父と兄の声であった。父が随分と声を荒げて、兄の名前を途切れ途切れに何度も呼んでいる。そして、信じられないことに。兄は苦しそうに喘ぎながら、すすり泣いているではないか。──あの兄が。急に僕は変な感じがした。身体の付け根が熱くなるような、あの感覚。父の書斎で卑猥な小説を盗み読んだときと同じだ。下卑た遊びをするときの高揚感にも似ている。当時の僕にはそれが何なのかまだわからなかった。もう僕は何が行われているのか悟っていた。兄は子供だ。子供は大人の前では無力に組み伏せられるしかないのだ。それ以来、僕は天体観測を止めた。こつこつと綴ったノートも裏庭で燃やした。未練はなかった。ただ、僕は兄に嘘を吐き通そうと決心した。兄が僕に吐いたような優しい嘘を。
──そういう訳で、今日も僕たちは素知らぬ顔をして将棋を指す。雪が降ったため、一層冷え込んでいるからか、兄は襟巻きを首に巻いていた。それ以外はいつもと同じく、半纏に白いシャツと半ズボン、そして足元は裸足という恰好だった。寒くないのだろうか? 正直、僕は寒くて堪らなかった。その様子を見かねた兄は襟巻きを首から外すと僕によこした。そのとき、見てしまった。兄の首元に、昨夜の痕跡を。思わず、僕は反射的に目を逸らした。僕の反応を見て、直ぐに兄も察したらしい。
「……知ってたのか」
「えっ? なんのこと?」
僕の声は少し上ずっていた。急速に兄の表情が氷のように冷たくなっていく。
「随分と嘘を吐くのが上手くなったな」
「……」
僕が黙秘を貫くと、兄は裸足のまま裏庭の方へ飛び出して行ってしまった。
「待って! 兄さん!」
兄の足は速かったが、座敷に籠りきりで体力がないため、僕でもすぐに追いつけた。お互い息を切らしながら僕たちは対峙した。
「僕を、馬鹿にしやがって」
「馬鹿にしてなんか……」
「うるさい!」
「……っ」
「僕が淫売だから軽蔑してるんだろ?」
「……僕は、そんな風に思ってない」
「嘘だ」
「嘘じゃない!」
必死に叫んだ僕を見て、兄は鼻で笑った。
「じゃあ、この嫡子様は庶子を憐れんで、お付き合いくださったって訳だ!」
「違うよ、僕は……兄さんのこと好きだよ」
「……好きってなんだよ」
兄は肩をわなわなと震わせた。
「どいつもこいつも好きだの愛してるだの言って……」
ああ、そうか……。じゃあ僕は……。
「兄さん、別に僕を許してくれなくてもいいよ」
「はあ?」
「僕に出来ることさえあれば、何だって兄さんの為にする」
「じゃあ、お前は僕が足を舐めろと言ったら舐めるのかよ」
唐突な一言に僕は面食らった。兄は裏庭にある大きな岩に腰かけると僕に向かって足を差し出した。どういうこと? 僕には兄の意図がわからなかった。
「善次郎、舐めてみろ」
戸惑いながら、僕は兄の前に跪いた。雪の冷たさで真っ赤に染まった兄の素足が目の前に見える。そして、舐めた。兄の足は無味だった。その瞬間、僕の顔面は兄に足蹴りにされた。
「馬鹿野郎。本当に舐めるなよ、気持ちが悪い」
兄は僕のことを鋭く睨みつけた。それは兄が父に向ける視線と同じものだった。兄は、そのまま僕の身体を蹴り倒すと、上から覆い被さってきた。そして、僕の眼鏡を奪うと放り投げた。
「返して!」
僕が視界を奪われてうろたえていると、遠慮のない拳が顔面に飛んできた。力において、十一歳と十歳の差は歴然だった。兄は僕の顔面を何度も何度も殴った。多分、僕の鼻血が兄の手を汚しているのが辛うじて見えた。女中が僕の悲鳴を聞きつけるまで、兄からの一方的な暴力は続いた。兄と僕は無理矢理、大人たちの力で引き剥がされた。この事件は家族会議ものとなり、兄はもちろんのこと、僕も謹慎させられた。程なくして、兄はこの家を出て別の家へ行くことになった。どうやら、フランスのジュリエットの元に引き取られるらしかった。僕が兄の姿を最後に見かけたのは、彼がフランスに旅立つ前日のことである。長かったはずの髪は短くなっており、僕が感じていた独特の仙人めいた雰囲気はなくなっていた。なんというか、普通の綺麗な少年だった。こうして、兄は僕を残してこの家から去っていった。あれから六年の歳月が経つ。僕は十六歳で兄は十七歳のはずである。今なら、兄が僕に対してあんなことをさせたのかは、なんとなくだが、わかる。まだ、僕はこの家で暮らしている。あの事件の後、母はますます僕に対して過剰に干渉してくるようになり、父は他の女とふらふら遊びまわっているようだった。でも、僕の居場所はここなのだ。父の医院を継がなきゃいけないし婚約者もいるし、僕はそうやってただレールの上を歩いて生きていく。兄と僕は違う。僕はここから逃れられないけど、兄はどこにだって行けるのだ。これは僕のエゴでしかないのだが、どうか自由に生きていて欲しいと思う。(終)