君を想い、背中を押す
今年もホラーを書かせていただきました。
人生に疲れていた。
他になにをする暇も与えられず、ただただ仕事に明け暮れていた俺の精神は一日を刻むごとに擦り切れ、いつかぽとりと折れる日が来るのを待ち望みにしていた。
「富田くん。書類、作り直しね」
「は……?」
「いやさ、君に責任があるわけではないんだよ。先方がさ今の方針に納得がいっていなくて―――」
目の前で上司の言葉をどこか夢うつつに訊きながら、また心が擦り切れる音が聞こえる。
一仕事終わりかと思いきや、さらに仕事を増やされる。
それが会社なのは分かっている。
社会の決められたルールなのも理解している。
だが、ここまで精神をすり減らしてもなお、俺の仕事が終わりを迎えることはなく、今日の残業が確定されてしまったのだ。
「はぁぁー」
時間にして午後の23時前。
なんとか残業時間内に仕事を終わらせ、できるだけ早く退社することができた俺は、達成感やら疲労感やらで大きなため息を零した。
ただ電車を待つ時間でさえも、今となっては心地のいい休憩時間にすら思えてしまう。
「……きたか」
電車特有の音を耳にし、鞄を持って立ち上がる。
すぐにライトの明かりと共に、古びた電車がやってきて目の前で止まり、その扉を開けた。
俺はいつものようにそこに入りこむ。
俺一人しか乗らない電車。
いつもは電車を動かしている人のみで、それ以外の乗車は誰一人としていない
そんな中、俺は一人だけの不思議な時間の中で、自身が降りる終着駅までの二〇分間をボーっとして過ごすのだ。
「んん?」
だが、今回は少しなにかが違った。
電車に入りこむやいなや、俺の視界に飛び込んできたのはいつもの電車内ではなく、木材作りの内装と濃い緑色の椅子という一昔前にタイムスリップしたかのような電車の光景であった。
「は? いつの間にリニューアルしたんだ?」
呆然とそう呟いたまま窓に沿うように作られたロングシート型の椅子に腰かける。
この電車は比較的地方の電車であるが、ここまで大きな改装はするだろうか? しても見た目の変わる外観部分だけだと思うが……。
でも、この新しい木材の匂いは好みかもしれないな。
「こんばんわ」
「……!?」
すぐ隣から突然の声が聞こえ、思わず椅子から転げ落ちてしまう。
な、なんだ!? いったい誰なんだ!?
目を見開き驚くを俺を見た、誰か―――着物を着た黒髪の女性はくすくすと笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。驚かせちゃったかな?」
「あ、ああ、いや、こちらこそすまなかった」
立ち上がり、女性から二つ分ほど席を離れさせながら座る。
最初からこの電車にいたのだろうか? しかし、随分と時代錯誤な服装をしている。
赤色と白の着物に紺の袴、黒色のブーツ。
吊り目に、整った顔立ち、艶めいた長く綺麗な黒髪を赤いリボンで一つに結った彼女に見惚れつつ、ぶしつけな視線を向けないように視線を逸らす。
「ふふ」
隣からそんな微笑む声が聞こえると、なぜか女性がこちらに距離を詰めてきた。
せっかく空いた二つ分の席を遠慮なく埋めた彼女は、さらに遠慮なく話しかけてくる。
「貴方はいつもこの時間に乗っているの?」
「あ、ああ。君も終点まで行くのか?」
「……。ええ、そうだよ」
意味深な沈黙の後にそう答える彼女。
どこか暗い彼女に、しまったと思う。
「君、ひどい顔だね」
「……すまない」
「あ、いえ! そういう意味じゃないの! ただ……隈もすごいし、ものすごい疲れた顔をしているから」
「……ははは、そうかな」
そりゃそうか、と他人から言われて自分の状態を再確認する。
ああ、これじゃあ、爺ちゃんもばあちゃんも心配するよなぁ。
「そういう君はどうしてそんな服なんだ?」
「これ? 流行りの服なんだ」
その場で立ち上がりくるりと回る彼女。
花のような香りと、ブーツが木の床を叩く軽快な音が響く。
普通ならコスプレと思うはずだが、なぜか彼女はその所作が異様に様になっていた。
「似合っているよ。すごく」
「そう言ってもらえてとても嬉しいよ」
普段とは異なる状況。
代り映えのない日常に起きた変化に、俺は少しだけ興味を抱いた。
「君の、名前を教えてくれないか?」
口に出してから自分がとんでもないことを口にしていることに気付く。
いきなり会って数分も経っていない女性の名前を訊きにいくやつがいるか?
疲れのあまり常識が頭から外れかかっているんじゃないか?
慌てて、訂正しようとする俺に、しかし彼女は一層に笑みを浮かべる。
人形のような端正な顔立ちに喜色の感情を浮かべた彼女は、自身の胸に手を当てながら、はっきりと、口ずさむように口を開いた。
「私は清香。財前清香だ」
「財前さんか」
「ふふふ、そんな堅苦しく呼ばなくてもいいよ。気軽に清香とそう呼んでほしいな」
苗字が嫌いなのだろうか。
僅かに眉をよせた彼女に頷く。
「今度は君の名前も教えてくれないかな?」
「富田……鷹雄」
「とみた たかお……」
俺の名前を反芻するように呟く清香。
「ミツケタ」
口元に手を当て、何かを呟いた彼女は気を取り直すかのように再び、俺の隣に座ると上機嫌に話しかけてくる。
「話をしないかい? 目的地まで」
「あまり面白い話はできないけど……」
「なんでもいいさ。私は暇を持て余しているからね」
……別に、構わないか。
元々は俺一人だけだったんだ。
それなら、話し相手がいてくれた方が時間も忘れられるし、なによりこんな美人と話せるだけで儲けもんだろう。
それから、俺は何度か和服姿の女性、清香と電車で同席することになった。
自分から会いに行ったわけではない。
単純に残業をし帰る時間になると時折あの内装が木造の電車がやってきて、そこに清香がいるのだ。
そこに疑問こそ抱いた。
しかし、それ以上に俺はどうでもよかった。
ただ、人との会話に飢えていたのかもしれない。
「へぇ、実家で暮らしているんだ」
「実家といっても祖父母の家だけどな。両親と兄弟は別のところ」
「仲が悪いの?」
いつものように隣に座る彼女に俺は首を横に振る。
「いいや、むしろ心配してくれているよ。特に祖父母はね。実家で暮らしているのは……そうだな、仕事場までの距離が近かったって理由からだよ」
「そうなんだ」
「君はどこに住んでいるんだ?」
「私?」
うーん、と唇に指を当て思案する。
思い悩むなら言わなくてもいいとは思うが、どうなのだろうか?
「君と同じ町に住んでるよ」
「え、ま、まあ、たしかに終着駅まで同じだしな」
よく考えずもなにもその通りだった。
我ながら変なことを訊いてしまったな。
「顔色、また悪くなってる」
「ははは、大丈夫だよ。ちゃんと寝てるし、飯も食っているから」
「仕事、やめちゃえば?」
その言葉に思わず声を失う。
しかし、次に俺の内側から抱いた感情は怒りでも悲しみでもなく、諦めであった。
「今、やめても変わらないよ。多分、どこも同じようなものだと思う」
「大変だね、君の生きている時代は」
「そうだな。いっそのこと、どこか遠くにでもいけたらどれほど楽か」
しかし、それができないのは俺が一番良く分かっている。
実家には爺ちゃんとばあちゃんがいるし、家族に兄弟だっているんだ。
それに、会社にだって友達もいる。
そんな中で俺がいなくなれば、きっと騒ぎが起こる。
「……叶えてあげよっか」
「ん?」
「どこか、遠くに行きたいなら私が手伝ってあげようか」
「清香……?」
隣で俯き、そう言葉にする彼女に首を傾げる。
「私ね、好きな人がいたんだ」
そのままそう言葉にする彼女に驚く。
しかし、ここで話をするということは大事なことなのだろう。
ここは聞き手に徹するべきだ。
「子供の頃から、ずっと好きだった。いつか自分の想いを伝えようって、そう思っていたんだ」
「……できなかったのか?」
俯いたままこくりと頷かれる。
「姉とね、婚約してたんだって」
「それはまた、気まずいな」
「悔しかった。子供の頃からずっと決められていたって。18になって知らされて、両親の誰も彼もがその事実を知っていて……私はずっと蚊帳の外だった」
酷い話だな。
娘の心の機微くらい親は知っていてもおかしくないだろうに。
話題に触れることを恐れたのか、はたまたいつか別の人を見つけると思っていたのか、そのつもりはなかったといえども彼女の家族とその周りは、彼女を裏切ったのだろう。
「すごく憎かった。姉も、家族、なにもかもが」
「……好きだった相手もか?」
今度は彼女は頷かなかった。
肩を僅かに震わせ、床の一点を見つめたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「好きだったけれど、憎くもなった」
「……」
「姉が婚姻を結んで、あの人と幸せな家庭を築く姿なんて目にもしたくなかった。だから……」
言葉が途切れる。
そこで、俺は異変に気付く。
俯いたままの彼女の、長い髪に隠れた横顔が笑っていることに気付いたからだ。
「だから、私は……」
「清香……? 大丈夫か?」
「もう、あんな人、どうでもいい。ミツケタ……ミツケタから……」
どこか不気味だ。
そう思いながら、彼女の肩に触れようとすると―――不意に、電車が止まり、終着駅に到着したことを知らせるアナウンスが響き渡る。
外の景色を見て、再び彼女に視線を戻す。
「……え」
そこには既に誰もいなかった。
いや、それどころか木材で作られていたはずの駅の内装は、以前までと変わりない現代へと戻った内装へと変わっていたのだ。
その光景に唖然としていると、電車を動かしていた駅員が俺へと近づいてくる。
「お客さん、終点ですよ」
「あの、ここに女性がいませんでしたか? 20歳くらいの着物を着た……」
「女性? いえ、この時間帯は貴方しかいませんし、なにより……」
駅員さんが訝し気な様子で先ほどまで俺が座っていた場所を指さす。
そこは先ほどまで俺が座っていた場所で、それ以外にはなにもなかった。
「貴方、つい先ほどまで眠っていたじゃないですか」
背筋が冷たくなる。
ふと、彼女の肩に置こうとした手に何かが握られていることに気付く。
恐る恐るそれを開いてみると、そこには―――彼女の髪留めに使われていた赤いリボンが握りしめられていた。
●
電車の中で行われていた不思議な体験。
その経験を経た俺は、正直特に思うことはなにもなかった。
別に次に帰るときは時間をズラそうだなんて考えてもいなかったし、次に彼女に会った時に態度を変えようだなんても思ってもいなかった。
むしろ、そういう存在だったのかーと納得すらしていた。
「爺ちゃん、女性が着物とブーツを履いてたことが普通の時代って知ってる?」
今日は久しぶりの休日。
仕事が休みでも、いつも通りの時間に起きてしまった俺は、爺ちゃんとばあちゃんと朝食を同席しながら、ふとそんなことを訊いてみた。
「鷹雄、お前、俺がいつの時代の人間だと思ってんだ。俺ァ、68だぞ。んな恰好、もっと前の話だ」
「そうなのか?」
「ああ、着物にブーツっていうと、大正あたりの学生じゃないか? なあ、そうだろ?」
そう爺ちゃんがばあちゃんに尋ねると、ばあちゃんは頷く。
「たしか、そうだったねぇ。鷹雄のひい……ひいお爺ちゃんにあたるくらい世代だと思うよ」
「そんな昔なのか」
「……いきなりどうしてそんな話したんだ?」
「いや、実はさ」
俺は最近帰宅時に体験する不思議な体験を爺ちゃんとばあちゃんに話してみた。
ばあちゃんは「不思議なこともあったものねぇ」とのんびりとした反応をしていたが、爺ちゃんは逆にどこか険しそうな、信じられないようなものを見るような目で俺を見ていた。
「鷹雄、その、女の名は?」
「え……財前清香って人だけど」
「ッ!」
「どうしたんだ?」
「ちょっと、待ってろ」
なにかあったのか、朝食をそのままにして家の奥へと行ってしまう爺ちゃん。
数分ほどして、彼は古ぼけた大きな本を持ってやってくる。
「ちょっと、朝食に埃が……」
「掃除は俺がする。今はとにかく鷹雄に話をさせてくれ」
「分かりましたけど……それは?」
ばあちゃんが興味深げな視線を浮かべると、爺ちゃんはおもむろに大きな本をテーブルへと置いた。
古ぼけた、埃の被った灰色の本。
元の色が分からないほどに色あせたそれを見て首を傾げていると、本の表紙に手を置いた爺ちゃんが話し始める。
「俺の祖父のものだ。大切に保管するように言われていたが、まさか今引っ張り出すとは思いもしなかった」
「俺にとってのひいひい爺ちゃんってことか?」
「そうなるな。まあ、紛らわしいから祖父って呼ぶが」
どうしてさっきの話からこれを?
「財前ってのは嫁入りした祖母の旧姓だ」
「……は? どういうことだ?」
「財前清香ってのは、祖母の妹だったらしい」
じいちゃんが表紙を開くとそこには家系図のようなものが記されており、指で指し示された場所には財前葉波と書かれた隣に、財前清香という斜線が書かれた名前があった。
「大正11年、財前清香は不慮の事故で命を落とした」
「不慮の、事故……でも、どうしてそんなことを爺ちゃんが覚えているんだ? 言い方は悪いが、祖母の妹のことはそこまで覚えるほどのことじゃないと思うけど」
記憶に留めて、わざわざここで言うことでもないだろうし。
普通は忘れるんじゃないか?
「祖父から聞いた話だが、事実は異なる」
「違う……?」
「財前清香は自殺した。当時、出来たばかりの電車に身を投げ出してな。遺書には祖父母と、その家族と親戚に対しての猛烈な恨みの言葉を遺していったらしい」
「……」
背筋が凍る。
はじめて、俺は彼女に対して恐怖のようなものを抱いた。
爺ちゃんが本のページをめくると、そこには白黒の写真のようなものが挟まれていた。
一人の、椅子に座った女性の写真。
昔というより、現代よりの美人な女性、清香の姿がそこにはあった。
「これ、は……」
服の柄も、なにもかもが同じ。
震える手でモノクロの写真を手にする。
「誰も、信じちゃくれねぇから今まで黙っていたが……俺も、財前清香に会ったことがある」
「え……?」
爺ちゃんの言葉に顔を上げる。
心なしか、その表情は青ざめているようにも見えた。
「お前と同じくらいの若い頃、電車でな。時代錯誤な服着た美人がいつの間にか話しかけてくるもんだからびっくりしたが……目がな」
「目?」
「生気がないんだよ。なにもかもが不自然で、死に近づいているって感覚が纏わりつくんだ。……お前は感じなかったのか?」
感じなかった。
毎日死にそうになっているから、感じる余地もなかったのかもしれない。
「俺はお眼鏡に適わなかったらしい。すんなりと帰してくれて、それっきりだったが……お前は、いったい何度、彼女と遭遇したんだ?」
「……ここんところ、ほぼ毎日……だった」
「なら、今すぐ電車で帰るのはやめろ。タクシー代は出してやる。だから、もう彼女とは会うな。下手をすれば……戻ってこれなくなるぞ」
「戻れなくなるって……」
「死者に引きずり込まれるってことだ」
現実味がない。
ただ、妙な胸騒ぎがしていた。
その時、ふと俺は無意識に自身のポケットに触れていることに気付く。
それは彼女の持っていた赤いリボンであった。
●
「はぁ」
休みが終わり、出勤する日。
いつも通りに早朝の駅へと向かい、改札を通った後に電車を待つ。
この駅は朝はそれなりに人もおり、混雑とはいかないまでもそこそこ人混みには気をつけなければならない。
「……清香、か」
血筋としてはどうなるのだろうか?
限りなく遠い親戚みたいな感じか。
大正時代の学生だから、着物にブーツというその時代の最先端を先取りしていたということなのか?
「何考えてんだろ」
どちらにしろ、この時間帯は関係ない。
爺ちゃんとばあちゃんから帰りのタクシー代ももらってしまったわけだが、正直今夜は使うつもりもない。
もう一度、彼女と話をしてみたい。
なぜか、そう考えてしまったので、今夜で見極めるつもりだ。
「来たか」
電車の音が聞こえ、気をしっかりと持つ。
とりあえずは今日も今日とていつも通りの仕事をしなくちゃな。
線路を走る電車がそれなりの速さでやってきたところで、やや前に出る。
「ごめんね」
耳元で囁かれる声。
その声に振り返ろうとする前に、背中に衝撃が走る。
「———え?」
ホームから突き落とされた。
こんな、人だらけの場所で?
線路に落ちる瞬間、後ろを振り向いた先には驚愕に表情を強張らせる人々と、恍惚とさせた見惚れそうな笑顔を浮かべた和服姿の女性―――清香が、そこにいた。
衝撃が身体に叩き込まれる。
痛みを感じる間もなく、意識を失った俺が次に目を空けると、そこはいつも見ていた木材作りの列車の中であった。
「ごめん、ごめん……鷹雄」
身体には傷はない。
痛みもない。
夕焼け色に染められた内装に目を向けながら、俺は自身の頭を膝にのせている清香を見上げる。
「俺を、殺したのか?」
「どちらにせよ、君はいつか死んでいたよ」
「……」
強く否定できないのが苦しいところだ。
黙り込んでしまった俺に、清香は微笑む。
「君が好きなのは俺じゃないだろ?」
「百年の恋も冷めるっていうだろう? もう、私はあの人のことをなんとも思っていないんだ」
俺の額に手を置く。
そして、頬を滑るように触れ、喉へと手を添えた。
「最初はね、呪い殺すつもりだったんだ」
「……」
「私を裏切った彼と姉の子孫。殺せば、この胸の内をかき乱す憎しみが消えると思ったけれど……」
彼女の瞳から涙が溢れる。
しかし、幽霊だからかその雫は俺のところにまでは落ちてこずに宙に霧散していく。
「どうやら、私は本当に君のことが好きになってしまったんだ。だから、どうでもよくなった」
「どうでもよくなったって?」
「恨みとか、憎しみとか。……その代わりに、寂しくなった」
涙を零しながら、彼女は俺の身体を抱きしめた。
身体に力は入るが、不思議と抗う気力はわかなかった。
「寂しくて、寂しくて……でも、君と話しているときはそんなこともなくて……だから、耐え切れなくなった……」
元より、人を憎むことが苦手なのだろう。
だから悲しみに耐えきれず自分から命を投げ出してしまったし、俺の代までに父も、爺ちゃんも殺すことはなかった。
いくらでもチャンスはあったのに。
しかし、なにも俺まで殺されるとは思いもしなかった。
「わざわざ殺さなくても、会いにいくつもりだったのに」
「……ごめん、ごめんね。もう、押さえきれなくて、不安で……」
実感はわかないが、恐らくこれが幽霊としての感覚なのだろう。
ここまでくれば怒っていいか笑っていいのか分からないな。
ふと、ポケットにあるリボンを取り出し、彼女の前に掲げる。
「ほら、忘れ物だぞ」
これを使って俺に干渉したのだろうか?
今となってはどうでもいいことだが。
「……ありがとう」
涙を拭い、リボンを受け取った彼女が髪を結う。
そうしてはかなげに微笑んだ彼女は、また俺の額に手を置いた。
「あの世とこの世を行き来する電車。君も私も、それに囚われた幽霊で、これから先永劫に不変なものとして残り続ける」
もう、なにもする必要はない。
働くことも、なにも。
「必要とあらば、外界のものを取り込もう」
電車の揺れる音。
窓から見えるどこかも分からない景色。
「恨んでくれても構わないから」
ここには、俺と彼女しかいない。
既に彼女は死んでいて、俺もついさっき彼女に殺された。
「ずっと、一緒にいよう」
俺は、囚われてしまったのだろう。
彼女と、この不可思議な電車に。
だけど、不思議とそれでもいいな、と思ってしまった。
時代に殺されかけた男と時代に取り残された女の話でした。
これぞ、ハッピーエンド(白目)