ランチタイム in 台風の目
私立マクミラン高校の土地は、おそらく全国の私立高校の中ではかなり上位に食い込むくらいに広大だ。その土地を有効活用し、校舎は勿論、グラウンドやプールといった学校環境にもしっかりと力を入れている。昨日の朝、氷命によりパレード会場と化した中庭もまた、専属の庭師さんにより毎日手入れがされていたりする。そのため中庭は全校生徒の憩いの場としてかなりの人気がある。
コンクリートの校舎に囲まれた中庭には真ん中に一本の大木がそびえており、そこから東西南北に伸びる歩道。各所に置かれた木製のベンチは、カップルでなくとも座ってお茶会を開きたくなるほど居心地が良い。他には、金持ちの屋敷にでもありそうな豪華な日本庭園染みた池が広がり、苔むした中島や石が転がっている。池には色とりどりの錦鯉が優雅に泳いでおり、噂では鯉以外の生物も飼育されているらしい。氷命の悪戯で最も力を入れていたウサギ小屋では、白、黒、茶色、斑等々、こちらも様々な模様のウサギが飼育されており、実は生物部でなくても小屋への出入りは自由となっている。小動物を間近で観ることを目的とされているようだが、むしろそれが災いして、氷命の暴挙を許してしまったわけだ。とは言え氷命の騒動があったから、では小屋への出入りが困難になったかと思えばそんなことはなく。それまでとなんら変わりなく、規制もされることなく小屋への出入りは自由なのだ。この辺りの対応は、教師側の怠慢……などではなく、生徒会の判断による。マクミラン高校では『生徒の自立性』を尊重しすぎているところがあり、教師は大抵の学校運営には口を挟まず、生徒会を中心とした生徒主体の学校運営が成立している。が、勿論教師には監督責任というものがあり、故に自分の意思、もとい私的目的のために部活動を中止にしたりもできる。そういった点で、マクミラン高校の謳う自立性とやらは、若干なあなあになっているところもあり。開校からまだ幾年もないこの高校の風紀が乱れるのも、もしかしたら時間の問題なのかもしれない。
とにかく、そんな居心地の良い中庭は昼食時ともなると競争率も高くなってくるわけで。食堂が設けられているためそこを利用したり、学校内のあちらこちらで腰を落ち着かせられる場所を見つけては食事をする生徒がいる中でも、中庭はそれなりに人通りが激しい。直前まで授業があり、予約制などあるわけがないので、結局場所取りは早い者勝ちとなってしまうわけだが……。
「……今日は一段と多いね、人」
お弁当箱を片手に、僕は中庭と校舎の境目付近で、人がごった返す中庭の様子を呆然と見ていた。
隣では葛哉が、いつの間にか自販機で買ってきたであろうパックのバナナオレをチューチュー吸っている。
「天気良し、気温良し、風通り良し。こんだけ好条件が揃ってりゃ、そりゃ外でランチと洒落こみたくなるわな」
「座れるんかね、これ」
結果の決まりきっているぼやきをしつつ、僕は周囲をぐるっと見渡す。
お昼を一緒に。そう約束をした張本人である貴蕎の姿は見られない。悠歌とひめちゃんの姿も同様に。
「別の場所探しに行ってるとかじゃね?」
ポケットからスマホを取り出しつつ、葛哉は画面をチラリと確認する。僕もそれに倣い、着信の有無を調べた。しかし、ディスプレイには特に報せは表示されておらず、初期設定のスタート画面が映し出されているだけ。
こちらから連絡を取ってみようかと、通話アプリをタップしたところだった。
「ユ~ウ~、こっちよ~♪」
ざわつく生徒達の波を払い除け、キーの高い声が中庭に響いた。拡声器でも使っているのかとすら思われる声量に固まっていると、再度呼ぶ声が聞こえる。
「ユウ、こっちよこっち! 木の下よ!」
間違いでなければ、やはり僕の名前が連呼されている。更に間違いでなければ、その声は貴蕎でも悠歌でもひめちゃんのものでもない、しかし確実に聞いたことのある声。
「……スマン、またもや俺の腸内環境が盆踊りを始めたようだ。悪いが昼は別々で摂ろう」
流れるように言葉を残し、さくっと踵を返す葛哉の襟元をがっと掴むと、僕は大きく深呼吸を一回。そのまま葛哉を引き摺りながら僕を呼ぶ、貴蕎曰く災厄の元へ歩き出した。
「優、正気かッ!? お前、昨日今日とイベント続きだろ、感覚マヒしてるって絶対ッ! どう聞いても『あの』アリスの声だぞ、俺なら絶対近づかないもん、絶対ろくな目に合わねぇってッ!」
「葛哉、僕達友達だよね」
「じゃあ友達辞める! 少なくともこの昼休みの間は知らぬ人同士の関係に戻ろうや! ってか、友達だと言うなら巻き込まんでくれ!」
「いや、そもそも今回の昼食会に無理矢理参加してきたの、葛哉でしょうが」
僕だって、正直なところ行きたくない。何故なら僕を呼ぶ声はどう聞いても我が校一の大嵐ちゃんのものだもの。どこから昼食会の話を嗅ぎ付けたのかは分からないけれど、もしかしたら偶然貴蕎達が捕まっただけか。どうあれ、今こうして僕を呼んでいるということは、少なくとも相手からは僕の存在が確認されている。無視するなんて、できるか。
「……お待たせ」
中庭の真ん中にそびえる楠の下、可愛らしい花柄の敷物を敷いて、これまた可愛らしい女の子達がお出迎えをしてくれる。
一人はあうあう、と気まずそうに視線を泳がせる悠歌、その隣で不思議そうにしているひめちゃん。向かいには……ちょっと言葉では表現しない方が良さげな雰囲気を漂わせる貴蕎。そして、その貴蕎の視線が向く先……満開な笑顔を咲かせる百合乃 氷命さん。
「状況説明をーーー」
「優、ボクはこの国の法律を変えたい。人一人までなら、手を出しても問題無いという法律をーーー」
「分かりました、スミマセンでした」
貴蕎のボーイッシュボイスで氷点下な言葉を聞くだけで、僕は悪くないのに謝罪を溢してしまう。これが人との関係を良好に保つ秘訣だ。挨拶・謝罪、大切。
「さっきからどうしたの皆? 折角こうして集まってお弁当を食べるというのに、難しい顔をしている人ばかりだわ。お腹でも痛いのかしら?」
「どちらかと言うと頭が痛くなってる人が大半じゃないかな」
「頭が痛いの? だったら保健室に行ってお薬を貰ってくるといいと思うわ!」
「残念だけどね、百合乃さん。この頭痛は薬ではどうすることもできないんだ……」
世間一般的に、『悩みの種』と呼ばれているんだけどね。
「そうなの? でもやっぱり無理は良くないわ。お弁当を食べたら、皆で保健室に行きましょ♪」
「保健室に行くことをそこまで楽しみにしている人はなかなかいないと思うよ」
僕の言葉を聞いているのかいないのか。氷命は陽気に鼻歌を奏でながら、おそらく自身のものであろう黄色の弁当箱を手にした。
「待て百合乃。そもそもボク達は君の同席を認めていない。急に入ってきて、断り一つ無いというのは、些か礼儀がなっていないのではないかい」
それを遮るように、至極冷静な口調で貴蕎が言う。何故か、その言葉には言い知れぬ必死さが滲んでいるような気がしてならない。
「あら、ご飯は皆で食べた方が美味しいわよ?」
「そういうことを言っているわけではない。まずは皆に断りを入れるべきだと言っているんだ」
そう言いつつ、チラリと貴蕎は横目で僕と葛哉を見る。
なるほど、つまり氷命からの申請を断れ、ということなのだろう。
貴蕎には申し訳ないけど、あまり良い気持ちにはなれないというのが本音だ。確かに氷命はトラブルメーカーだし、人の領域にもガツガツ入ってくるぐらいに遠慮というものを知らない。でも、だからと言って疎外にするというのも……貴蕎の頼みとは言え、そこまで僕には鬼になれそうにない。
貴蕎を尊重するか、氷命を尊重するか。さて天秤に掛けられるのかと思案していると、それとは別に予想外の言葉が耳に届いた。
「え~っと、よく分からないですけど、ウチは一緒でも良いですよ? 大勢での方が楽しい、という意見には賛成ですし」
何も知らないひめちゃんが、さらっと答える。
「あの……わ、私も、ご一緒でも、良いかなって……」
なんと、氷命の意外性を目の当たりにしているはずの悠歌までもが、氷命の同席に賛成の意を示したのだった。これにはバネに弾かれたかのように、貴蕎がバッと悠歌を見る。その行動にビクリと身体を震わせつつ、悠歌は慌てたように言葉を繋いだ。
「お話は聞いています、昨日の朝の……。それに今日だって。ビックリすることは、多かったです……けど、ゆ、百合乃せ、先輩を見ていると、なんだか、私も楽しい気持ちに、なれる、かなって。慌ただしい、というのもあるけど……えっと……」
「賑やか?」
「そうです、賑やかで、楽しい!」
つっかえながらも気持ちの吐露に補助を入れると、嬉しそうに悠歌は肯定した。
「あれは……楽しいという言葉で括って良いものか」
「少なくとも、見てる側としては楽しいものだったよ」
「……当事者としては迷惑極まりない。と言うか、優も当事者の一角だろう」
「まあ、そうだ、ね。でも……」
複雑な表情を浮かべる貴蕎に、僕も自然と悠歌の言葉のフォローを入れていた。いや、悠歌のフォローも勿論あるのだけど、それ以前に、氷命の行いにも。
僕が言葉を繋げないことに何かを察したか、貴蕎は大きく溜め息を吐いた。
「どうやら、肯定意見の方が多いようだね」
諦めたように、貴蕎は氷命に向き直ると、いつものピシッとした表情を作る。
「百合乃さん、一緒にご飯を食べましょう」
「ええ、勿論よ♪」
待ってましたと、氷命はお弁当箱を開き始めた。そのあまりにも無邪気な姿に、身構えることすらバカらしくなってしまう。
「やれやれ」
小説の主人公のように、苦笑と共に、僕は溢すように呟くと、氷命に倣ってお弁当に手を付けた。
「……ん? なんでちょっと良い感じにまとまってんだ。俺の意見は?」
「半数以上賛成の時点で、アンタの意見なんて無駄だからカットよ、カット」
「俺の存在理由ッ!」
そういえば、葛哉には発言権すら回らなかった、御愁傷様。
おにぎりを頬張りつつ、僕は横目で、嘆く葛哉とそれをウザったそうにあしらうひめちゃんを眺めていた。
さて、悠歌が氷命を受け入れたからといって、氷命が大人しくなるとは一切思えないわけで。
そんな僕の危惧を他所に、意外にも昼食会にはとても穏やかな時が流れていた。
「じゃあ、ヒビキとクズヤは兄妹なのね」
悠歌の手作り弁当に舌鼓を打っていると、氷命の楽しそうな声が聞こえてくる。
ヒビキーーーそう言えば、ひめちゃんの本名はそんな感じだっただろうか、と。ふんわり考えながら見ると、ひめちゃんと氷命が談笑しているのが見える。
「慣れている人は、皆『ひめ』って呼ぶんですけど」
「あら、ワタシもヒメ(氷命)なのよ。同じ漢字を書くのかしら? 氷の命って書いて、氷命」
「それは……不思議な言葉を使うんですね。ウチは『響』く『姫』と書いて、響姫。だから、本名は藤杉 響姫なんです」
「ヒビキなのに『ひめ』なんて、面白いわね! 何か理由があるのかしら?」
「理由は……ちょっと恥ずかしいんですけど……」
響姫を『ひめちゃん』、と呼ぶ理由を、僕はひめちゃんから聞いたことがある。確か藤杉家には女の子が産まれることが少なくて、そんな中で産まれたものだから、皆が姫様、姫様と崇め出して。そんな経緯から、でも『姫様』は堅苦しいから、可愛く『ひめちゃん』と呼ぼう、と。つまり漢字で書くならば、『姫ちゃん』ということになるわけか。
それを葛哉から聞いたときには何とも思わなかったが、確かに葛哉の家族は皆、『姫ちゃん』と呼んでいた気がする。目に入れても痛くない、ということなのだろう。
なんだかんだ、葛哉も姫ちゃんのことは『姫』と呼ぶことが多く、藤杉家では最早それが普通となってしまっている。
「名は体を表す、なんて言うけど、あれは嘘だ。少なくとも俺の妹には『姫』なんて高尚な文字は似つかわしくない」
ふてぶてしくタコさんウインナーを口に入れながら、葛哉はさも下らない、と言いたげに溢す。
「とか言いつつ、しっかり葛哉は『姫』呼びしてるわけだけど」
「……慣れって怖いよな。物心付いたときからの呼び方って、意識しててもなかなか直らないんだぜ」
「良いんじゃないの。葛哉達がどう思い合ってるか知らないけど、僕から見たら葛哉と姫ちゃんは相当仲良しだよ」
「止めろ止めろ、ジンマシンが出るわ。何故俺があのじゃじゃ馬に対して仲良きことをせにゃならん」
「その乱暴な物言いが、却って妹への配慮の裏返しになってるんだと分かるくらいには、僕は葛哉のことを知ってるつもりだよ」
「妹への配慮って……お前にはどう足掻いても負けるけどな」
呆れた顔で葛哉は僕を、そして姫ちゃんの隣でクスクス笑う悠歌を見る。
「姫も、悠歌ちゃんくらいおしとやかなら、俺ももうちょい兄貴らしいことをするかもしれないんだけどなぁ」
「そう思うこと自体、葛哉が響姫をどれだけ想っているのか、という証になりそうだけれどね」
ふっと、貴蕎が僕らの間に入るように言葉を紡いだ。どうにも氷命から離れる口実として、こちらの話題に入ってきた気がしてならないのは何故だろう。
「一人っ子のボクとしては、上や下に頼りになったりならされたりする存在がある、というのは羨ましいものだよ」
「そうは言っても会長、いざ兄妹ができるとなると、絶対その考えは後悔に変わると思うぞ」
「葛哉は素直じゃないね」
「……会長は、時折優みたいになるな。人の言葉を曲解する」
「おや、それは心外だね。ボクはなるべく他者の気持ちを汲み取れるよう努力しているつもりだよ」
「だとするなら……あ~、いや、なんか堂々巡りな気がしてきたからいいわ」
大きな溜め息を一つ。部が悪いと感じたか、葛哉は無理矢理言葉を中断させ、視線を明後日の方向へ向けた。
そんな態度が尚更、葛哉の妹想いな性格、一途というか芯があるというか。根の良いところが感じられるわけだけど。
「つっても、優には負ける。確実に」
もういいと言いつつも、葛哉は箸の先端をピッとこちらに向けてくる。なんとマナーの悪いこと。
「僕? そんなに特筆するようなものでもないと思うけど」
「いいや、お前の悠歌ちゃんへの愛はマジものだ。そして、その逆もまた然り」
「なんかその言い方だと、いけない一線を越えてるみたいだね」
「いけない一線を越えてるのかッ!?」
「なんで貴蕎はこういうことに関すると極端に反応するかねえ!? 普通に考えれば分かるでしょうよ!」
「普通に考えて……その可能性も否めないとボクは感じる」
「優、『普通』ってのはな、人それぞれ違うんだぜ」
「倫理的な普通さを求めてるだけですけど!?」
カッカッ、と笑う葛哉、先程の仕返しのつもりなのか。そして貴蕎は何事もなかったかのように自分の弁当を咀嚼している。満足したのだろう。この二人と会話をするのは、時折猛烈に疲れる。
「全く……まぁ、今更先に生まれた、後に生まれた、なんてことは変えようがないんだからさ。今の境遇を受け入れるしかないんだよ」
「優のそういう達観した性格、嫌いじゃないぜ。時と場合によるけどな」
「えらく限定的な好感な気がするけど」
「お前は達観している前に、現状をしっかりと把握することが大事だと思うぞ」
「……現状?」
言われ、手元の弁当から顔を上げる。
楠の根元に、悠歌がいる。その傍に姫ちゃんと氷命が明るく談笑してーーー。
「談、笑?」
「お前にはあれが談笑に見えるんだな。俺には悪代官のやり取りに見えてならん」
葛哉の面倒臭そうな言葉が耳を掠める。悠歌はともかく、僕には姫ちゃんと氷命の表情に貼り付く笑みが、寒気をもたらす某に感じる。つまり、葛哉の言っていることはそういうことなのだろう。
「俺は姫のことをよく知ってる。アリスとくっついて、ろくなことをしない訳がない」
だから俺は……と、ブツブツ溢しながら、葛哉は口に運ぶ箸のスピードを速めた。
まさか、考えすぎでしょう、と。苦笑いを浮かべながら、いつの間にか僕の弁当を食べるスピードも加速していた。
「では優、葛哉、ボクは一足先にお暇させてもらうよ」
そうこうしている間に、いつの間にか貴蕎は弁当箱を包み終え、いそいそと腰を上げだしていた。
「貴蕎、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「それは今すぐじゃないといけないことかな、優。悪いけれど、この後に生徒会の仕事が控えているんだ」
「おいおい会長さん、今回の昼食会は会長さん主催らしいじゃん。駄目だよ、主催者がいち早く逃げ……抜けるなんて」
「葛哉、君の今度の中間テスト、生徒会長権限をもって、範囲を他の生徒の二倍にしてあげようか」
「どんな横暴!? それは最早生徒会長の権限の枠を越えてないか!? てか、逃げるな会長、潔く共倒れしろ!」
「あのトラブルメーカーからの洗礼は既に受けた、バトンタッチバトンタッチ!」
「貴蕎、すっかりトラウマなんだね……」
体裁を取り繕うこともせず。貴蕎はとにかく一刻も速く、この場から立ち去りたいという気持ちが先走っているようで、その足をがっしり掴む葛哉の表情も、これまた本気だった。
「トラウマ? 虎さんとお馬さんがどうしたの?」
どさくさに紛れて退散しようと試みていた矢先、僕のすぐ隣から、とてつもなく無邪気な声が響いた。今となっては、その無邪気さが甚だ恐怖でしかない。
「……姫ちゃんと話してたんじゃなかったの、百合乃さん」
なるべくぎこちなさを表に出さぬよう、表情筋を無理矢理歪ませながら、僕は隣を……いつの間にか移動していた氷命を向いた。
ガヤガヤと争っていた貴蕎と葛哉も、時既に遅し、と気付いたのか、ピタリと体を硬直させると、たっぷり十秒後、ゆっくりと腰をその場に下ろした。その表情は言わずもがな……。
「ヒビキは準備するからって、さっき教室に戻って行ったわ。ユウカとお話しようと思っていたんだけど、こっちから楽しそうなお話が聞こえてきたから来てみたの♪」
「……準備?」
「まだ今日はユウとあまりお話ししていないもの、ぜひたくさんお話ししましょ♪」
「それは……光栄だね、はい……」
ああ、今僕は果たして、しっかりと笑顔で応えられているだろうか。とにかく引きつった表情にならないよう、意識を込めるのに必死ですよ。
「……前に聞きそびれていたんですけど」
氷命のペースに巻き込まれまいと、取り敢えず僕の方から話題を提供してみた。というか、気になっていたことでもあるから。
「昨日、僕のことを『知っていて』、この学校に編入してきたって言ってましたよね。僕と百合乃さん、以前に会ったこととかありましたっけ?」
言葉だけ見ると、男性冥利に尽きる話だ。黙れば見目麗しい氷命にそんなことを言われて、それまで春なイベントの無い人生を送ってきた僕にとって、それこそ一世一度の大イベントだ。問題は、氷命は決して黙らない、という点か。
「いいえ、会ったことはないわ。でも、ユウのことは知っていたの。
ユウ、本が大好きよね? 本を読むとき、いつも目を輝かせて読んでいるもの! ワタシもよく絵本を読んでワクワクしたりするけど、『きっとこの人も、物語が大好きなんだわ』って思ったら、見ているだけなんて勿体無いって思ったの! だから、直接会ってお話しようって、決めたのよ!」
心底楽しい、そう言わんばかりに、氷命は捲し立てるように言った。
そんなことを言われたことなんて初めてで、しかもそれだけの理由のためにこの学校まで編入しただなんて。それこそ僕には勿体無い話な気がして、なんとも言えないモヤっとした感情が渦巻くと共に、頬がピリピリとした熱さで満たされた。
「あら、ユウ。お顔がまっ赤っかよ? お熱でもあるのかしら?」
「へ、えッ!? い、いや、大丈夫、大丈夫ですよ!」
「そう? お弁当を食べる前にも、頭が痛いって言っていたし、あまり無理は良くないわ」
その頭痛は病気とかではなく面倒事に直面したときに起こるもので……いや、そんなことを返答したいのではなく。
「ぃッーーー!」
ぐいっと、覗き込むように氷命が顔を寄せてくる。氷命の柔らかな前髪が僕の頬を撫で、ふわっとした甘い香りが更に僕の思考回路をかき混ぜた。
『そんな気』は氷命にないことは分かっているが、それでも女の子に言われて嬉しくないわけがない。という本音が半分で、もう半分は公然で意図も容易く、なんの躊躇いもなくそれを言ってのけられたことに対する羞恥で、僕の頭はオーバーフロー寸前だった。
贅沢な悩みと、心の冷静な部分が訴えている。それに蓋をするかのように、僕は藁をも掴む思いで周囲を見渡した。
見えたのは、悪意に満ちたニヤけ面を向ける葛哉。そしてーーー。
「……、……ッ…………!」
表情こそは柔らかな微笑みを浮かべている貴蕎。いや、貴蕎様。
そうか、これが恐怖というものか。
不意に、そんな気持ちがストンと芽生えたようだった。
今朝、僕の家の前で氷命を見つけたときと……いや、そのときとは比べ物にならないような、肌を熱の無い炎で焼かれているような感覚。忘れようとしていた、魔王と対峙したあの時のような冷たさ。
「優……取り敢えず、氷命から離れようか」
「僕から近づいてるわけじゃーーー」
「優」
「ごめんなさい百合乃さん、可及的速やかに僕から離れてくださいお願いします」
口で断りを入れつつ、僕は半ば強引に氷命を抱えて距離を取る。
脳裏では抱えた氷命の、予想以上の軽さに驚愕を禁じ得なかったが……それを口にしようものなら……いや、悪い想像は止めよう。
「優、今日は今朝と同じように、一緒に下校しようじゃないか。ああ、少しボクの用事にも付き合ってもらいたいので、二人きりの方が良いな」
「一緒に下校というのは構わないけど……」
「けど……なにか?」
「いえ、何もございません」
駄目だ、今の貴蕎に何を言っても通用しそうにない。
正直、ここでどんな約束を取り付けようと、下校時間に氷命が何もアクションを起こさないわけがない。今日一日、いや半日で、それは嫌というほど体感しているはずだが。
「貴蕎?」
「何だい、優」
口調こそは通常運転の貴蕎だ。しかし、長年見てきて分かるが、今の貴蕎に正常な思考能力が働いているとは到底思えない。取り敢えず、穴を穿たんとばかりに僕を見据えるのを止めていただきたい。
「……取り敢えず、部活が終わったら生徒会室に行くよ」
「分かった。ボクもなるべく早目に用事を済ますとしよう」
げに満足、と。貴蕎は本当にいつも通りの雰囲気に戻ると、それでは、と一言残して立ち上がった。
「ボクから誘っておいて申し訳ないけど、先に行かせてもらうとするよ」
「あ……。誘ってくれて、ありがとうございました、貴蕎さん」
「うん、悠歌も来てくれてありがとう。響姫にも伝えてあげてくれると嬉しい」
「はい、私から伝えておきます」
貴蕎相手には慣れている悠歌は、自然な一礼を貴蕎に送った。心なしか、悠歌の笑顔がぎこちないのは気のせいだろうか。
「キキョウもいなくなっちゃったし、ヒビキは準備のために行っちゃたから……何して遊びましょう?」
「百合乃さん、満を持してと勇んでいるところ申し訳ないんだけど」
僕は懐から懐中時計を取り出し、その時計盤を氷命に向けた。
「もう、お昼の時間終わっちゃうよ」
「もうそんな時間なの!? まだまだお話したいこと、たくさんあったのに……」
心底残念そうに氷命は眉を垂らす。その悲しそうな表情に、無性に申し訳無さが湧いてしまう。
「これから、今日みたいな時間は沢山ありますから」
「そうね! じゃあ、これからお昼ご飯は一緒に食べることにしましょ!」
「うん、タイミングが合えばね」
一応の念押し。しかし、僕の言葉が発し終わるか否かのところで、氷命は弾むように校舎へ駆け込んでいった。
……まあ、聞こえていた、ということにしておこう。とことん嵐の様な人だ。
溜め息を吐きたくなりながらも、僕は残ったお弁当を全て平らげる。
「……なあ、俺にゃどーしても気になってることがあるんだけどよ」
見ると、こちらも既に完食して教室に戻る準備ができている葛哉。
「姫の準備って、何だ?」
「……さあ?」
氷命と何やら怪しくも楽しげに会話をし、突如消えた姫ちゃんだが、確かに全くその点についての説明を聞いていない。
「何か知ってる?」
一緒にいたはずの悠歌に問いかけると、悠歌は申し訳なさそうに眉を下げる。
「それがよく分からなくて……。響姫ちゃんと百合乃先輩の話、転々とするから、途中から何を話しているのか……」
「それは……なんか申し訳ないことをしたね」
嵐の中に一人悠歌を置き去りにしたようなものだ、素直に同情する。
「我が妹のことだし、あのアリスのことだ。少なくとも良いことであるとは到底思えん」
「でも、姫ちゃんが百合乃さん程やらかすことの方が想像できないんだけど」
「優は姫の本性を知らないだけだ。俺は知ってる。猫の皮を被っちゃいるが、その中身は小悪魔だ。狡猾、人の不幸は蜜の味……あれと同じ血が俺の中に流れていると思うと……」
「メチャクチャ言うのね」
これが葛哉だと分かっているから何とも思わないが、そこら辺の人が言っているとしたら、もうドン引きするレベルだ。もう少し葛哉も素直になれば楽だと思うが。
「仮に僕の知らない姫ちゃんがトンデモ人間だとして、それでもそこまで肩肘張らなくてもいい気がするけどね」
万が一本当に姫ちゃんが氷命並のトラブルを引き起こさんとしているのであれば、その標的は確実に葛哉だろうし。
「優、どうせ自分には被害は来ないし良いや、とか、考えてないだろうな」
「止めてよ、友達にそんな残酷なこと考えるわけないじゃないか。取り敢えず、今日は僕から離れて過ごしてね」
「友達って何だろうな!?」
「百合乃さんの声を聞いただけで、昼休みの間だけでも無関係になりたくなるような間柄じゃないかな」
お返しのつもりで言うと、葛哉は苦虫を噛み潰したような表情で黙ってしまった。
それで話はお仕舞いと、僕は悠歌に一言別れを告げると、葛哉を置いて教室に向けて歩きだした。
「え……と……ひ、響姫ちゃんには、あんまりヒドイことをしないように、伝えておきますね」
「その優しさがホントに身に沁みるよ……できれば止めさせてくれたらベスト」
「……ごめんなさい」
「純粋って残酷だなッ!」
僕の後ろで悠歌にすら見放される悪友の嘆きを聞きつつ、僕はとうとう溜まりに溜まった感情を出し切るように、盛大な溜め息を吐いた。