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この世界を全力でッ!  作者: ニコ
10/12

非日常へ

 初めての昼食会から早一週間。

 あの日からお昼は僕、葛哉、貴蕎、氷命、悠歌、姫ちゃんの六人で食べることが習慣になりつつある。毎回氷命がトラブルを持ち込んでくるものの、それも続くと順応してきている自分がいて、「はいはい」とある程度あしらえるだけのスキルが身に付いてきていた。

 それは僕以外のメンバーも同じなようで、葛哉に到っては騒動が無いと逆に不安になってきていると。もはや病気の域にまで達してしまっている。貴蕎や悠歌は相変わらず、純粋に氷命の言動で右往左往していて、それが却って微笑ましさを感じてしまっている。

 気掛かりと言えば、姫ちゃんだ。

 あの日、「準備があるから」と昼食会を途中退席して以降、特別おかしな様子は見られない。悠歌が後で準備のことで聞いたが、「面白いこと♪」とえらく抽象的な返答しかなかったとのこと。変化が無いと思われていた姫ちゃんだが、最近になって唯一、気になっていることがある。

 姫ちゃんの氷命に対する目が、異様に熱心なのだ。まるでその一挙手一投足を見逃さず、全てを吸収しようとする師弟関係のような。

 何だかんだで姫ちゃんをよく見ている葛哉も、その異変は感じているようで、「俺は何をさせられるんだ」とぐったりしていたのを覚えている。

 とは言え、それだけの変化だ。何も姫ちゃんが氷命の真似をしてトラブルを起こしているわけではないし、氷命も特別姫ちゃんに可愛がってあげているような様子も無い。

 杞憂であれば良いや。

 そう、小さな違和感程度に考えていた、そんなある日。

 その日もここ一週間と代わり映えの無い日々で、春の陽気に当たりながらぼんやりと授業を受け、騒がしくも微笑ましい昼食会を催し、『急務』とやらで部活をお開きにする顧問教師にムカムカしつつ、まだ家主のいない無人の自宅に帰ってきて、取り敢えず課題でも済ませて読書していようと思い立ち、あれやこれやと気付けば窓の外は夜のカーテンが掛かっていた。

「……あれ?」

 読書に耽っていると、こんなことは実はよくある話で。机の電気スタンド一本の明かりのみで本を読んでいたせいで、周りに気が回っていなかった。

 部屋の明かりを点けて時計を確認すると、デジタルな数字で19時22分を表していた。

「……悠歌? まだ帰ってないの?」

 ここ最近は悠歌が所属する文芸部の活動が活発なようで、悠歌もまた順調に筆が進んでいると話していた。とは言え、18時30分が最終下校時間であるマクミラン高校だ。申請を出せば延長も可能だが、悠歌からはそこまで遅くなるとは聞いていない。細かい気配りのできる悠歌が、僕にそれを伝え忘れるとは考えられないが。

 家内の電気を点けながら、悠歌を探すがやはり姿は見当たらず。部屋に戻ってスマホを確認するが、表示されるのは19時25分という数字のみ。メールも着信も無い。

「まさか事故とか、遭ってないだろうね」

 冗談めかしに言葉が溢れたのは、きっと僕の中でその可能性を否定したかったからだろう。

 玄関を出て、家の前の通りを見渡す。悠歌の姿は見えないどころか、人っ子一人通っていない。

 数日前、葛哉に過保護すぎると窘められたのを思い出しながら、一先ず落ち着こうと玄関の扉を開けた。

 シャランーーー

 僕は弾けたように振り返った。

 災厄の前兆を示すかのように、嵐の前には必ず聞こえていた音。彼女が常に身に付ける黒いカチューシャの涙を思わせる、薄いオレンジ掛かったガラス細工の水琴鈴の音だ。

「こんばんは、ユウ♪」

 昼間と変わらない、トーンの高い無邪気な声。慣れていたはずなのに、今では却って僕をゾッとさせた。

「……こんばんは、百合乃さん。毎度突然だね。事前にメッセージくれると僕の心臓に優しいかな」

「メッセージ……? ああ、スマートフォンのことね! いつも忘れてしまうわ。早くお話ししたいって思ったら、ゆっくり画面とにらめっこしている時間がモッタイナイもの!」

「それは……百合乃さんらしいね」

 努めて冷静に言葉を紡いだが、僕の心臓は恐ろしいほどの速さで脈打っていた。目の前にいる氷命は昼間の氷命と何ら変わらぬテンションと存在感のはずなのに、むしろそれが違和感の塊であるような。言い知れぬ感覚が、氷命の背景で蠢く夜の闇から静々と這い寄ってくるような感覚があった。

「……ユウカは、帰って来ていないのね」

 すっと、僅かに目を細めて、氷命は呟いた。

「ッ……! 悠歌がどこにいるのか知っているの?」

「さあ、分からないわ。ワタシもずっとユウカを見ていたわけではないもの。でも……」

 そこで言葉を区切り、氷命はサクサクと僕に歩み寄る。その勢いのまま僕の顔をぐいっと覗き込んできた。相変わらずの甘さのある香りが、僕の鼻を擽る。

「もう、タイムリミットなのかもしれないわ」

 氷命のファイアオパールを想起させる瞳が、真っ直ぐ僕の視線をぶち抜いてくる。えらく整った氷命の顔立ちを見下ろしながら、一週間前の僕がこの状況を見たら、果たしてどんな顔をするだろうかとふと思った。今でも無いわけではないが、羞恥に目を逸らすことは必至だろう。

 しかし今の僕に、緊張感は無い。むしろ、沸々と身体の奥底からせり上がってくる熱いものを感じていた。

「何か知っているなら、教えてほしい」

 早口にならないよう気を付けながら、僕はなるべくゆっくりと氷命に返答を乞う。その態度に何を感じたか、氷命は心底楽しいと言わんばかりに、破顔一笑した。

 その無垢な表情に、僕は忘れかけていた一週間前の記憶を無理矢理思い出させられた。

 鬱蒼と茂る雑木林の先、周囲に溶け込めない厳かな城風の図書館、眠気眼の向こう側に得たいの知れない感情を宿す司書。

 僕は記憶に押されたように、数歩後退りをしていた。

「そ・れ♪」

「……え?」

「『それ』が答えだと、ワタシは思うわ♪」

 もう辛抱ならないと、氷命は小さな子どものようにぴょんぴょん跳び跳ね出した。

 それ、とは何だ。何を指している。僕が今思い出した、あの図書館の記憶か、それとも司書をしていた猫さんのことか。いや、例えどれであっても、僕は何も言っていない。あの場所のことも、あの出来事も、一切。氷命は一体、何を指して『それ』と言っている。

「やっぱり、ユウは最高ね♪ ワタシが最初に見たときと同じ、ずっと好奇心に駈られているわ! ワタシは学校で『アリス』なんて言われているけど、それこそユウの方が、ピッタリだと思うわ!」

 氷命が跳び跳ねる度、彼女が付ける水琴鈴がシャラン、シャランと涼やかな音を奏でる。

「でもそうすると、『アリス』が二人になってしまうわね。主人公が二人……それはそれで面白そうッ! 想像がつかなくてワクワクするわ! 一体どんな物語になるのかしら!」

 そこまで言うと、氷命は不意にピタリと動きを止める。そしてゆっくりと僕の方を向き直ったかと思うと、クスリと漏らすような薄い笑みを浮かべた。

 この一週間、おそらくそれまでの分を取り戻す勢いで、僕は氷命を見ていたと思う。最初は賑やかな人、という印象で、ここ数日ではトラブルメーカーというレッテルを貼り。では今は……?

 僕の知らない百合乃 氷命が、そこにいる。

 僅か一週間ではあるけれど、今まで見た氷命の笑顔は、どれも純粋で無邪気で無垢そのもので。やるなすこと全てが超展開ばかりで、それは今この時を全力で楽しんでいるんだ、と。この世界の生を謳歌しているようで。

 それなのに、正に目の前にいる彼女は、そのどれにも当てはまらない。

 今この時を全力で楽しんでいる。

 純粋で無邪気で無垢そのもので、僕の前にいる。

 それがあまりにも、不安定なことのように、僕は感じてしまっていた。

「ユウは『自分は主人公だ』……って、思ったことはあるかしら?」

「主人公?」

 普段から荒唐無稽はことを言う氷命だが、今僕の目の前にいる氷命は一線を画している。悠歌のことで焦りもあり、早く結論が聞きたい気持ちが先走りそうになる。

「そう、主人公。ヒトは皆、『自分』という人生の主人公……という話ではないわ。

 例えば今こうしてーーー『夜の静かな町で、自分のお家の玄関の前で、ワタシとお話しているユウ』

 状況はーーー『自分の妹が夜遅くになっても帰ってこなくて、連絡も無く。お外へ確認に出たら、そこでバッタリとお友達と遭遇。そのお友達は何か事情を知っているようで、それなのになかなかお話してくれなくて……段々そのことにイライラしてきてしまうユウ』

 物語の展開が動く『転』。このまま物語は『結』に向けて進んでいく。

 ーーーそんな物語の『主人公』として、自分ーーーユウがいる……なんて」

 詩を朗読するような、そんな音色で、氷命は語る。

 僕はネコさんに無理矢理体験させられた『勇者伝説』、その中で出会った魔王を思い浮かべていた。見た目も声色も違うけれど、物語のようにただ作られた展開群、その登場人物としての役目に、悲嘆しているかのような。

「……考えたことは、ないよ」

 僕は物語が好きだ。王道でも、覇道でも、邪道でも。物語とは、ヒトが生み出すことのできる無限にして夢幻の可能性だと、僕は思う。

 だからこそ誰にでもない、僕自身が綴ってきたと信じていた『僕の人生』が、実は神的視点から観測する、名前も顔も知らない作者の創造物であるだなんて、そんなことを考えたことはないし、考えたくもない。僕が信じてきたものは、ただの思い込みで、その思い込みすら意図的なものだったなんて……しかしそれを考えることにどれだけの意味があるだろうか。

「……そうよね。そんなこと考える人なんて、いないものね。もし考える人がいたら……それもとても面白そうだけど」

 肯定しながらも、氷命の表情にほんの僅かな陰が落ちたような気がした。その氷命の雰囲気に、チクリと僕の胸の辺りに棘が引っ掛かったような痛みが走った。

「百合乃さんなら、そういう人に心当たりがありそうだけど」

 その小さな痛みを払拭するように、僕は一歩、氷命に歩み寄った。

「百合乃さんの『心当たり』を、教えてください」

「……ええ」

 氷命は何かを言いたそうに、しばらく無言で僕の顔を見続けて……ぽつりと、首肯した。


 カラカラと自転車のチェーンが回転する音が夜の町に響く。

 普段から見知っているはずの町なのに、夜になると途端に見知らぬ町の雰囲気が出るのは何故だろうか。

 春先のため、夜間は昼間の陽気が鳴りを潜めており、静かな底冷えするような空気が肺の中を循環する。頬を切る風が、意味も無く大音量で耳に届いてくる。

 いつぞやと同じように、氷命は自転車の後ろの荷台に立ちながら、僕の両肩に手を添えている。相も変わらず、とんでもないバランス感覚だ。

 しかし家を出発してから、氷命は一言も話さなくなってしまった。氷命が静かにしているというだけで、僕にはとんでもない出来事だ。誰かに話したい。これは伝説になる。

 そんな訳の分からないことを考えてしまう程に、僕は頭の整理ができてはいなかった。

 僕が目指す場所は、例の雑木林。

 氷命にそこへ行けと教えられたのではなく、ただ直感で、そこを目指すべきだと思ったからだ。氷命が何も言わないところを見ると、それで間違いはないだろう。

 なんの確証もないにも関わらず、向かうべき場所については意味不明にも自信に満ちている自分がいた。

 住宅地を抜け、さてそろそろ雑木林が見えてくるかというところで、僕のポケットの中にしまっていたスマートフォンが騒ぎ出した。

「……葛哉?」

 自転車を止めて確認すると、画面には葛哉の名前が。葛哉からメッセージを飛ばしてくることは多々あるが、電話をかけてくることは、実は結構珍しい。

 自分の置かれている状況から、あまり良い予感のしない着信だ。このタイミングでかかってくるという点が、激しく不安感を抱かせる。

「もしもーーー」

「優か? ちょっと聞きたいことがあるんだが」

「待て待て、落ち着け。ゆっくり話してよ、聞いてるから」

 着信ボタンをタップするやいなや、食いぎみに葛哉の焦り混じりの声が聞こえてきた。「落ち着け、とはよく言えたものだ」と内心苦笑しつつ、葛哉の焦りが却って僕の冷静さを若干引き戻してくれたことを実感していた。

「すまん、父さん達がソワソワしてるもんだから、俺にまで伝播しちまった」

「ソワソワ、ね……。ねえ葛哉、もしかしてだけどさ」

 僕は一旦、そこで言葉を止め。

「ーーー姫ちゃん、何かあった?」

 今までの経緯や悠歌の失踪、このタイミングでの葛哉からの着信が、僕の中で確かな形をもって自己主張していた。

 ーーーきっと悠歌同様、姫ちゃんも姿を眩ませている。

「何か知ってるのかッ!? 姫はどこにいるんだッ!?」

 スピーカーの向こうで何かを蹴っ飛ばすような激しい音が聞こえる。普段は姫ちゃんのことをどうとも思っていない風を出しているが、こういう場面でこそ、葛哉の本当の気持ちが表れていた。

「いや、正直に言うと知らない。そんな予感がしただけだから」

「予感って……どんな思考を巡らせりゃ、友人の妹が行方不明かもしれないなんていう結論に至るんだよ」

「それは……そう言われると、確かに訳が分からないわね」

 自分の言葉の不明瞭さに気づき、僕は思わず失笑してしまった。

 ーーー実は、悠歌も行方不明なんだ。

 そう言ってしまえば簡単に伝わるだろうに。僕はどうしてか、葛哉には伝えるべきではないかもしれないと、そう思っていた。

 不気味さすら感じる程に、ずっと静かに僕の背後で黙りを決め込んでいる氷命。振り返って、その表情を確認することすら、何故か怖くてできないでいる。

 今から僕と氷命は、「あの」図書館に行く。謎の女性が管理する、不思議な図書館。中では現実離れした体験ができてしまう、正に非現実的な場所だ。

 百合乃 氷命は、あの図書館と何かしらの関係がある人物なのだろう。きっと司書をしている猫さんとも、面識がある。どんな関係なのかは分からないし、そもそもあの図書館がどういったものなのかも理解できていないが……。

 僕はこれらのこと、これからのことに、葛哉を巻き込みたくないーーーそう思った。

 身内が行方不明という同じ境遇を辿っている時点で、決して葛哉も無関係ではないと分かっているのに。

 先刻、氷命に問われた「主人公」という役割に感化された、なんてことは全くない。全く、と言えば嘘になるかもしれないけど、少なくとも物語の主人公のような、何でも自分の力だけで解決しようだなんて、そんな大それたことは考えてはない。僕に特別な力があるだなんて、この年齢になって空想することは……………………まあ、零ではないかもしれなくもなくも云々……。とにかく、自惚れだとかカッコつけたいとか、そういった体裁を取り繕いたいがためでは一切無い。

「丁度僕、外に出てるから。姫ちゃんを探してみるよ」

「そうか。いや、悪い、頼む。何かあったら……」

「すぐ連絡するよ。だから、そう焦りなさんな」

 葛哉がもう一度「すまん」と応えたのを確認し、僕は通話終了のボタンをタップした。

 ゆっくりと息を吸い、いつからか静まり返る後ろのトラブルメーカーに振り向いた。

「姫ちゃん……いや、響姫ちゃんも、悠歌と同じ、なんだね」

 確認ではなく、断定の意を込めて。

「……そうね」

 たったそれだけ、氷命は答えた。表情からは何も窺い知れない。

 でも、昼間の彼女を知っている身として、少なくとも彼女がこの状況を憂いているようには見えない。

 事態は深刻なのか、軽く構えていても大丈夫なのか。それすら僕には測れない。

 葛哉と話して、少しずつ抑えていたものが、僕の中でまた沸々と湧き上がってきていた。

「……っ」

 出掛けた言葉を無理矢理飲み込み、僕は改めてペダルを苛立ちとともに力強く回す。

 ーーー僕のこの感情は、誰にぶつけるべきだ。

 内心で自問を挙げ連ねながら、明かりの少ない住宅地を突き進んだ。




 もうあの図書館には近付くことはないと、思っていたのに。

 虫のつんざく声が耳に突き刺さる。風も無いのに、ザワザワと木々が揺れているような感覚になる。

 パサパサと、雑木林の道無き道を、僕と氷命は歩いていた。

 林の入り口に到達したところで、氷命はおもむろに自転車から降りた。「行きましょ♪」と笑顔で言ったかと思うと、僕の返事を待つこともなく、さっさと林の中へ入っていってしまった。

 やっぱり、ここで間違いはないのか。

 それを証明されたようで、嬉しさやら戸惑いやら嫌悪感やらが、僕の頭の中を全力で疾走していた。

 自転車は林の入り口付近の草むらに横倒しにして隠した。持っていっても良かったのだが、やはり邪魔になるかとも思い、逡巡した結果、置いていくことにしたのだ。

 僕の前を、何の迷いもなく氷命が歩いていく。それをただ着いていくだけの時間なのだが、それがどうにも居心地が悪い。

 ぶっちゃけ色々聞きたいことが溜まりすぎていて、言葉を選んでは、質問しても良いのか否かを考えあぐねている。いつもは聞かなくてもペラペラ喋る氷命が話さないというのなら、こちらから無理に答えを求めるのは間違っているのだろうか。いや、こちとら妹が行方不明なんだから、そんなことまで考慮している余裕なんてありはしないが。

 あーだこーだと悩んでいるうちに、いよいよ視界が一気に開けた。

 雑木林の中に悠然と佇む城……の様な図書館。僕からすれば魔王城となんら変わらない。ラスボスが今か今かと胸を踊らせて待っているとのかと思うと……抑えていた感情が再沸しそうだ。

「……………………」

 ふと、月明かりに照らせれた氷命の横顔を窺い、思わず息を飲みそうになる。

 いつものような好奇心に満ちた瞳だ。薄く笑みを浮かべているのに、どこか寂しさを内包しているような気がして、僕は無性に、どうにかしないといけない、と。謎の使命感に駈られた。

 だからか。

「……っ」

「え?」

 衝動的に、僕は氷命の手を握っていた。

 これが女の子の手か、やっべーくらい柔らかいな。壊れるんじゃないの、大丈夫か、これ。てか、何やってんだ僕は。ただの友達(程度にしか氷命は思っていないだろう)に対していきなり手を握るとか、距離感掴めていない危ない奴じゃないか。それにしてもモチモチした手だこと。

 氷命の寂しそうな表情をどうにかしようとして衝動的に手を握ったくせに、いざ実行すると、全く違うことでテンパっている僕だった。

「…………ユウは」

 目を見開いていた氷命が、そっと僕の名前を呼んだ。

「ユウは、やっぱり、面白いわ♪」

 幾度となく言われた言葉、全然意図が読めない言葉。氷命が言うからか、不思議と不快感は感じないそれなのに、僕は胸の奥をぎゅっと鷲掴みにされたような気持ちになった。


 城の門を潜り、四季を散りばめたかのような庭園を抜け、ようやく玄関扉の前に、僕と氷命は立つ。

 いつからか、全く虫の音が聞こえていない。この空間だけ、それこそ異次元の存在であるかのようだ。

 ゴクリと、僕は唾を飲み込む。

 図書館に入れば、まず『猫さん』と対峙することになるだろう。きっと訳の分からない物言いで誤魔化してくるはず。極力冷静に、悠歌と姫ちゃんの居場所を問い詰めよう。その中で氷命のことも分かるのなら、それ以上は望むまい。

 とにかく、優先事項は悠歌達の安否。落ち着いて話をするだけ。ずっとくすぶっている感情も、大分押さえている。だから問題無い。

「開けるよ」

 氷命に言った言葉だったか、それとも自分に言い聞かせるための言葉だったか。意図の不明な掛け声と共に僕は、まさに勇者であるかのような心持ちで、一気に扉を開いた。

 ギィ、と軋む扉の音が反響する。強烈な本の香りが鼻に突き刺さり、目眩がしそうになる。

 図書館に一歩踏み込んだ。相変わらず、人の気配が無い。静まり返った空間の中で、速まる自分の鼓動ばかりが聞こえてくる。

 今回はコソコソと忍ぶ必要は無い。僕は悠然と受付カウンターへと近づいた。

「いらっしゃい~♪」

 ひどく間延びした声が、静寂の中に響いた。

 続いてスラッと、カウンター内から一人の女性が姿を現す。

「『おかえり』、の方が、正しかった、かなぁ~?」

 ほにゃっとした眠そうな顔付きが視界に入りーーー


 グイッ!!


「……おやおやぁ~」

 面白いものを見つけたかのように、女性ーーー猫さんはニヤニヤと笑みを溢す。

 気づけば僕は、受付カウンターの向こう側に身を乗り出し、猫さんの胸ぐらを掴み上げていた。

 僕の中でずっと抑えていた感情が、猫さんの声と姿を感じた瞬間に弾け飛んでいた。

「悠歌は、どこだッ……!!」

 じんわりと、猫さんの襟を掴む手の平が熱を帯び始める。口角が怒りでピクピク震えるのを感じ、全身の皮膚に痺れるような感覚が走り抜けている。

 落ち着いてなんて、いられるかッ……! 落ち着けるわけがないッ!!

 ドス黒く汚れた言葉を吠えないよう、それだけを堪えることが精一杯だった。その一線を越えてはいけないと、人間としての自分がストッパーを掛けてくれている。

「悠歌を、返せ…………返して、くださいッ……!」

 振り絞るような声で、猫さんの目を見据える。

 胸ぐらを掴まれて尚、相変わらず眼鏡の向こう側の眠そうな双眸は、やはり何も計り知れない。やけに楽しそうな笑みを浮かべているのが、とにかく腹が立つ。

「良いよぉ~」

 あっさりと、猫さんは言ってのけた。

 しかし言葉と共にカウンター内から差し出された「それ」を横目でチラリと見て、僕は一瞬冷めかけた脳ミソが再度熱を帯びるのを感じた。


『【歪な】勇者伝説』


 分厚いハードカバーの、豪華な装飾がなされた表紙に、僕の見知った文字とそうでない文字が並んでいる。

 表紙絵は僕もよく知っている、『勇者伝説』の世界観を模した風景画だ。タイトルにも、そのまま『勇者伝説』と印字されている。

 しかし、【歪な】という文字が踊っている。これはなんだ。

「この子の、中に、悠歌ちゃんは、いるよぉ~♪」

 『本の中に人がいる』という荒唐無稽な発言が、当たり前のように飛び出している。いつもであれば盛大にツッコミを入れているところであるが、悲しいかな、『本の中に人が入る』という謎現象を、僕はこの身をもって体験している。

 そして、その体験は決して愉快にも痛快にも捉えられない、まさに命を賭けた行いであるということを。

「…………んたが…………」

「ん~?」

「あんたが、やったのか……ッ!?」

 俯き、歯を食い縛り、なんとか殴りかからないようにだけを意識して。猫さんの顔もまともに見られない。見たら、きっと僕は全力で殴ってしまいそうだ。

「……それは、ちょっと、違うかなぁ~」

「何が違うって言うんだ」

「猫さんは、ここに、訪れた、『面白いもの』を、ただ導くだけ……だからねぇ~」

「その『面白いもの』が、悠歌だと言いたいのか。

 どうせ僕の時と同じように、なんの説明も無しに本の中に突っ込んだんだろ。なにが『面白い』だ……あんたがただ楽しんで、ただ弄んで、それのなにが面白いもんかッ!」

 きっと猫さんに何を言ったところで無意味だろうなーーーそんな冷静な考えが、ふと脳裏に過る。その証拠に、僕の怒りを目の当たりにして尚、猫さんの様子は変わらない。火に油を注がれているようなその不動な態度に、言い様のない感覚だけが胸の中で渦巻いている。

「ごめんね、優君~……」

 僅かな沈黙の後、猫さんはポツリと言った。

「猫さんは、別に、面白いとは、思って、いないんだよねぇ~」

 それまでの態度を否定し、しかししきれていない言葉を溢した。

「ついさっき、『面白いもの』を導くとかどうとかって言っていたじゃないか」

「あれは、猫さんにとっての、『面白いもの』、ではないんだよねぇ~」

「……どういう意味だ?」

「前に、猫さんが、お願いしたこと、覚えているかなぁ~?」

「前……?」

 前、というのは、初めて僕がこの図書館に来たときのことだろうか。そのとき猫さんがお願いしたこと……。

「本を、元の姿に戻してほしい……という話?」

「それも、あるけどねぇ~。もう一つ、お願いしたこと、そっちの話だよぉ~」

「もう一つ……」

 たしかあの時、僕にお願いしたいことは二つあると言っていた気がする。しかし肝心のもう一つは、結局はぐらかされて終わったのではなかっただろうか。

「僕なら叶えてくれるだろう、とか、無責任なことを言われた記憶しかないけど」

「あれ、そうだったっけぇ~?」

 ここに来てようやく、微動だにしなかった猫さんは、首をカクリと小さく傾けた。

「じゃあ、今、教えれば、良いよねぇ~」

「勿体振らないでさっさと話して……早く悠歌を解放してください」

 僕は忌々しげに、猫さんの胸ぐらから手を放した。

「くふふぅ~♪」

 そこに僕の焦りを見てか、猫さんは嫌に独特な笑みを溢す。

「お願い、したいことはねぇ~……『あの子』を、満足させて、あげてほしいーーーだよぉ~」

 『あの子』……そう言われれば、確か前にも言われたことがある気がする。【歪】になってしまった本を元に戻すことは、『あの子』のためであり猫さんのためでもある、とか。

「その『あの子』というのは、一体どの本のことを言っているんだ。あんたが本を指してこの子、この子、としか言わないから。結局、あんたの言う『あの子』とやらは、この膨大な図書館の中のどの本を指している?」

「……あらあらぁ~」

 至極真っ当な疑問をぶつけたつもりでいたのに、僕の言葉を聞くやいなや、猫さんはまた「くふふぅ~♪」と笑みをもらした。

「……何がおかしい」

「いやいや、ごめんねぇ~。別に、優君を、バカにしたわけでは、ないんだよぉ~。ただ、勘違いって、面白いなぁ~、ってねぇ~♪」

「勘違い?」

 止まぬ笑みを貼り付けた口元を、猫さんは今更のように『勇者伝説』の本で隠したかと思うと、反対の手で、ゆっくりと僕を指差してきた。

「『あの子』」

「……え?」

 意味が分からず、しかしじわじわと、僕は何かを察してきてしまっている。

「『あの子』を、満足させて、あげてほしい」

 猫さんはどこか違う雰囲気で、念押しをする。

 僕がずっと聞きたくて、でも本人が話さないならと、胸の内に秘めていた疑問があった。きっとこの場所に来れば、猫さんと対峙すれば、それらは解決するのではないかと、ある種の楽観的な願望を抱いていた。

 僕の秘めていたものが、怒りとバトンタッチして湧き上がってくる。

 僕の日常が変わりだしたのは、一体いつからだ。

 悠歌と同じく、行方を眩ませている姫ちゃんの様子が変わってきたのは、一体いつからだ。

 僕は、どうしてこの図書館に来た。

 ーーー全て、最初のきっかけは?

 急激に体温が減少していっているようで、指先がかじかんでいく感覚が痛く脳を刺激する。

 どこかで、なんとなくでも察していた気がする。むしろ、何故今まで深く考えてこなかったのだろう。分かっていたはずだったのに、それが「日常」としてあることが当たり前になっていたからか。

 僕は、猫さんが指差す方向ーーー僕の後ろで、終始気配を殺して佇み続けていた少女に、ゆっくりと振り返った。


「……あは♪」


 少女ーーー百合乃 氷命は、純粋無垢に笑っていた。

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