第三話 叶わぬ恋と知りながら
叶わない恋とは知っていた。
ただただ想うばかりの恋。
実るわけのない、想い。
【叶わぬ恋とは知りながら】
「ふわぁ」
シークの胸元。ローブに特別にあつらえたポケットという名の特等席から顔を覗かせてユマが呟いた。
「どうした?」
ぽくぽくと馬の蹄の音がしていたのが嘘のようだ。
今は、世界が沈黙している。
「あたし、雪見るの初めて。これが、雪なんだぁ」
世界は一面の銀世界。
真っ白に覆われており、空は澄み渡る蒼。
「そうか。ユマはまだ、知らなかったか」
「だってあたし、南の生まれだもん。捕まってあんなとこに居なかったら、こんな景色も見られなかったんだね」
「まぁ、悪いことがあれば良いこともあるってことだな」
「そうね。そういうことにしといてあげるわ」
白い白い世界の向こう。
やがて見え出したのは、雪の世界に溶け込むような白をした白亜の壁だった。
「あれが、カルセリオだ」
「おっきな壁だねぇ」
「あの城壁の向こうに城下町がある。城の周りは全部畑なんだ。住民の大半は農家で、そこから畑に通う」
「へえ」
「特殊な魔法がかけられてるらしくてな、城壁の内側は外側よりも雪が少ない。雪だけでなく、夏は城壁の内側の方が涼しい。だから人間が暮らすのにはちょうどいい。だが、作物には寒暖が必要なものがあるから、畑は外なんだ」
「……詳しいのね、ずいぶん」
「世界中旅するんなら当然だろ」
そっけないシークの答えに、ぷぅと頬を膨らませて、鼻までポケットの中に潜りこむとユマは大きくため息をついた。
本当のところ、ユマは知らないのだ。シークのことを、何も。
つい最近のことだ。ユマがシークに出会ったのは。
ユマが生まれたのは大陸の南端に程近い草原だった。地精のひとつ、花の妖精として生を受けたユマは、そこで穏やかに一生を終えるはずだった。
狩人に、捕まるまでは。
精霊の中でも小妖精は力の弱い部類に入る。そして、精霊ほど力はない代わりにどのような人間の目にも見えるため、捕まえられて見世物にされることが多かった。
ユマもまた、捕まえられた。
手ひどい扱いはされなかったが、柔らかいクッションが敷き詰められた鳥篭に入れられ、運ばれて、ラルムにたどり着いたのだ。
そこで路銀でも尽きてしまったのか、ユマは市場で売りに出された。
鳥篭の中でしくしくと泣いていたユマに声をかけてきたのが、シークだった。
(おい)
声をかけられて、驚いた。
顔を上げると仏頂面の男がいた。
(お前、なんでそんなところに居るんだ)
(えっ……ぇっく……わか、わかん、ないっ)
(お前、花の妖精だろう?)
そう言われて、更に驚いた。
小妖精はさまざまなものに宿る。形も千差万別で、花の妖精だからといって、形が決まっているわけではないから、よほどの人間でなければ一目で種別を判明させることなど出来ない。
(な、んで)
(……あー。それはまぁ……いいや。おい、親父)
(はいはい)
(これをくれ。代金はこれな)
そう言って、男は一粒の宝石を取り出した。
ユマが身体を乗り出して見れば、それは赤くてルビーのようにも見えたが、実際には違った。その赤は宝石の中で燃え揺らめく炎の赤だった。
(は? こ、これは)
(精霊石のひとつだ。上等の火焔石。これで手を打ってくれないか)
商人は二つ返事で承諾し、ユマを男に手渡した。
精霊石とは、盟約を結んだ精霊を閉じ込めた宝石のこと。
精霊使いは精霊の力を借りて属性魔法を使うことが出来るが、その場に精霊が居なければ属性魔法は使えない。
その短所を補うのが精霊石である。
先に盟約を結び、宝石に宿った精霊は術者が魔法を使用するたび力を貸す。
そうするためには精霊よりも強い魔力を持つことが先決であり、そんな術者は少ないために精霊石はかなりの高額で取引がされるのだ。
大喜びの商人を後にして、鳥篭を抱えながら男はユマに言った。
(名前がないと不便だな)
ユマは、その時まだ名を持っていなかった。
花の妖精は名を持たない。ただ同じ地域に住む妖精たちの間で、先に生まれたものを兄や姉と呼び、後に生まれたものを弟や妹と呼ぶだけだ。
ふむ、と男が言った。
(俺はシーク。お前の名前は……そうだな。俺の幼馴染にどこか似ているから、ユマ、にしよう)
そうして、ユマは、ユマになったのだ。
(幼馴染って……リマ姫って人だよね)
どんな人だろう、とユマは考える。
(あたしはただ、南の故郷に帰るまでって約束でシークについてきてるだけだもの)
少ししょんぼりとして、ユマはうなだれたのだった。
カルセリオの首都スプランディードの王城に着いたのは、ラルムを出てから1日経った頃だった。
すでに夕暮れになり、夜が訪れようとしていた。
ギルドに立ち寄り翌朝王城を訪れる旨を伝えると、シークはその足で町の中央へと歩き始めた。
「どこに行くの? シーク」
ユマが問い掛けるとシークは笑う。
「今夜の宿さ」
「え? だって、そっちはすごく上等な宿屋ばっかりじゃない。お金があるからって無駄遣いはだめだ、がシークの信条じゃなかったの?」
「ばぁか。誰が宿屋に泊まるなんて言ったよ」
「だって、宿って」
「宿に出来んのは宿屋だけとは限んねぇのさ」
辿り着いた先は神殿だった。
王城と並ぶほどの大きさを誇るそれをあんぐりと口を開けて見上げるユマに笑いながら、シークはその建物の中へと入っていった。
「カルセリオ大聖堂というんだ、この神殿は」
「ほえ~」
「代々の聖王の霊廟があって、何よりこの聖王国を象徴する神殿として民草の信仰の拠り所でもある」
「すごいのねぇ」
「で、更にすごいのは、だ」
いくつか扉をくぐり抜けた先には、女性神官が待っておりにっこりと微笑んだ。
「旅の方、ご宿泊ですか?」
「ああ、頼む」
「え?」
では、こちらへ、と通された部屋は簡素ではあったが、きちんとベッドがあり窓のついた個室だった。
「どゆこと?」
「大神の娘である預言の神を知ってるか?」
「ううん。よくわかんない」
「彼の女神はすべてを愛するために生まれたとも言われている。すべての生きとし生けるものを愛する女神なんだが、彼女はごく普通の旅人として世界を巡り世界の危機を監視していると言われてるのさ」
「それで?」
「だから、大神を奉る神殿でも大規模な場所は、その娘さんをいつでも迎えられるように、旅人を泊められるようになってるんだ」
少し固めのベッドの調子を確かめると、シークは大きな背負い袋の中からかごをひとつ、取り出してテーブルの上に置いた。
その上に袋から取り出した小さめのクッションと毛布を引く。
「ほら、お前の寝床」
「わー、ありがとう! シーク」
ずっとポケットの中に入りっぱなしだったユマはそこからするりと抜け出して、ぽふんと自分用のベッドの上に降りた。
それを見届けるとシークは分厚いローブを脱いで、壁にかける。
暖炉に置いてある火焔石を見て「うわ、高ぇのに」と呟いて、ベッドに戻った。
「どきどきするね」
ユマがそう言うと、シークはそうか?と笑って、
「まぁ、楽しみにしてろよ」
とだけ言った。
王城は白亜の建物だった。
硝子の嵌めこまれた窓を覗き込むと、それは二重構造になっていて外の寒さを通しづらいようになっているのが伺えた。
「……びびってんのか」
シークがからかい気味にそう言ったので、ユマはぷぅと頬を膨らます。
「そんなことないもん」
「そうかよ」
けれどそのシークの軽口に気が緩んだのも事実だった。
重々しい扉を開いた先には、聖王と聖王妃が今や遅しとシークを待ちかねていた。
護衛の近衛兵とこの国の重鎮であろう貴族の面々の前を歩み、部屋の真中まで進み出ると、シークは片膝をつき恭しく頭を垂れた。
「遠いところからよく来られた。シーク殿」
聖王が声をかける。
「お招きありがとうございます。聖王猊下」
「用件は、もう聞いているな」
同じように頭を下げていたユマはちらりと顔を上げた。
聖王は、どこか壮年にさしかかろうという面差しをした、威厳に満ちた男だった。
傍らに座す聖王妃とはまるで、印象が違う。
この聖王都を守る城壁と似たような印象を受ける。
対して聖王妃は、美しく清らかな、誰にも踏み固められたことのない雪に似ていた。
黙してそこに座る姿もまた、それに似る。
「聖王妃殿を隣国へ送り届けることが役目と、聞き及んでおります」
「その通りだ」
「わたくしめがそのような大役を仰せつかるとは、身に余る光栄に存じます」
「そこで、ひとつ証明を見せていただきたい」
聖王は言った。
「その前に面を上げよ。顔が見えぬ」
「は」
言われてシークは顔を上げた。
目の前には、男の傍らに座る聖女。
穏やかで儚げな印象すらある、幼なじみ。
「緋焔神官の証をお持ちとお聞きした。それを」
シークは立ち上がり、右の手のひらを差し出した。
ユマは聞き覚えのない言葉に目をぱちくりさせて、シークを見上げた。
「猛き炎の女帝の神官であると、よく、ご存知で」
「何、聖王妃より聞いただけのことだ」
なるほど、と小さく呟いたシークの声が聞こえたのは、ユマだけだったようだ。
瞬間、シークの差し出した右手のひらから炎が立ち昇った。
ざわ、と周囲がざわめいた。
だが聖王と聖王妃はまるで顔色など変えず、ただシークを見ている。
シークの右手のひらに現れたのは、真紅のメダリオンだった。
「これが炎の女神にお仕えする者の証。緋焔証にございます」
「確かに」
それを見た聖王が諸侯に言った。
「彼の者こそ、我らが聖王妃を隣国へと送り届けるための使者。【不死身の傭兵】と謳われたシーク・ドゥーア殿だ。皆、丁重におもてなしをするように」
そしてその場は散会となったのだ。
「シーク」
謁見の間での拝謁が終わり、シークはユマと共に聖王妃の元へと歩いていた。
恐る恐るといった調子でユマが呼びかけると、やや不機嫌そうにシークが答えた。
「あんだよ」
「ああいうしゃべり方も出来るんだね」
「お偉方と付き合ってくためには必要なんだよ」
すげーいやなんだけど、とシークは続けた。
「そっか」
少しほっとした調子でユマが呟いたのをシークは聞き逃さない。
「なんだよ」
「ううん。あれが本当のシークなのかな、って思ったの」
「んなわけねぇだろ」
「そうだよねぇ」
教えてもらった扉の前で立ち止まり、シークがドアをノックすると「どうぞ」という声がした。
開かれた扉の先には、先ほど目通りがかなったばかりの聖王妃がいた。
美しい白いドレスはよくよく見れば白い糸で細かな刺繍が折り重なっている。
長い黄金の髪は結い上げられ、白い柔らかな面立ちに映え、青く澄んだ瞳の色はまるで晴れ渡る空にも似ていた。
「ようこそ、シーク」
下がっていいわ、と侍女たちを下がらせると、聖王妃リマはシークに歩み寄った。
「久しぶりね」
「ああ」
「元気にしてた?」
「まぁまぁだな」
「……10年振りかしら」
「……そうだな」
淡々と交わされる会話に、ユマはどこか落ち着かなくてちょこんとテーブルの上に腰を下ろした。
ユマから見る限り、聖王妃、リマはとても美しい。
華やかな美しさはないが、心の安らぐような優しい可愛らしさを持っている。
「まさか、こんな形で再会するなんて、思ってなかった……」
ぶっきらぼうにシークがそう言うと、リマがかすかに笑う。
「そうね」
その穏やかな空気を打ち破ったのは、派手な音を立てて開かれた扉の音だった。
「リマ様!」
現れたのは美しい黒髪と白磁の肌をした、豪奢な雰囲気の女性。長身で素晴らしいプロポーションをしている。
シークはたじろいで一歩下がり、それとは対照的にリマは一歩前に進み出た。
「どうかなさいましたか? ティルナ様」
「どうかも何もない! 私に黙って! どういうことなのか、説明していただきたい!」
まるで烈火のようなその様に、シークは傍観者になると決め込んだようだ。
リマは穏やかに微笑んで、ティルナと呼んだその人を見上げた。
「聖王からのご命令です。ミリテールへの人質は、わたくしが参ることとなりました」
「それならば私だって良いだろう!」
そこで、ああ、と小さくシークが言う。
それを聞いていたユマはちょいちょい、とシークの服の袖を引いた。
「何が?」
「あれは、カルセリオの第二王妃ティルナ殿だ」
こしょこしょと内緒話をするように、声を潜めてシークが言った。
「第二、王妃?」
「カルセリオの聖王は、聖女を第一王妃に迎えるのが慣例なんだ。聖女は子供を産めない。還俗しないといけないからな。そして還俗してしまえば聖女ではない。だから、正式な王妃は第二王妃の方なんだよ」
「へえ」
「わたくしはただのお飾りにすぎません」
「何を申しておられる! 還俗されればよい」
「そうはいかないのですよ、ティルナ様」
明らかに年下に見えるリマに諭されるように言われて、少しティルナは怯んだ。
「わたくしは聖巫女として聖王に嫁ぎました。還俗するわけには、いかないのです」
「だが、私に言っただろう? 聖王を、ヴィクトールを愛している、と」
「はい。敬愛しております」
にっこりと柔らかに笑う。
その様は、本当に愛らしく、人の心のとげを削ぐには十分過ぎるものであった。
「そして、わたくしはこのカルセリオも愛しております。聖王妃として、聖巫女として」
「リマ様……」
「ティルナ様、どうか猊下をよろしくお願いいたします。お腹の命と一緒に、わたくしの分まで猊下とこの国を守って差し上げてくださいましね」
ティルナはリマの両手を握り締めた。
そしてそのまま頭を垂れて、本当にすまない、と涙したのだった。
「驚きましたでしょう?」
お茶の準備をされ、テーブルについて最初にリマはそう言った。
「あれが烈女ティルナ妃殿下、か」
「お優しい方です。とても。わたくしなどのために、涙を流して下さるのですから」
「……聖王妃」
「あら、それはなし。昔のように、リマ、と呼んで」
「そうはいかないだろ」
城の中には人の目がある。誰が見ているかもわからない場所で、そう呼ぶわけにはいかなかった。
「じゃあ、道中だけでも」
「……だめだ」
「意地悪ね、シークは。相変わらず」
くす、と笑うと、リマはユマに気付いてにっこりと笑った。
「こちらの小妖精さんも道中一緒なの?」
「ああ」
「あたし、ユマっていいます」
他の誰でもなく。
個があるのだと主張したくなったユマが耐え切れずそう言うと、リマは臆すことなく手を差し出した。
「よろしく。ユマさん。わたくしはリマです。リマ、って呼んでくださいね」
「え、でも……」
「そこの堅物は放っておいていいですよ」
「堅物言うな。お前の方がずっとだろ」
「あら。リマと呼び捨てはだめで、お前はいいんですか?」
「揚げ足を取るな」
くすくす、とリマとユマは顔を見合わせて笑う。
「出立は明日、か」
「もう準備は整っているのですよ」
「俺待ちだったか? もしかして」
「さあ? それよりも、ミリテールまでは馬でも10日はかかります。道中、よろしくお願いいたしますね」
「……ああ」
遠く遠く離れてしまった気がした。
10年の年月に、聖王妃とただの傭兵という地位の格差に、引き離されてしまった気がした。
叶わぬ恋とは知りながら、
その想いを殺すことも出来ない。
ただ、ただ、想うばかり。