8 行為の善し悪し
今回もとても長いです。
南に位置するエクシトゥス島。
元になった哲学の言葉
【Exitus acta probat .】
(エクシトゥス・アクタ・プロバト)。
この意味は、結果が行為の良し悪しを示すことになる、というものらしいが何を指すのかはさっぱりわからない。
ただ、大きな美術館のようなこのアーツ諸島を巡ることで人生で止まっている人に何か答えを与え導こうとしているのはあるのだろう、一つの島にはそのテーマを深く深く突いているものがある。
時に、理想という光によく似たもの。
時に死という終わりによく似たものを。
この二つを深く考えた上でこの島で何か結果が産まれるのを待っているのだろうか。
……この諸島を楽園のように作り上げた創造主一族は新芽【1%にも満たない新たな可能性】を萌芽させるためにたくさんの違和感を与えてきたのだろう。
秋羅の様子が気になり横目で盗み見るがトンネル内で販売していたバナナチョコソースのクレープを満面の笑みを浮かべリスのように食んでいた。
……お腹が空いていたのか。
この小さな体のどこに入っているのだろう。横にいるのが当たり前になったこの存在は、もう少しで翔く時期が近いのだろう。
おかしいな、一緒にいるのがまだそんなに時間は立っていないのに。昔からそこにいたかのように錯覚するくらいに傍にいるだけでしっくりとくる謎の感覚。
長い長い碧いトンネルの中で。
少しずつ変わっていく自分の心に戸惑いつつも明確な答えが出るのはまだまだ先に思えてならなかった。
左から伝わる体温の高いものを握ると。
それはこっちに応えるように、ぎゅっと握り返してきた。
失いたくない、そう思う気持ちだけははっきりしていた。でもそれが邪混じりの恋情なのか無条件の愛情なのかはっきりはしないまま。碧いトンネルを潜るしか他になかった。
***
滑り込み予約した宿に着くとフロントにいるスタッフから預かった荷物は既に部屋に運び入れてあると言ってからルームキーを出した。
滑り込みとは言え、いい部屋を借りられたと思った。リビングにある大きな窓から外に出られる、なお徒歩数分圏内に海や現地民が知る隠れスポットにアクセスできると聞くと秋羅が真っ先に食いつくと思った。
「広い部屋ね!」
本当に短い言葉なら秋羅は声を出すようになった。なぜ彼女は興奮すると回転木馬のようにくるくると回り始めるのだろうか。
「危ないだろ、おい」
注意を促した矢先に小さな足がもつれ、伸ばした腕の中にはるかに軽い彼女の体が納まる。
紅い双眸と視線がぶつかる。甘く細んだ瞳は上目遣いなのだか伏し目がちになり、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくる猫みたく腕の中で頬を寄せてきた。
……チクチクと肌に合わない繊維の洋服を着た時によく似ている、似ているけど今着ている服はそんな服じゃない。これはなんだろう、忙しないし落ち着かない。
キャスケットを奪い、こぼれてくる艶やかな髪を指先でもてあそぶと鼻で笑った声が聞こえたが気にしない。むしろ笑ったことを後悔させたくなりもてあそぶ右手に意識を向かせてから添えているだけの左腕に力を加え、抱きしめる。
グッと近くなる互いの温度。
鼻先に秋羅の髪、フローラル系の甘いにおいがする。からかうように顔を近づけると秋羅は恥ずかしそうに目を逸らしつつ、瞳を閉じて小さな唇が少しだけ開いた。
窓から差してくる日の色は橙色。
空は夕闇に傾き、夜の帳が降りつつあった。
何もかもを飲み込む底の見えない闇に似ていると感じざる得なかった。
***
夕食を済ませ、シャワーを済ませる頃にはワインが飲みたくなり秋羅が浴びている間に売店からボトルを購入し戻るとタオルを被って座敷童子のように佇んだ彼女の姿があった。
「何か足りなかったか?」
そう聞けば、彼女は首を振る。
濡れたままの髪から大粒の滴が落ちている。
「今さら置いていくとか、俺はしないから。
さぁ、髪を乾かして少し飲もうか」
ドライヤーを持って、秋羅の頭を温風で撫でる。
タオルドライと合わせてやっていけば長い髪もさらさらになってきた。眠気が来ているのか頭がこくこくと船をこいでいるのがわかる。
「少しだけ飲んでから寝なさい」
カップに注いで渡せばこくこくと飲んでいた。
寝る前に水を渡してから先にベッドルームへ寝かす。リビングと寝室が別れているところを予約できてよかったとホッとする。
飲みかけのカップを満たすは白、すっきりとした味わいの外国産の辛口と甘口の間の子。口に含むとフルーティな味わいが広がり少し甘い香りが鼻から抜けていく。
音量を控えめにテレビでバラエティ番組を見ながらワインを味わっていると気づけば日付が変わってもおかしくない時間帯に差し掛かっていた。
「そろそろ寝るか……ん?」
ソファーで伸びをしていると、肩をつつかれた。
……寝ていると思っていたから少し驚いた。
「お水飲みたい……」
「わかった、座って待て」
冷蔵庫に入れておいた水を渡せば、コキュコキュと喉を鳴らしている。寝汗が多く出たのだろうか。
「さぁ、寝ような。寝具まで行こうな」
お疲れのようだから姫抱きをする。
相変わらず軽い、本当に人間なのかなと思う。
ゆっくりと降ろしたつもりが、絡まっている彼女の腕は首を解放してくれない。
「秋羅?」
ようやく腕が解かれたと思えば、手を引っ張られた。そんな予想外の出来事によって思考回路は強制停止をせざる得なかった。
柔らかな感触と熱い吐息。
絡め取られる息は白ワインのかおり。
『……っ』
何かを言いかけたが聞き取れなかった。
そのまま崩れるように眠りに落ちた彼女から答えを聞くのにはあまりにも遅過ぎた。
これが酒の勢いならタチが悪い。
モヤモヤとした頭ではいつものように回る頭は役に立たなかった。
室内灯を消して目を瞑っても脳裏に蘇るのは。
秋羅の涙に濡れた瞳、だった。
***
意識が浅くなってきた所でスマートフォンの目覚ましアラームが鳴っているのに気付き、前髪をかき揚げつつ止める。
時間は朝の八時。曇天の色。
どうやらセットした予定時間を少し過ぎてもなお、スヌーズモードが働いたらしくこれは二回目のアラームのようだった。
「ん……エリアメール?」
珍しくSNSにメールが届いていた。
開いて見ればそれは店長からで、嵐が急接近しているとニュースでやっていたから沿岸はくれぐれも用心するように、という店長なりの気持ち添えなのだろうが若干お節介にも感じるものだった。
秋羅はまだ寝ている。
猫みたく丸くなっているが夜間冷えたのかタオルケットを巻き込んで小さな巣を思わす状態になっていた。
確か備え付けに紅茶があったはずだから香りで秋羅を起こしてやろう。
そう思い立つと行動は早くなる。
電気ケトルに飲料水を入れてセット、お湯が沸けば加熱するのが止まる優れものは手放せない人も多いものだ。
***
ティーパックを入れたカップに蓋をして、じっくりと蒸らしている間に朝食にしやすいスコーンでも買ってこようか。財布とスマートフォンをポケットに入れて寝ている秋羅を一瞥してから部屋を出た。
近場にある売店は想像以上に品揃えが良かった。スコーンでもプレーンからドライフルーツが加えられたものまであったがジャムをつけて食べるのを想定すればプレーンで間違いはないだろう。
自分が食べる分も加えると量がすごい。
目の前で積まれるさまはごつごつした岩を乱雑に重ねているようにも見えた。他に牛乳500mlと持ち歩きできるチューブジャム三種類を購入した。
その後、すんなり戻れるはずだった。
けれど心穏やかに帰れる状況では無くなっていたことに気づいた瞬間に、心臓は暴れ冷静さなんて容易くもかき消されてしまった。
今まで姿を現さなかったストーカーがひょっこりと街角から顔を覗かせていた。気色の悪い目つきに口元をにやり、と不気味に歪んだことにただならぬ不安をかき立てたからだ。
嫌な予感、背筋に大粒の冷たい汗が伝う。
やつが姿を現さなかったことに安心しきっていたことを後悔せざる得なかった。
紙袋の中は大丈夫だ。
多少ならば、振り回したところでボロボロになることは無いだろう、急げ、急げ。
急げ!
この心配が杞憂でありますように。
扉を開けたら間抜けにも近い底抜けの笑顔を浮かべる彼女がいつものポジションに座ってタブレットを向けている光景があるはずだ。
「あきら!!」
鍵をすぐさま閉から開、扉を引き開ける。
杞憂であって欲しかった。
カウンターに残っていたのは中身が無くなった紅茶のコップと、彼女の大切な相棒であるタブレット端末だった。