6 理想を求める島
島巡りのパートはとても長いです。
自分で見直してもなお長いと感じます……
理想、と光栄な冠をかぶる北に位置するイデア(idea)島に着いてからまず、するべきと決めていたことは。
「ほうほう……円谷君、君に告白してきた不審な女性のことを他の島にも伝えておけばいいのだな」
ほっほっほっ。とひげをたっぷりと蓄えた朗らかに微笑むおじさん駐在が書類をまとめながらそう言う。
「俺だけならまだ、対処できますが彼女に同伴している時は無理だと判断したんです。相談兼注意喚起をして頂きたいと思って来たんです」
「ほっほっほっ。では他の島におる同胞に連絡入れておくよ、ではよい1日を」
駐在所を出る時もおじさん駐在はほっほっほっ。と北の国にいる赤いおじいさんのような声が駐在所から離れていくとそれはやまびこのように木霊していた。
「……はぁ」
『厄介なものね、粘着気質の人間がいることは知ってたけど初めて見た』
今回は音声ガイドの声が秋羅の意見を代弁した。歩きながら会話するにはこれがいいと思ったのだろう、女性の無機質な声。機械的でイントネーションも一定。いかに音の上がり下がりがコミュニケーションに必要不可欠であるかをつきつけられている気がした。
「イデアはアーツの北にある。だから多少なり日が強くても南にあるエクシトゥスに比べれば涼しいだろう」
『なるほど、アブ島を囲うようにして島々があるとは摩訶不思議なものだ』
「1番緑が少なく広かった無人島を全ての入口アーツ諸島の都市と定めた上の人は凄いもんだな。個人資産なのに特別な施しを受けて昔はプライベート空間と勘違いされ人があまり来なかったこの場所も現在は一つ国の扱いを受けている」
ほんと、どうやったんだか。
歴史館には30代に入る直前で大きな賭けに出るかのように諸島を買取、大軍やミサイルを持つ国でさえ大きな文句がつけられないはどの権力を駆使して島の平和を保持している。それだけ今の世界は数多の芸術に侵蝕されているのがよくわかる。
イデアの凄いところは作品が苔や蔓に覆われていても、存在感を霞むことを知らない。それだけ堂々とした雰囲気を醸し出したくさんの人を唸らせて来たという売り文句にあながち嘘では無いようだ。
秋羅も何も言わず、ただ見上げていた。
空の見えない緑に包まれた朽ちつつある彫られたらしき石の柱を。観光とは、不思議なもので。
外の世界はあっという間に真っ黒に塗りつぶされた。
予約した部屋に来てから適当にシャワーを浴び、途中で買った缶ビールを開けて口に含んでから喉を過ぎる。食道から胃に炭酸の弾ける感覚が通り抜ける。
深いため息がこぼれる。
イデアのシンボルと呼ばれるようになったあの柱を通過してから背中の方にどこか熱のような粘ついた視線を感じるようになった。根源を駆逐できていない証拠なのだろうか。いくら風呂で取ろうにも精神的苦痛だから姿も物体も俺の身体にはこびりついてはいなかった。
姿は見えないがそこに“いる”。
宿に入る直前でその視線を感じることは無くなったが、明日以降に何かあるんじゃないかと不安しかない。
早く寝てしまえば朝が来る。
それに身を任せてもいいだろう……秋羅には悪いが先に休ませてもらおう。
柔らかなベッドに体を横たわせると少しずつ沈む。体の重さでスプリングが沈むのは当たり前だが微睡みはじめた意識がまるで導かれていくように、ただ水に混ざり、きめ細かな泥のように溶けるように────
***
秋羅は湯船にぬるい湯を貯めて、体を沈める。
ほのかに檜のかおりがする入浴剤は疲れた肉体を癒すには最適なものにも思えた。五感が癒されるとはこのことを言っているのではないかと疑うくらいに心身ともに溶けるようにリラックスする。
「……なんなんだろう」
粘ついた、あるいは穴をあけるかような鋭くも気持ち悪い視線は。脂気質のまとわりつく感覚を思い出すだけでも悪寒が走り鳥肌が立つ。
湯の中にいるのにぞわぞわする。
……なんとか、いやなことが起きないように願うしかないのだろうか。
ドライヤーで髪を乾かしてから体を冷やさないようにと念押しされ悠一から借りている上着を薄手の長袖から着衣する。大きくて、あたたかい。
このサイズが悠一の体の大きさなのだろう。
もしもの話、直に抱きしめられたのなら私はその時にどう感じられるのだろう。
ボンッと音がなりそうなくらいに顔に熱を感じる。
ふざけてるわ、と妄想を振り払いながら彼女は広がってしまう髪の毛をまとめた。
ぶかぶかの袖口から自分の小さくて細い指先がのぞく。
ひとたび腕を下ろすと指先は長い袖に飲み込まれてしまう。匂いをかぐと遠くに甘いけどタバコっぽい臭いがした。
悠一はタバコを吸うようには思えなかったが……今度、聞いてみようかな。
「ゆーいちー?」
タブレット端末をショルダーバッグにいれたままだったので、呼ぶだけ呼んでみる。
ベッドの方へパタパタと向かってみると二つ並んだ内の一つが膨らんでいるのに気がついた。
あぁ、寝ちゃったのか。
いつもの顔と比べて見ると、幾分か幼く見えるのが不思議だった。
「……ふふふ」
不意に撫でたくなったのはなぜだろう。
今夜の私はどこか、おかしい。
黒っぽくて毛質は柔らかいけど毛先はちくちくする。
猫や犬とは毛質は似ていても非なるものなのだと実感するも、どこか癖になるものがそこにある。
おやすみなさい。悠一。
室内電灯を切にして、ランプの仄かな光も紐を引っ張り電球を消し横になる。
明日はどんな1日が待っているのだろう。
前向きな気持ちが心のうちで動き出す。
次は、どんな世界が。
目を閉じ心躍らせていると睡魔は静かに意識を夢に連れていくのを感じられた。
***
のたうち回る龍が如く、大量の酸素を喰らうと火柱はゴオオォォォウと凄まじいうなり声をあげる。何股にも分かれる空間を通り抜け壁を焼き足場を焼き、壁に装飾した金属をドロドロの液体に変化させてもなお止まらずにお暴れ続けた。
『母さん!』
『────を連れて早く逃げなさい!』
叫んだ瞬間に火に包まれた木材が俺と母親を阻むように倒れてきた。その衝撃で火の粉が舞い熱風と火の粉が頬を撫でる。
母さんの意志を無駄にしてはならない。
使命感に駆られた俺は呆然と立ち尽くす少年の手を引き母さんが示した方へ猛進する。後ろで喚きたくて泣き叫びたくて我慢しているのが腕に伝わってくるがそれは気のせい、あるいは嘘だと自身に言い聞かせてなお走り続ける。
ようやく人が集まっている場所へ向かうと大人と話す父親の姿を見つけ、足元へ駆け寄った。
『父さん!』
『2人は無事だな。おい母さんはどうした』
『母さんは、火の中……俺達を行かせるために物凄い顔で』
舌足らずの説明でも、父親はなにかを悟った表情をした直後に俺達2人をさっき話していた大人に抱き渡すとバケツに入っていた水を被って火の中に走っていった。
『父さん!!』
広い背中が炎にのまれていく。
こんなのは嫌だ、置いていかないで。
『父さん!!!』
そう叫んだ瞬間に父親の身体は一瞬にして真っ赤になり、さっきの赤い悪魔は俺達にも牙を向けつつあった。
『────危ない!!!』
咄嗟の判断で少年を引き込み、咄嗟に自分の身体を盾にした。
すると襲い掛かってきたのは言葉にできないくらいの熱さと、痛みと絶望だった。
『────っ!!!!』
船体が割れていく轟音。
今にでも焼き切れそうな意識で、全力の力で脱力仕切った少年の身体を反対側へ投げ入れた。
その反動で力尽きた身体は割れた船体を満たしていく海へひっくり返るように落ちたのだ。
暗くなっていく視界。溶けていく視界で突き飛ばした男の子の悲痛な叫びを耳にしながら、光に手を伸ばしてもその腕はあまりにも短過ぎた。
一生懸命伸ばしてその手に掴めるのは無力感という喪失感の大きな目に見えぬ後悔だけだった。
***
「しっかりして、ゆーいち!!!」
違和感を感じて隣を見てみれば酷い寝汗で苦しんでいる彼の様子に気付き慌てて揺すってみれば焦点の合わない虚ろな視線が宙を泳いだ。
「……あき、ら?」
「私よ、どうしたの」
私の頬を撫でつつ、こぼれ落ちている私の艶やかな髪をいじり乱れた呼吸を落ち着かせるように静かに呟いた。
「わからない、……けど遠い昔のこと。はっきりと思い出せないけどこれは忘れちゃいけないこと、俺にとっては残酷でもとても大切なこと……」
混濁状態では、話にならない。
ちゃんと覚醒した時にでも聞くことが出来ればいいのだけど。大量の冷や汗をかいているらしく、頬や腕が冷えていた。
「……っ、ぐずっ」
左肩に頭の重みが乗ってきた、鼻をすする音がする。さっき見ていた夢を思い出して泣いているだろうか、私の腕を握る手も大理石のようにひやりとした。
「大丈夫、大丈夫……」
彼の頭を抱え、両手を背に回して慰めるようにして撫でる。
「……置いていかないで」
彼の言った言葉に意識を持って行き過ぎて腕にあった彼の手は背中に回された瞬間に彼のいたベッドの中に引き込まれてしまった。
『ちょっ、ちょっと!近いって!!』
タブレットはテーブルの上で充電中、心の悲鳴に対して相手は反応を示さない。真正面から、強く抱きしめられて。不可抗力だといえこんなタイミングで抱き寄せられるなんて……本当どうか、してるわ。
落ち着くまで大人しくしてあげよう。
再度背中に手を回した時、先に回された腕に力が込められたのを感じた。
彼が起きた時、驚くのだろう。
別々に寝ていたはずなのにまた一緒に寝ていたことに気づいた瞬間を見てみたいと悪戯心が熱のように湧き上がってくるのを沈めるように視界を閉じる。
心音は穏やかになり、寝息も規則正しいものへと変化したのを確認しようとした時には意識は眠りの底へ落ちていった。
***
一瞬、状況は飲み込めなかった。
一つのベッドの中、腕の中には熟睡する秋羅の顔。部屋の涼しさに震え体をぴったりとくっつけてくる。
「秋羅」
肩を大きく揺さぶると長いまつげが震え、その隙間から猫のような瞳が悠一の姿を捉えた。
「おはよ〜……」
「……おはよ、秋羅」
わしゃわしゃと柔らかい髪の毛に指を絡ませ、手櫛をするようにするとくすぐったいのかくすくすと笑う声が腕の中からこぼれてきた。
「くすぐったいっ」
その刺激から逃げようとしたのか無意識のうちに秋羅は俺の身体に抱きつき、額を押し付けるように密着してきた。
(え?)
流石に、鼓動が伝わりそうなくらいに密着しなくたっていいのに。刺激から逃れるのはこうするしかなかったと言わんばかりに目の端に涙を浮かべながらも笑っていた。
「……秋羅」
「ん?」
秋羅自身は気付き始めているのだろうか。
頭に浮いたちょっとしたこと。
バックから手拭いを取り出し、目隠しの代わりにしてから秋羅とある一定以上の距離を置いて窓側にスマートフォンを置く。
自分はその真逆の扉付近に身を潜めBluetooth機能があるイヤホンから電波を飛ばし適当に音楽をかけてみる。
もしも読みが当たるなら、秋羅は窓側に振り向くはずだからだ。
音量1、Bluetooth機能を切る。
連動が切れればスマートフォン側から音楽が流れ始める。離れている自分にも微かに聞こえる程度で秋羅は反応を示さない。
音量2に変更、再びBluetooth機能を切る。
さっきより少しだけ大きめ。
本当ならすぐに5にしてしまいたい欲求をぐっと抑える。依然として秋羅に反応は見られない。
音量3、反応は見られない。
一分刻みで検証するために曲はだいぶ進み音量5にする頃には自分が最近入れたてのものに変わり、これで秋羅が反応を示してくれたら語り合えるのだろうと淡い期待がわいてくる。
5にしても秋羅は反応を示さない。
最大音量は20。まだ、希望は残っている。
6、7、8、9……小刻みに上げていく。
10前後は扉にいるこちらがはっきり聴こえる音量になってくる。15以降は耳を痛めてもおかしくないライブ並の大きさにはなるがこれは、大切なことだ。
11、12……部屋で聴くにはだいぶ大きな音量で耳が痛くなりかけた頃。とうとう自分が考えていたことが現実となり喜びによる震えが止まらなくなった。
「悠一……この曲ってなんて名前?」
秋羅が窓側に向いた。確信した。
秋羅の聴力が、少しずつだけど回復しているのが確認取れただけでもこんなに嬉しいものになるとは思いもよらなかった。
すぐに知らせないと。
秋羅自身が一番驚くだろうから。
「秋羅、聴こえただろ」
『悠一、これ本当?』
タブレット端末には興奮気味の文章。
「本当だ」
彼女からすれば絶望の淵から一筋の光が差したのだから、嬉しいことこの上ないだろう。
「兆しが見えた。この調子なら」
聴力が戻るかもしれない。
けれど早く戻ってしまえば秋羅が療養する目的は完遂され、この島から離れてしまうだろう。
「……さて、今日はどうしようか」
秋羅の聴力が回復していることに落胆するのはなぜか、わからなかった。喜ばしいことのはずなのに、心に黒いシミが落ちたかのように晴れない気持ちが生まれていた。
***
朝ごはん……もとい、テンション上がってはしゃいでいたら取り損ねたために朝ごはん兼昼ごはんを摂ってから残り半周を回るために荷物を船に積んでもらうように宿に頼んでから必要最低限のもの以外をカウンターに預ける。
「残り半分に残る理想、とはなんだろうな」
『それはその人次第、その人の世界。
いわばそれは神のみぞ知る、ってやつよ』
「神って、芸術家は人外なのか」
芸術鑑賞は楽しくも、なぜ人は人を崇めるのか。時には万能の神のように奉るのかよくわからない。
『できないことを成し遂げるのが常人離れしていると考える人が少なからずいるわけで。だから人気のあるアーティストは少なからず神のように崇め奉られるのよ、それも偶像のように』
言い方に棘があるのは気のせいか。
理想とは何か。
それを深く考えさせられる時間だった。
メビウスの輪を金属や石、木、土、プラスチック……この世に存在する素材を全てを合わせて作られた【輪廻の輪】が印象深く思えたのは、作品に供えられた1つの詩の影響だった。
総ては 繋がっている
今のあなたが見る この作品は どう
欠けて見えるだろうか
欠けて見えるのは まだ未完成だからか
そうではない
完成とは人の判断である
一つ違う次元から世界を見れたなら
作品を作る人間自体が まだ未完成なのだ
生きている間に精神が追いつける境地に
辿り着けない限り 本当の完成に行くつくのは難しいだろう
完成とは何か
作品を見る側に誰1人 触れられない場所に安置されなお 足りないという
感情を抱かせない限り
今の世界に在る 完成には辿り着けないだろう
「秋羅はどう思う、これを」
『作者が完成だと感じたとしても第三者の誰かが足りないという気持ちを抱いたのならその作品は一生完成しない、という芸術家の一種の悟りだと思う』
終わりがないという悟り。
全ての物質が組み合わされるように鎮座されたこのオブジェが欠けている場所は風化によるものではなく、あえてそうした理由とはなんだったのか。
『この世界にあるものがすべて揃うのが作品を見る人間が現れた時。人間が生きるには食べられる生物の存在、酸素、水に土地だと思う。作品が鎮座する土地。酸素を生成する植物に食べられる運命の動物と、人なのよ』
欠けている部分に酸素という存在を入れたならこの作品はこれ以上の手入れは不要という回りくどい遠回しの意味よ。と深いため息をつきながら彼女は言う。
他に極彩の森と呼ばれる植物園自体が大きな作品の建築物があった。植えられている植物は各フロアによって温度も室温も違い亜熱帯に咲く花や標高の高いところにしか咲かない珍しい植物が展示されていた。
目にも鮮やかな植物園を抜けると広い海が見えてくる。ふと目をやれば空は黄昏色になり、太陽は海に沈みつつあった。
「そろそろ一時間もしないうちに船が島を出るな。少し急ごうか」
秋羅の手を取り、小走りで港へ向かう。
チケットを見せてから船員に掲示して部屋に向かった。
「ふぅ、間に合った」
肩で息をする秋羅を椅子に座らせてから冷蔵庫に備え入れられている飲料水を手渡す。
「食事はここで取ることにするけど何がいい」
テイクアウトできるメニュー表を秋羅に渡すとまじまじとメニューに書かれる食べ物を注視する。……そんなにお腹がすいていたのか気づかなかったぞ。
すぐに決まったのかトントンと指先でメニューを指していた。夏野菜たっぷりのロコモコ丼ぶり(大盛り)。だいぶ動いたからか目をキラキラさせながらこれが食べたい、と伝えてくる。
「わかった。飲み物はアイスティーだな」
メニューを持っていくついでに鍵を締めるようにと伝えると静かに頷いた。
夕闇に消えていくイデア(理想)は流転するものなのだろう。その時々の時代の背景に写り多くの人を翻弄し、時に争いを呼ぶ。
戦争とは互いの理想を尊重しあえないことで起きたとも考えられていると何かで読んだが、自分が正しいという驕りの気持ちが生み出した悲劇だと思っている。
理想は、皆。違うというのを忘れてはいけないというのを学んだような気がする。とりあえず船の食堂に持ち帰りメニューを注文するために悠一は足を進めた。