第三楽章(力強く、速すぎずに)
「クラシックって聴いたことあるかな?」
そう示されたチケットの日付には、バイトのシフトが入っていない。金曜がオフなのは年末年始を除くと、去年のクリスマス以来だった。
「どんなの?」
ないよ、とは答えなかったのは。チケットを差し出したひとが「特別」になり始めていたからだった。あのクリスマスイブ以来、バイトやキャリアセンターの就職セミナーに入れ込んでいたのは、記憶を冷まして思い出とするためだった。
元カレとなった男との経験は、もう胸をチクチクさせない。思い出の上で新しい恋をしても大丈夫そう。
「マーラーの第五番」
「運命?」
「そっちは、ベートーベン。けど、ウィーンで活躍したのは同じだよ」
不思議とムカつかなかった。そのひとが暖かいせいもあるが、あたしの心だって暖かくなったと思う。盗られた元カレの幸せを願えるようになったから。
「そっか、教えてくれてありがとう。タクさん」
知識をひけらかす男は薄っぺらい。空っぽの男は退屈。幾たびもの出会いと別れを経て学んだ。タクさんはそのどちらでもなかった。うちの店に置いてるシュークリームと違って、本物のカスタードでいっぱい。シュークリームも男も、中身が本物かどうか見た目だけでは分からない。
などと恋愛のプロを気取ってみても、あたしはまだ二十一歳。去年初めて振り袖を着たけど、全然いけてなかった。このタクさんからしたら、まだまだお子様なのだろう。
だのに、「シューカツ」では、即戦力性をアピールしろという。セミナーでは、毎回、「キャリア」やら「人材」やらが頭につくコンサルが入れ替わり立ち替わり同じ事を言っていた。
そのオヤジ共の講演料一回分は、タクさんが必死に働いて得られる時給の一週間分。あるコンサルの名をネット検索してびっくりした。
そんなにタクさんは安い男なのだろうか。
あたしが熱を出してシフトに穴を開けた時、タクさんは十六時間連続で代わりに仕事をこなしてくれた。
万事ルーズな落下傘店長に代わって、商品の発注やシフト編成、クレーム処理までなんでもござれ。役に立たない店長をよこすより、タクさんを本社に迎えた方が、よほど売り上げも伸びるはずと仲間も口をそろえる。
けど、タクさんは今年も会計士試験に落ちたそうだ。国家試験はタクさんを正当に評価していないと思う。
「学生の時間は本当に大切にしてね」
大学の診療所で出された薬が効いて、タクさんにお礼を言いに行ったとき、タクさんはそう微笑んだ。授業も、サークルも、バイトも、セミナーも大学生活全部を楽しめという激励の言葉だった。
どうして、この人はこんなに頑張って、なのに報われなくて、けど、いつもあたしにも他の仲間にも優しくできるのだろう。
そう感じたとき、あたしはタクさんを「男」として意識し始めていた。全てイケメンに限るのはもう止めようと。
「大丈夫だったか、詩織ちゃん!」
大丈夫なわけ無いでしょう。マジ死ぬかと思ったよ。誰よ、こんな高いところでセミナーをやるって決めたのは。マジ怖いよタクさん。怖すぎ、死んじゃうよう。
まるで船みたい。それにしたって、一昨年の元彼と大島に行ったときも、ここまでは揺れなかったと思う。
そこまではさすがに、タクさんにはぶつけなかった。そういえばタクさん、まだあたしの恋バナを訊こうとしてこない。
いつもお店のことをきっちりやるタクさんが、まだ、揺れが収まらないうちにあたしの携帯を鳴らしてくれた。そして、あたしの気持ちが収まるまでは切らないでいてくれた。
こら、タクさん。あのとき、お店には誰がいたんだ?携帯はロッカーから出さない事って、タクさんが教えてくれたんだよ。お店とあたし、どっちが大切なのよ。
そう、とっちめてやりたいが、右隣の席は空いたままだった。
もっとも、これだけ空いてるんだからどこに座っても良さそうだし、そうしている人もいた。
けど、あたしはこのチケットの番号を大事にしようと思う。タクさんと逢えたとき、今夜のコンサートがどんなに素晴らしかったか伝えたかったし、そのためには、地震なんてこなかった普通の夜、タクさんと座っていたはずの席できちんと聴きたかったから。
そりゃ、クラシックのコンサートなんて、と一瞬は思った。
高校では美術を選択したし、中学の音楽は合唱ばかりで退屈だった。
小学校の頃大好きだったスマップがどんどん劣化していくと、嵐に入れ込み、嵐がバラエティに走ると、EXILEがiPodの主役になった。あたしにとっては、それが必要にして十分な音楽だった。サブカルやインディーズのCDを買いに行く時間もなかったし、お金もなかった。だからバイトに入れ込み、さらに学生生活を多忙にした。
ウィーンがオーストリアの首都であることは知っていても、そこにどんな音楽文化が隆盛したかなど興味も関心もなかった。
だけど、新しい恋を始める時、新しい世界を知ることは案外いいのかもしれない。
そう思ったから、タクさんの誘いを受けた。ちょうど、就活セミナーが夕方まであるから、スーツを着たままで済んだし。スーツ姿のあたしは、格好よく見えるかな。
タクさんと逢えたら、訊いてみたいことはまだまだある。
普通、予定を確認してからチケット買わない?あたしが断ったら、タクさん、このチケットどうしたのよ。誰か他に誘った子はいるの?
そっか、あたしはいま、タクさんの恋バナに興味がある。それは、あたしがタクさんを好きだからだ。バレンタインデーの時は気づかなかったあたしの輝きに、あたしは気がついてしまった。
バイオリンだろうか、それともビオラだろうか。舞踏会とかこんな音楽がかかってそう。さっきまでは、重々しくて気持ちも沈んだが、この第三楽章は気に入った。昔のヨーロッパではこういう音楽を流して恋人が踊ったのだろう。
そしてきっと、マーラーという人も、幸せな恋をした人だったのだろう。
え、誰?
うっそ、タクさん。間に合ったの。
うん、黙ってるから、お願い、右手を握って。震えが止まらないの。
手のひら汗かいてるね。脈も激しい。
走ってきたの?息も切れてるし。
でも良かった、まだコンサートは残ってるよ。
帰りは一緒に帰ろ。
ううん、今夜はずっと一緒。
今日は本当にありがとう。タクさん。