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「コンサートホール」  作者: 史部 次郎
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第二楽章(嵐の如く、峻烈)

妻と自分、どちらが先に死を迎えるのだろうか。

 左隣の席には、妻ではなく妻のコートが収まっていた。

「これだけ空いてるんだから、もう自由席でしょ」とは逞しい。

 可憐な一輪挿しを一目見たくて、経理部に行く用事は無いかと先輩に訊いて回っていた頃は、こんなことを言うようになるとは想像もつかなかった。人生とは分からないものだ。 その妻と今日まで二人して生活を営んできたのだが、生まれた瞬間と死ぬ瞬間は二人同時というわけにはいかない。娘も無事に新しい家庭を持てたし、ファイナンシャルプランナーの算定によると、これからの年金生活もまず大丈夫そうだとのこと。従って、今のところは夫婦で心中するという発想は現実味がない。

 すると、どちらかが一方を送り出すことになる。

「死が二人を別つまで…」

 当時ブームになり始めたチャペルでの結婚式で、たどたどしい白人聖職者が唱えた宣誓が蘇る。

 その夜は、経理部の一輪挿しとたっぷり愛し合った。結果、慶事手当を得た経理部からはさらに、出産手当を獲得することとなった。

 その娘が生まれたという知らせは、出産に立ち会うべく出張先からとんぼ返りをしている最中に受けた。

「お客様のお呼び出しを申し上げます、三井物産の寺島様。三井物産アジア課の寺島様。おいででしたら一〇号車車掌室までお越しください。お電話が入っております」

 肘掛けの吸い殻入れを引き出して火を消す。禁煙車はまだ、博多寄り一号車だけだった。

 呼ばれて立ち上がる瞬間、周囲の注意が自分に向かうのが誇らしかった。誰もがあこがれた商社マンの一員であるということが。

 携帯電話もない時代、新幹線には乗客を呼び出すサービスがあった。時刻表にそのための電話番号が載っていることは、ビジネスマンの常識だった。

「良かったなあ、寺島。バージンロードをもう一回歩けるぞ」

 車掌室で受話器を受け取ると聞こえてきたのは、妻の声ではない。

「やかましい、なんでお前が電話してくるんだ」

 そう悪態をつきつつも、最後にはありがとうと言って車掌に受話器を返した。来期の人事異動では、絶対にあいつを追い抜いてやる。

 妻に家事と娘を一任し、自分は業績のために邁進する。そうすれば、会社はポストや給与で自分たちに報いてくれる。必ず。住宅購入資金は低利で借りられるし、頭金が貯まるまでは社宅住まいも悪くない。そんなことを信じられた日本だった。

 まるで、いま、バイオリンとティンパニーが重なりつつホールを全体を圧倒しているように、激しく懸命に働いた人生だったと思う。当然、悔いなどみじんも無い。

 ホルンやトランペットが問いかけてくる。本当に、価値ある人生だったのか。死へ向かって生きることに意味はあったのかと。

 どうだろう。

 会社だけが人生だったのだろうか。

 続いて、とある食事風景が蘇る。

 ダイニングテーブルの四脚目の椅子に、初めて親戚以外の男が腰を下ろした。そんな夕食だった。


「あなたが私に結婚してくれと泣きついたのよ」

「そうだっけ?かあさんが、どうしても、あなたのお嫁さんにしてと言ったんだよ」

「もう、いつまでも恥ずかしいこと言ってないで」

 今日のろけるのは私なのよと、娘が差し出す徳利に猪口を向けた。自分にとって酒とは冷酒である。

 外食するたび、ワインについて講釈をたれる娘だが、ようやく巡り会った婚約者を前に猫を被っている。

 ちびりちびりと冷酒が臓腑に落ちていくのを知覚しつつ、目線で婚約者にサインを出す。

「気をつけ給えよ。一度振り込み口座を明け渡したら最後、どんな男も尻に敷かれるんだからな」

 珍しく、お代わりを盛ってくれた妻が席へ戻る。

 サラダばかりはよく食べる娘にマヨネーズを渡して、おそらくはこう、目配せをしたに違いない。

「亭主に余計な金を渡しちゃダメよ。このひとは、月給もボーナスも、ずっと上がり続けるって錯覚していたんだから」

 果たして婚約者氏は、これまた借りてきた猫の子のように肩を丸めている。細めた目も陽だまりの猫のようだった。

 お父さん、ここはひとつ僕がと酌するところじゃないのか、君。

 草食系の生態を一瞬垣間見て、先行きが不安になったが、杞憂であろう。

 彼は辞去する際、はっきり言ったのだった。

「次は、僕の手料理を食べにいらしてください」

 ブーツのファソナーをあげて娘が振り向く。その目からしずくがこぼれていた。

 

 高校一年の夏だった。

 帰宅途中の娘は、当時、カラーギャングと言われた集団に拐かされ、ボロボロにされて宮下公園の駐車場に放り出された。

 帰宅できた娘は、浴槽から丸一日出てこなかった。

 妻は反対したが、歩道橋の階段を転がり落ちるようにして渋谷署へ駆け込んだ。それは悪を放置しないという点では全く正しかったが、娘を救うという点では悲しい過ちだった。

 すなわち、男共の心ない言葉が娘の傷を広げ、耐えきれない苦痛を娘に与えてしまった。

 ルーズソックスを履いていただけで、男を誘うサインになる、などという副検事の戯れ言はいまも自分の中に司法手続きへの不信を刻み込み、来月の裁判員裁判の選任通知を辞退させた。妻子さえ居なければ、あの瞬間、自分は副検事を絞め殺していたはずだ。

 その後、男という存在をだかつ蛇蝎の如く忌み嫌った娘は、男という存在に復讐を重ねた。

 それは、HIVのキャリアを量産する行為の反復継続だった。

 いまも娘は食卓に並んだ肉類を残してしまう。ふっくらとした女性のラインへの抵抗感がそうさせるのでしょう、とはカウンセラーの言だった。もし、自分が女でなかったのなら。そう、自分の存在を責めているのでしょうと。

 その娘が新たに家族を作るという。

 妊娠や出産以前に、自らの命にハンディを背負ってしまった娘。だが、共に生きてくれる男がいた。そして、その男の手料理を味わえるまでに娘は男という存在を赦し、その腕に心から身を委ねることができるまでに戻ってこられた。

 人生は輝かしいこと、美しい事ばかりではない。そんなことは、ビオラやホルン以上に自分たちが知っている。トライアングルがキラキラと泣いているが、あの夜の娘の涙には遠く及ばない。苦しみを乗り越え見つけた喜び、幸せは、それがどんなに小さくとも、何物にも代え難く、尊く、美しく、そして愛おしいのだ。

 その真理へ到達したいま、自分は胸を張って言える。価値ある人生だったと。

 残念ながら、今夜娘夫婦はホールにたどり着けなかったが、

「大丈夫だよ、もう二人とも松戸」

 と、松戸のマンションで落ち合えた旨のメールを受け取っていた。

 この人なら大丈夫でしょ。ねっ、パパ、ママ。

 あの夜、そう微笑む娘の手で、玄関が閉じられた瞬間を想起したとき、ティンパニーにマレットが下ろされた。


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