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牛丼がある訳

 僕たちの前には、半熟卵がのっている牛丼がそれぞれ一つづつ。

 そして、お母さんは卵の入っていた容器をティッシュで拭いて、そこにペットボトルのお茶を注いでコップにしてくれる。

 それぞれに油性ペンで名前も書いてある。

 誰が何を飲んだのか分からなくなるので、二人以上の友達が遊びに来た時に名前を書くのは僕の家ではデフォルトだ。

 手当てが終わった後、部屋を物色したお母さんは奥から毛布を持ってきて入口で意識を失っている男の人にかけていた。その時にいくつかの食器を見つけたようだけど、六人分はないということで、こんなことになった。コップがちょっと卵くさい。

 お腹が空いてたし、喉も乾いていた僕たちは歓声を上げて食べ始めた……訳ではなかった。

 歓声を上げたのは本当。でも、食べようとしたらお母さんに睨まれた。

「忘れてない?」

 実は、僕のお母さんは挨拶にうるさい。

 おはよう、こんにちは、こんばんは、さようなら、ありがとう、ごめんなさい、いただきます。

 これらの言葉を忘れてはいけないのだ。

 もちろん、僕たちはみんなそのことを知っているので、お互いに「ヤバッ」と目で会話した。

 五人でお母さんを盗み見ながら、不安げに両手を合わせるとお互いにタイミングをとって口を開いた。

「いただきます!」

 それを聞いて、お母さんがにっこり笑った。

「はい。どうぞ召し上がれ」



 何故今ここに牛丼があるのか。

 それはお母さんが持っていたビニール袋の中身だったからだ。お茶も同じく袋の中身である。

 今日、僕たちの小学校は就学時健診なのだ。

 来年入学する幼児が健康診断に来る日で、先生たちは忙しい。つまり僕たちの授業なんかしている暇などない訳で……今日は午後の授業が全部ない日だったし、給食もないから、僕らは帰ってきた時点で腹ペコだった。

 で、何もなければ、そのまま家でお母さんが買ってきた牛丼をみんなで食べて、それぞれのお母さんが帰ってくるまで遊んでいる予定だった。

 駿成と誠也のお母さんは下の子と一緒に就学時検診中なのだ。それで僕のお母さんがみんなに昼を食べさせて、午後は預かることになっていた。

 だから駿成達三人もランドセルを背負ったまま僕の家に帰ってきた。もちろん金曜日だから洗濯しなくてはいけない物一式手提に入れての帰宅だ。お母さんだけではなく、僕たちも結構な荷物を持って佇んでいたのである。陽乃ちゃんなんて、鍵盤ハーモニカまで持ってるし。

 昼食が牛丼なのは、マンションの隣に店があるからだ。

 僕たちが内食する時はいつもお隣に買いに行くと決まっている。

 半熟卵が付くのはうちの家スペシャルだ。お母さんが大好きなのだ。

 どうやらお母さんは僕たちのお昼を買いに行ってて、帰宅した時に災難に見舞われたということらしい。

 牛丼六人分とペットボトル二本とお菓子をキッチンに置こうとして、シンクから灰色の汚水が溢れているのを発見したのだそうだ。

 びっくりして声を上げた瞬間に僕たちが帰ってきたという訳だ。

 帰って来た時で良かったよ。

 じゃ、なければペコペコの僕たちのお腹を宥める食料がない状態でこんな所に来る羽目になっていただろう。

 冷えてはいるけど、いつも通り美味しい牛丼を食べられて僕らは満足だった。

 因みに、ハサミや油性マジックはお母さんが出かける時にいつも肩にかけている鞄の中から取り出したものだ。

 あのお母さんの鞄の中には変な物が入っている。

 こんなにいろいろな物を持ち歩くようになったのは、僕たちがサッカーを始めたからだそうだ。

 試合の度に、あれがないこれがない、あれがあればこれがあればと考えると、どんどん増えていったらしい。そしてずぼらなお母さんは一々鞄の中身を入れ替えるのが面倒だと、いつも持ち歩くようになってしまった。

 この間は、僕が試合前の審判のチェックで爪を切りなさいと言われたため、爪切りを持ち歩くようになった。あの時はただのハサミで爪を切ってとっても怖かった。すごい深爪されちゃったし。

 パンツ用の白いゴムと紐通しなんて物も持ち歩いている。これも試合中にチームメイトのユニフォームのゴムが切れてしまって対応に苦慮したからだ。

 最近僕は、お母さんにお願いしたら何でも出てくるんじゃないかと錯覚することがある。

 それはチームメイト達も同じで、良くお母さんに「ある?」って尋ねている。大抵はキャンディや塩ラムネの有無だったりするけども。

 お母さんの鞄から色々出てくるのを見てホッとする自分に気づいた。

 僕たちには起こった事態を把握することができなかったし、自分たちが置かれている状況がどうなってるかなど考えたくもなかった。だって僕たちは小学生だ。

 お母さんが一緒にいるから大丈夫だって思ったし、何処か安心もしていた。

 でも、お母さんがその鞄から必要なものを取り出している姿があまりにも見慣れた光景で、彼女が当たり前のように道具を使っていつも通りのことをするので、僕たちは気持ちが落ち着いたんだと思う。

 実際こうやってご飯も食べられている。

 飲み物だってある。

 一人ぼっちで放り出された訳ではない。

 少し変な所はあるけれど、普通考えて有り得ない出来事が起こっているけれど、まだ僕たちは日常の中にいる。そう、錯覚してしまうほどに、僕たちは僕たちの日常にいたのだった。



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