表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16年目の片想い  作者: 雪本はすみ
第1章 お久しぶりです
4/88

 * * *



「速いなあ、加島かしまさん」


 体育の時間に、五十メートル走のタイムを測った。

 雛条西小学校三年の、春。


「女子で一番じゃない?」


 熊井さんは、悔しそうに言った。

 後で聞いたら、熊井さんのタイムは私よりちょっとだけ遅くて、クラスの女子の中では二番だった。


「男子の一番は、また市之瀬だろうなあ」


 女の子がみんな走り終わって、つぎは男の子が走る番だった。

 広い校庭なのに使っているのは私たちのクラスだけで、まっすぐに伸びた白いラインの内側を、出席番号順にふたりずつ走る。


 市之瀬という名前の男の子がどんな子だったか、思い出せなかった。クラス替えをしたばかりで、女の子の名前もまだみんな覚えていない。男の子なんてなおさら。


 でも、数分後に、市之瀬くんのことはすぐに覚えた。

 熊井さんの言うとおり、とびぬけて速かったし、おまけにとびぬけて体が小さかったから。


「去年は運動会のリレーの選手にも選ばれてたし、学年でいちばん速いんじゃないかなあ。チビのくせにさ」


 憎たらしそうにいう。熊井さんは、市之瀬くんとは一年のときから同じクラスだったらしい。

 市之瀬くんは背が低かった。たぶん私と同じくらい。私だって、背が低いほうなのに。

 それに比べて熊井さんは、クラスの女の子の中ではいちばん背が高い。六年生の中に混ざっても、ちっともおかしくない。


 その日をきっかけに、私は熊井さんと仲良くなった。熊井さんの下の名前は梨都子りつこという。りっちゃん、と呼んだ。


「紗月ちゃんは、走るのはあんなに速いのに、ほかは全然ダメだねえー」


 りっちゃんには、よくそう言ってからかわれた。

 確かに走ること以外、私は何をやってもどんくさい。団体競技はとくに苦手で、すぐおろおろして、いつもみんなに迷惑をかけてしまう。


 りっちゃんは、いわゆる運動神経抜群な子で、鉄棒も跳び箱もサッカーもバスケットボールも水泳も、スポーツはなんでも上手にやってのけた。クラスの女の子で、りっちゃんにかなう子はいなかった。


 そして同じく、クラスの男の子の中でいちばん運動ができるのは、市之瀬くんだった。

 だからきっと、りっちゃんはちょっとした対抗心みたいなものを、市之瀬くんに抱いていたのだと思う。何かするたびに、市之瀬くんをライバル視していた。


 たぶん、市之瀬くんの、感情が顔や態度に出ないところにも、りっちゃんがぷりぷりする原因の一端があったんだと思う。

 負けず嫌いで、いつも一番になることにこだわっていて、喜んだり怒ったり悔しがったり、感情全開のりっちゃんとは、正反対だったから。


 私は、市之瀬くんのことはよく知らなかった。

 りっちゃんはお兄さんが二人もいて、男の子とケンカしたりふざけたりすることも、あたりまえみたいに自然にできる。でも、ひとりっ子の私は男の子が苦手だった。


 当然、市之瀬くんともしゃべったことがない。

 足が速くて、小さくて、男の子なのにかわいい顔をしていて、髪が茶色くてふわんとしてる、というくらいの印象だった。そのときまでは。


 あれは確か、校庭の掃除当番のときだったと思う。

 女の子は私とりっちゃんを含めて四人、男の子は市之瀬くんを含めて四人いて、八人で校庭の掃き掃除をしていた。


 ちょうど、桜が青い葉を茂らせる季節だった。校庭にはたくさんの桜の木が植えられていて、そのどれにも、もさもさした毛虫がたくさんついていた。

 最初はまじめにやっていたのに、そのうち掃除に飽きた男の子たちが、毛虫取りに夢中になりだした。掃除なんてそっちのけで、取った毛虫を投げつけ合ったりしている。


「男子って、なんであんなにバカなんだろうね」


 りっちゃんが呆れて、大人びた口調で言った。

 その声が、聞こえたらしい。男の子のひとりが、「くらえ!」と叫んでこっちに毛虫を投げてきた。


「きゃー!」

「やだーっ」


 みんな、必死で逃げた。

 逃げている途中で、りっちゃんが私の背中を見て叫んだ。


「毛虫、ついてる!」


 りっちゃんの顔は、見たこともないほど恐怖にゆがんでいて、じりじりと私から離れていく。


「やだ、取って、ねえ」


 私は懸命にりっちゃんにすがった。でも、りっちゃんは私にくるりと背中を向けて、いちもくさんに走って逃げた。


「取ってよ! りっちゃん!」


 大きな声で頼んでも、女の子たちは遠く離れたところから私を見守るだけで、ちっとも近づいてこない。りっちゃんなんて、校庭の端っこまで逃げてしまっている。


「取ってよー」


 私が近づこうとすると、みんな走って逃げていく。

 私は半分、泣き出していた。


「加島」


 ふと気づくと、毛虫合戦には参加していなかった──でも掃除はさぼっていた──市之瀬くんが、そばに立っていた。


「取ってやるから、動くなって」


 私が立ち止まってじっとしていると、かすかに背中に指のふれる感触がして、「取れた」と市之瀬くんが言った。

 そしてもうすたすたと、私から離れていってしまった。


「あ……ありがとう」


 私は半泣きになりながら、なんとかお礼を言った。市之瀬くんは聞こえなかったのか、こっちをふり返らなかった。


「市之瀬って、意外とやさしいねー」


 見ると、りっちゃんが隣に立っている。


「りっちゃん、ひどい!」

「ごめーん。だって、毛虫嫌いなんだもん」

「私だって嫌いだよ!」


 その日、私はひそかに市之瀬くんの下の名前を調べた。学級名簿に載っていた名前は「郁」だった。市之瀬郁。なんて読むんだろう。

 それから私は、市之瀬くんのことを、よく見るようになった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ