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「速いなあ、加島さん」
体育の時間に、五十メートル走のタイムを測った。
雛条西小学校三年の、春。
「女子で一番じゃない?」
熊井さんは、悔しそうに言った。
後で聞いたら、熊井さんのタイムは私よりちょっとだけ遅くて、クラスの女子の中では二番だった。
「男子の一番は、また市之瀬だろうなあ」
女の子がみんな走り終わって、つぎは男の子が走る番だった。
広い校庭なのに使っているのは私たちのクラスだけで、まっすぐに伸びた白いラインの内側を、出席番号順にふたりずつ走る。
市之瀬という名前の男の子がどんな子だったか、思い出せなかった。クラス替えをしたばかりで、女の子の名前もまだみんな覚えていない。男の子なんてなおさら。
でも、数分後に、市之瀬くんのことはすぐに覚えた。
熊井さんの言うとおり、とびぬけて速かったし、おまけにとびぬけて体が小さかったから。
「去年は運動会のリレーの選手にも選ばれてたし、学年でいちばん速いんじゃないかなあ。チビのくせにさ」
憎たらしそうにいう。熊井さんは、市之瀬くんとは一年のときから同じクラスだったらしい。
市之瀬くんは背が低かった。たぶん私と同じくらい。私だって、背が低いほうなのに。
それに比べて熊井さんは、クラスの女の子の中ではいちばん背が高い。六年生の中に混ざっても、ちっともおかしくない。
その日をきっかけに、私は熊井さんと仲良くなった。熊井さんの下の名前は梨都子という。りっちゃん、と呼んだ。
「紗月ちゃんは、走るのはあんなに速いのに、ほかは全然ダメだねえー」
りっちゃんには、よくそう言ってからかわれた。
確かに走ること以外、私は何をやってもどんくさい。団体競技はとくに苦手で、すぐおろおろして、いつもみんなに迷惑をかけてしまう。
りっちゃんは、いわゆる運動神経抜群な子で、鉄棒も跳び箱もサッカーもバスケットボールも水泳も、スポーツはなんでも上手にやってのけた。クラスの女の子で、りっちゃんにかなう子はいなかった。
そして同じく、クラスの男の子の中でいちばん運動ができるのは、市之瀬くんだった。
だからきっと、りっちゃんはちょっとした対抗心みたいなものを、市之瀬くんに抱いていたのだと思う。何かするたびに、市之瀬くんをライバル視していた。
たぶん、市之瀬くんの、感情が顔や態度に出ないところにも、りっちゃんがぷりぷりする原因の一端があったんだと思う。
負けず嫌いで、いつも一番になることにこだわっていて、喜んだり怒ったり悔しがったり、感情全開のりっちゃんとは、正反対だったから。
私は、市之瀬くんのことはよく知らなかった。
りっちゃんはお兄さんが二人もいて、男の子とケンカしたりふざけたりすることも、あたりまえみたいに自然にできる。でも、ひとりっ子の私は男の子が苦手だった。
当然、市之瀬くんともしゃべったことがない。
足が速くて、小さくて、男の子なのにかわいい顔をしていて、髪が茶色くてふわんとしてる、というくらいの印象だった。そのときまでは。
あれは確か、校庭の掃除当番のときだったと思う。
女の子は私とりっちゃんを含めて四人、男の子は市之瀬くんを含めて四人いて、八人で校庭の掃き掃除をしていた。
ちょうど、桜が青い葉を茂らせる季節だった。校庭にはたくさんの桜の木が植えられていて、そのどれにも、もさもさした毛虫がたくさんついていた。
最初はまじめにやっていたのに、そのうち掃除に飽きた男の子たちが、毛虫取りに夢中になりだした。掃除なんてそっちのけで、取った毛虫を投げつけ合ったりしている。
「男子って、なんであんなにバカなんだろうね」
りっちゃんが呆れて、大人びた口調で言った。
その声が、聞こえたらしい。男の子のひとりが、「くらえ!」と叫んでこっちに毛虫を投げてきた。
「きゃー!」
「やだーっ」
みんな、必死で逃げた。
逃げている途中で、りっちゃんが私の背中を見て叫んだ。
「毛虫、ついてる!」
りっちゃんの顔は、見たこともないほど恐怖にゆがんでいて、じりじりと私から離れていく。
「やだ、取って、ねえ」
私は懸命にりっちゃんにすがった。でも、りっちゃんは私にくるりと背中を向けて、いちもくさんに走って逃げた。
「取ってよ! りっちゃん!」
大きな声で頼んでも、女の子たちは遠く離れたところから私を見守るだけで、ちっとも近づいてこない。りっちゃんなんて、校庭の端っこまで逃げてしまっている。
「取ってよー」
私が近づこうとすると、みんな走って逃げていく。
私は半分、泣き出していた。
「加島」
ふと気づくと、毛虫合戦には参加していなかった──でも掃除はさぼっていた──市之瀬くんが、そばに立っていた。
「取ってやるから、動くなって」
私が立ち止まってじっとしていると、かすかに背中に指のふれる感触がして、「取れた」と市之瀬くんが言った。
そしてもうすたすたと、私から離れていってしまった。
「あ……ありがとう」
私は半泣きになりながら、なんとかお礼を言った。市之瀬くんは聞こえなかったのか、こっちをふり返らなかった。
「市之瀬って、意外とやさしいねー」
見ると、りっちゃんが隣に立っている。
「りっちゃん、ひどい!」
「ごめーん。だって、毛虫嫌いなんだもん」
「私だって嫌いだよ!」
その日、私はひそかに市之瀬くんの下の名前を調べた。学級名簿に載っていた名前は「郁」だった。市之瀬郁。なんて読むんだろう。
それから私は、市之瀬くんのことを、よく見るようになった。