1
故郷の冬は、今年も穏やかだった。
こんなに空が広かったっけ、と電車の中から窓の外を見て思う。
何年たっても、高層ビルや高層マンションとは縁のない町。あるのは山と、川と、お寺と神社と遺跡。そしてたくさんのクスノキ。
神尾山地の北端が市域のほとんどを占める、人口約三万人の雛条市。山地の西麓にたたずむ古い町が、私の生まれたところだ。
山の稜線と平行して走る電車の窓の向こうには、冬枯れの澪入山が見える。
澪入山は、神尾山脈の一部をなす、標高四百メートルほどの山。
山頂には戦国武将が築いたと言われる城跡があり、桜と紅葉の名所としても名高い。その季節になると、各地から大勢のハイカーが訪れる。
けれど、この町で最も有名なのは、山の奥深くにたたずむ伝説のクスノキ。
雛条は、“クスノキと出会えるまち”というキャッチフレーズが示す通り、いたるところにクスノキの古木がある町だ。
神社やお寺にあるのはあたりまえ。公園や道路脇はもちろん、駅のホーム、住宅街のど真ん中、学校や病院の中庭にも、たいてい大きなクスノキが生えている。
そして、その中でも最高齢と言われているのが、澪入山の伝説のクスノキなのだった。
樹齢およそ九百年。
私が最後に見たのは、高校三年の秋だった。
今もあの場所で、やさしい静かな音を奏でているのかな。
冬空の下の澪入山を見て、私は思いをはせる。
朝の天気予報では、午後から雪が降るようなことを言っていた。確かに寒いけれど、見たところそんな気配はなさそうだ。
雛条の市街地は典型的な瀬戸内式気候で、一年を通じて安定している。冬も比較的穏やかで、雪が降ることはめったにない。
カーブを描いたレールの上を、電車がわずかに傾きながら走る。左手に見えていた神尾山脈が、後ろに遠ざかっていく。西に進路を変えた急行列車は、徐々に速度を上げる。
このまま三十分ほど急行列車に乗って西に向かえば、人口十四万人の大都市、『上滝』の市街地に辿り着く。けれど、今日はそこまで行かず、私は次の停車駅で電車を降りた。
山はわずかに遠のいてシルエットになっているけれど、ここも都会と呼ぶにはほど遠い。
それでも駅前には大きなバスのロータリーがあり、映画館やスポーツクラブなどが併設された大型ショッピングセンターがあり、居酒屋やコンビニが軒を連ね、こじんまりとしたビジネスホテルが建っている。
高校時代、友達と「遊びに行く」と言ったら決まってこの町だったことを思い出して、私はわずかに頬をゆるめた。あの頃の世界というのは、本当に狭かったんだなあと思う。
電車の窓に、うっすらと自分の顔が映りこんでいる。
でも。
変わったのは外の世界だけで、私自身は何も変わっていないのかもしれない。
電車を降りると、枯葉の匂いのする冷たい風が、ホームを渡った。せっかく早起きしてセットした髪が乱れてしまわないかと、心配になる。
「紗月、こっち」
駅の改札を出たところで、高校時代のクラスメイトだった松川亜衣が手を振っていた。私は笑顔になって、数ヶ月ぶりに会う友人に駆けよる。
「久しぶりー」
「元気だった?」
まっ先に口から出たのはそんな言葉で、それから、お互いにはっとして。
「あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」
他人行儀に、年始の挨拶をする。ちょっと照れながら。
亜衣は高校を卒業したあと地元の短大に進み、上滝市内の食品会社に就職した。
卒業後に故郷を離れた私とは、お正月とかお盆とか、私が実家に帰ってくる機会にしか会えないけれど、七年たった今でも付き合いが続いている数少ない友人のひとり。
「いつ帰ってきたの?」
歩きながら、亜衣が聞く。
「大晦日。明日の午後には帰るつもり」
仕事始めは四日で、あまりゆっくりしている時間がない。
「今日の同窓会に集まるのって、何人くらい?」
今度は私が聞く。
「百人くらいかなあ」
首を傾げる亜衣の横顔を見て、ますますきれいになったなあと思う。
小さく整った丸い顔は透き通るように白くて、ふくよかな頬はほんのり赤く染まっている。腰まで伸びた長い髪は、ゆるふわのウェーブヘア。
高一の春に初めて会ったときの彼女は、真っ黒に日焼けしていて髪もベリーショートで、まるで男の子みたいだった。
私たちが通っていた雛条高校──通称“雛高”(ひなこう)は、市内にある唯一の高校だ。標高三百メートル、澪入山を越えた山地の中腹にある。
「うちのクラスはまあまあ優秀だよ。健吾が脅したから」
亜衣が楽しげに言う。
「なんて?」
「出席しなかったら行方不明者リストに載せるって」
笑いながら、ふたりで横断歩道を渡る。会場のビジネスホテルまでは徒歩十分。
有村健吾くんは亜衣と同じく雛高の同級生で、今回の同窓会の幹事だ。彼も上滝市内の会社に勤めている。
ちなみに有村くんと亜衣は、高校時代、野球部副キャプテンとマネージャーという関係だった。紆余曲折の末にふたりが付き合い始めたのは、卒業式の後。
で、有村くんが幹事をしているってことは、たぶん。
「市之瀬が副幹事らしいんだけどさー」
亜衣が言う。やっぱり。
「本人は嫌がってたらしいんだけど、健吾が無理やり頼んだみたいで」
やっぱり。
「なんか、しぶしぶ引き受けたっぽいんだよね」
……やっぱり。
「だいたい市之瀬って、昔から協力的じゃなかったもんねー。体育祭とか雛高祭とか、学校行事になると、さぼりたがってさあ。なーんか、そういうの馬鹿にしてたっぽいよね」
「えっ、違うよ」
私が思わず反論すると、亜衣は面食らった顔をした。
「市之瀬くんはただ……ちょっとめんどくさがりなだけで、馬鹿にしてたわけじゃないと思う」
亜衣は不思議そうに首をかしげて、「ふーん、そうなんだ?」と言う。
「そう言えば、紗月と市之瀬って幼なじみだったっけ」
うん、と私がうなずくと、亜衣は興味深そうに私を見た。
「市之瀬って、昔っからあんななの?」
「あんなって?」
「つまり……冷めてるって言うか、飄々としてるって言うか、表情がないって言うか、感情がないって言うか」
私は考えこんでしまった。
確かにそう見えるかもしれない。でも、私の印象はちょっと違う。それを説明しても、わかってもらえなさそうな気がする。それに……。
何を話しても、私の気持ちが──ずっと隠してきた気持ちが、伝わってしまいそうで。どう話せば、自然に、普通に、ただの幼なじみに聞こえるのか、わからなかった。