時限の喪失者
暗暦2453年。
九州は、忽然と地図から消えた。
島があった場所には、今や巨大な滝壺があるのみ。どんな物理的接触を試みようにも、近づくことすらできず、完全なる不可侵領域と化した。
どうして九州が、なんの前触れもなく消えてしまったのか。そしてその日を境に《能力》を操る人知を超えた能力者が、世界各地で生まれたのか。
それは未だに謎に包まれたままだった。
――・――・――・――・――・――・――・――・――・――・――・――・――・――・――・――・――・
「ごふっ!!」
鳥島焔は吹っ飛ばされていた。
地下駐車場の壁に激突するも、なんとか受け身を取るがそれでも衝撃を殺しきれなかった。
それゆえに反応は遅れてしまった。
前のめりに倒れそうになりながらも、なんとか両眼の前で両手を交差するが、
「があっ!!」
腹部に肘鉄を喰らってしまい、口元から涎を垂らす。鳥島はぶん、と裏拳で撃退しようとするが、あっさりと黒服の敵は後ろに退き、空振りにさせた。
「……この程度ですか、鳥島焔」
ガスマスクを被ったまま話しかけてくるそいつは、全身黒服。身体の隆起するシルエットからなんとか女と判別できるぐらいで、徹底した素性の隠蔽が見受けられる。
「安心しろよ。今から……この俺様がお前に逆転してやるからな」
息も絶え絶えになりながらも、鳥島は男の意地とばかりに去勢を張る。
それがカンに障ったのか、女の纏っていた殺気が膨れ上がる。
「どうやって! どうやってですか!」
女は、握った拳を容赦なく鳥島の顔面に叩き込んでいく。言葉に篭った怒気とともに、エスカレートしながら……徹底的に。
「あなたは自分の《能力》すら思い出せず、味方なんて一人もいない。勝機どころか、あなたには命運すら絶無だということは、先の戦闘で骨身に沁みたはず。それなのに、なんですかその目は! その表情は! その虚言は!」
女は、ギリッと歯ぎしりを鳴らす。
「……いい加減吐いてもらいますよ。《鍵》の所在。……そしてその使用法を」
鳥島は首を絞められ呻くが、女は同情などせずにそのまま上に持ち上げていく。
ジタバタと藻掻くが、抵抗すればするほどに一層力を強める女に抵抗する意志が萎えてくる。
「……これが最後のチャンスです。あなたもこんなところで命を散らしたくはないでしょう?」
鳥島には、庇い立てする理屈なんて存在しなかった。
謎に包まれた組織に、《鍵》と呼ばれる存在。鳥島がその少女と出会ったのはつい先日。それも交わした言葉なんて、とりとめのないものだった。
だけどそれは、鳥島にとってどうしようもなく普通で平凡な温かなものだった。
――私、嬉しかったんです。こんなに人と喋ったのは本当に久しぶりでしたから。
ずっと独りきりでいた俺のところに、突然やってきたそいつは笑っていた。
――これ、ほんとうにおいしいですね。鳥島さんは、絶対にいい主夫になれますよ!
どれだけ辛いか顔に出さず、懸命に運命に抗っていた。
――私、本当は死にたくないんです。……それがただの私の我侭だっとしても、あなたのおかげで「生きたい」って思えたんですよ。
俺を巻き込まないがために、一人で逃げ出そうとした。
――ありがとうございました。もう十分です。その……私にもやっとできたんです。……守りたいものが。
最後の最後まで、赤の他人である鳥島のためにその身を投げ出そうとした。
……その末路がたとえ、自らの破滅を意味していたとしても。
それが理解できていても、それでも少女は涙を見せることはなかった。
だから、
「知らねぇよ……ばーか……」
鳥島もたった一人の少女の笑顔を守りぬくために、命をかけた。
どれだけ無謀でも、それでもずっと孤独という闇の底に沈んでいた鳥島にとってそれは――。
きっと、当たり前のことだった。
「失せろ……クソ女……」
プッと、鳥島は唾を吐き捨てる。
ガスマスクの女は憤怒ともとれると息を漏らすと、そのまま頸骨に力を込める。
ゴキッ、という不快な音が響く。
女が手を放すと、鳥島はずるずると壁に身体をこすりながら倒れ伏し、ピクリともしない。ガッガッと、なんどか脇腹を蹴って女が、鳥島の生死を確かめると、
「……死んでしまいましたか。手っ取り早く《鍵》の所在を知りたかったのですが、これでは仕方ありません。どれだけの一般人の命が犠牲になろうと、ここ一帯を焼け野原に変えてでも、必ず探し出してみせます。それが、私たちの『正義』ですから……」
女は踵を返して歩き出す。
その歩きには淀みなく、何もかもが終わったことを示している。
ガスマスクを乱暴に取り、気だるげにそこらに放り投げる。
そして顕になったのは、曇り空のような灰色の髪の毛。全ての景色の色彩を濁すかのような色で、瞳は赤く染まっている。無機質な表情は綺麗すぎて、まるで機械のようだ。
女は懐から無線機を取り出し、応援を呼ぼうとするが、
「――待てよ」
後ろから聞こえてきた声に、女は戸惑いを隠しきれない。
(馬鹿な……。確実に首の骨を折って即死したはず……ただの一介の高校生が、たかだか《能力》をかじった程度の人間が立ち上がってこれるはずが……)
「ああ、あんたのおかげでやっと思い出したよ。これが、俺様の《能力》」
(たしかにおかしいとは思っていた。どうして厳重に封印されていたはずの《鍵》が目覚めたのか。どうやって、一年前の天災から生き残ったのか。こいつはいったい――)
女が振り返ると、そこに立っていたのはさっきまで確かに命の鼓動を停止していた男だった。
「――《無尽蔵の生命》だ――」